イイ時間に予約掲載すれば閲覧者やタレこみが増える、きっとそうだ、そうに違いない。オマケ付
テスト版が動機と企画に詳しい
惰性を以て投稿していくことを覚悟した
いま書くつもりではなかったけど、ものはついでだ。以下に雑記としてアイデアを一つ消化させてもらう。
『記憶の改竄・捏造と既視感』
今朝のことだ。私は夢を見た。内容についてはなんでもないような夢。しかし、私はその夢の性質に慄然とした。記憶とは斯くも危ういものなのかと。
どこかで見たような顔、少ししてその人に関する思い出が想起され、「あー、あの人か」と納得した。
夢から覚めて十数分の間、「確かにそんなこともあったなー」なんて思考を巡らせていた。
――多摩センかー。懐かしいなぁ。あれ、でも多摩センで掛け持ちバイトしてたはずないなぁ、夜勤だったからそんなん無理だ……。そもそも、回転寿司で働いたことなくないか?
……え、じゃぁ誰!?――
記憶の改竄と捏造に気づいた瞬間、恐怖はこうして文章に残す衝動となった。
いま思えば、全く見たことがない顔に、思い出は存在しえない経験。
夢から覚めて次第に夢自体の記憶が薄まっていくから気づけたわけだ。
ところで、夢だろうが現実だろうが記憶は薄まる。では何故、人は夢を夢と認識できているのか。
その問いに対する答えは、「疑似連続性」の有無が鍵となろう。
現実世界は途切れなく連続している。しかし、それは人間の錯覚だ。実際は、睡眠によって意識は寸断され、夢があいだに割り込んでくる。私たちが認識する現実の記憶とは、断続的経験の寄せ集めなのだ。偶々、断片どうしに関連・繋がりがあるからこそ本物であると断定できているに過ぎない。
連続していないのに連続していると思わせる。私はそれを「疑似連続性」と名付けた。
対して夢の記憶についてだが、夢を見ることが断続的なのはいわずもがな、その断片に関連性・繋がりはないのだ。前の夢の続きを見ることなどほぼ皆無ゆえ。
夢は途切れている。夢には疑似連続性が無いと言えよう。
――つづく
「夢を信じるな」
オマケのつづきは次回更新時
現実と虚構は紙一重
少し前から夢を信じないって決めてたから牙を剥いたのだろうと思う、そんな夢だった
こわい
いつか構図が反転するのかもしれない
私たちは「現在」にしか生きていない
胆銘だよまったく
どうでもいいが48kgで安定してて萎える
太ればいいか、痩せればいいか、意思決定できない