第2話 誘拐事件
クラスメイトの女子が話しかけて来た。
……が、だからと言って、そこらの男子みたいに喜び勇んで返答するような紅蓮ではない。
実加と紅蓮のやり取りは、はたから見れば一見微笑ましい光景に見えるのだが、これは違うのだ。
この生意気な女子は、上から目線で「どうせゲームばっかりやってて友達なんていないんだからお情けで仲間に入れてあげるわよ」、と暗にそう言っているのだ。
自覚なんてしてないんだろう。実加はそういう事を平然とできるようには見えなかった。
おそらく、素だ。
気が付いてないで、素でやっている。
だが、だから何だと言う話し。
自分のやってる事を知ろうがするまいが、こちらには関係ない事。
それは紅蓮にとっては非常に迷惑な話だった。
頼んでないのに。
お節介とも言えない、見え透いた世話を焼きに来ないでほしかった。
……だが、そう直接言ったら角が立つだろう。
普段から寄ってくる人間、話しかけてくる人間には言葉を選んでない事に自信がある紅蓮だが、さすがに昨日ちょっとばかり友好的な時間を過ごした相手に、刺々しい言葉を投げつけるのは気が引けたのだ。
「……」
「何よ、文句でもあるの?」
言葉を選んでいると、実加はむっとした様子になってこちらを睨んできた。
態度を見て、紅蓮は悟る。
(断るなんて許さないとか、選択肢の存在しないシーンだこれ)
二つ選択肢があっても、物語上に都合の良い方をプレイヤーが選ぶまで延々と会話がループするという、何か昔やったゲームの一場面が頭に浮かんできた。
「はぁ、……悪いけど」
「はぁ? 今はぁって言った? 何よその態度は、せかっく誘ってあげてるのに、どうせ友達いないんでしょ、アンタ」
実加は声を高くして言葉を返してくる。
(あ、こいつ本音隠さないタイプだ)
頭が空っぽそうな言葉を聞いて、色々慣れない気を回そうとした事に脱力しそうになる。話してると調子が狂いそうだった。
「いっつもいっつも、いーっつもアンタって授業が終わったら一人でさっさと帰っちゃうし、放課中も気がついたらふらっといなくなってるし、そんなにゲームが楽しいの?」
「お前みたいな頭すっからかんの奴と話してるよりは」
よっぽど。
「ひねくれてる!」
悪かったな。
「なによ!」
偉そうに声をかけてきたり、訝しそうにしたり、憤慨したり、叫んだり。実加は、中々忙しそうな奴だった。こういうのを、百面相と言うのだろうか。
実加は紅蓮の目の前で、八つ当たりに近くに立っていた交通標識の根本を蹴った。……あ、痛がってる。馬鹿だ。
「っっ――――!」
涙目になりながら交通標識からのダメージに必死に耐えているクラスメイト女子を眺めながら、紅蓮は考える。
今まで他の人間は、絶えず一人でいたがる紅蓮などには興味を示さないものだと思っていたのだが、そうじゃない人間もいたらしい。実加は……、なかなか変わった人間のようだ。
ふと、そんな風に珍奇な珍生物観察をしていると、景色に違和感を覚えた。
わざわざ説明する事でもないが、いま季節は冬だ。
木枯らしの音が響き、時折雲からから雪がちらついたり、吐く息が白くなったりするあの冬。
けれど、実加の背後に見えたのだ。
この時期にはありえないもの。
寒く凍えた通学路に起きる、蜃気楼を。
「おい」
「何よ」
違和感を覚えて、ぶすむくれた顔をした不細工風女子に、背後を振り返る様にと指さしてやる。
紅蓮の不可解そうな表情に気が付いたのだろう。
実加は示される方へと視線を追っていって、振り向いたその先で見た景色に息を呑んだ。
「……っ、なにこれ」
一瞬後に先程までの勢いが嘘みたいにかすれた声が、漏れ出るのが聞こえた。
紅蓮達の視線の先では、数メートル先にある景色が揺らいでいたからだ。
ゆらゆら、何て生易しい物じゃない。
いや、先程まではそうだった。
風に揺れる水面の様にゆっくり穏やかに揺らいでいた。
……だというのに、段々と激しさを増して、その向こうに見える景色をかき乱すが如く、ぐらりぐらりと揺れが強くなっている。
「なん、なのよ……」
声に不安を滲ませて実加が後ずさって来る。そんな声も出せるのか。いつも偉そうな声しか聞いてないから意外に思った。……そんなどうでもいい事、考えてる場合じゃないだろ。
蜃気楼は問いを発する。
「少年、人を殺してみたくはないか?」
生物でもないそれが、はっきりと空気を震わせて男の声で、だ。
周囲に、紅蓮達以外の人の気配はない。
どこかに隠れていると言うわけでもなさそうだった。
なぜならその声の発生源は、どう考えても真正面……蜃気楼のある方向からしているからだ。
「人を、殺してみたくはないか……?」
再度同じ問い。
喉が渇く。
眩暈がしそうだ。
意味が分からない。
見ている景色は本物?
これは本当に現実なのだろうか。
蜃気楼が、男の声で喋って人に語りかけるなど。
正気を疑う。紅蓮は今正常か、睡眠を取ってはいないか。あるいは知らずに摂取した幻覚剤なんかの副作用でもないのか。
考え付く限りのありとあらゆる可能性を考えた。
だがそれは、疑いようもなく、気のせいでは済まされないくらいの真実味を持って、確かにそこに存在していた。
存在して、しまっていた……。
「実加、おい実加」
時が止まってしまったかのように硬直しているクラスメイト……怯えている実加の背中に向けて声をかける。
「っ、ぁ……」
だが、彼女はまともな反応を返せない。
恐怖のあまり声が出ないのか、すがる様な視線だけが返って来た。
「防犯ブザー持ってるか?」
泣きそうな顔でくしゃっと顔を歪められて、首を振られる。
それくらいで絶望したような顔をするな、と言いたい。
返ってきた反応を見たその後で、紅蓮ははたして実加に何と言おうとしたのか。
たぶん叫べ、とか走れとかそんな至極当たり前の、けれど異常事態に放り込まれた少女からしたらとっさに躊躇なく行動には移せないだろう、そんな指示だったと思う。
だがそれらの行動を起こす事は、出来たとしても結局は叶わなかった。
なぜなら、
「――――っ!」
刹那。
瞬き程すら叶わないすら一瞬の間に……、
こちらへと延びてくる景色の歪み……蜃気楼の魔手に絡めとられて、意識を失ってしまったのだから。
意識の深みから声がかかる。
――――人を殺したいと思うかい?
「そんなのいつも殺してるよ」
そして、紅蓮達は悪夢の始まりの場所へと堕とされる。
どうしようもない遊戯の場に、命が何かを知らず、蟻を踏みつぶして遊ぶような……そんな幼児が持ち合わせる、純粋な悪意に満ちているだろう暗き迷宮の、その入口へ――――。