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エピローグ 汚れた白薔薇は無垢な蕾へと

これがアンサー




 


 ──ぴちょん。


 水滴が表面張力の限界に達し、重力に従って天井から床へと滴り落ちる。


 街の雑踏の中では掻き消されるであろうその小さな音は、静寂に満ちたその部屋の中では、やけに大きな音として響いた。


「ん、んん……」


 目覚めるきっかけとは小さなものだ。

 重い瞼をうっすらと開いて、微睡むようにアンネマリー・エル・ラージーンは目を覚ました。


 薄暗い部屋だった。

 空気は黴臭かびくさく、じっとりと重い。肌にまとわりつくような陰気が不快だ。

 明かりはアンネマリーの側で揺らめく蝋燭の炎しか無く、部屋の隅に何かがいたとしても見通すことは出来ないだろう。

 半ばまで溶けた蝋燭が置かれていた燭台は、凝った装飾が為されたものだったが、古びて埃や蜘蛛の巣で汚れている。


「……どこよ、ここ」


 黴の匂いに噎せるようにくしゃみを数度して、アンネマリーはそう呟いた。ぼうっと蝋燭の灯りを見ていると、意識が段々と覚醒し始める。


「っ、何よこれ!?」


 彼女は立ち上がろうとして、身動きが出来ない事に気付いた。

 どうやらアンネマリーは背もたれの大きな椅子に座らされていたようだ。

 肘掛に置かれた腕を動かそうとしてもガチャガチャと音がするだけで、ビクともしない。

 二の腕は比較的自由に動かす事が出来たが、肘から先は何かに固定されているようだ。


 次第に夜目が利くようになってきたアンネマリーは、自身が椅子に座らされ、拘束されている事に気付く。


「何よ……何よコレェッ!」


 まるで拷問椅子のようだ、とアンネマリーは思った。

 腕は金属の手枷で固定され、身体は幾多もの分厚い皮のベルトで締めつけられている。

 それらはどんなに暴れても、軋む音を立てるだけで、解けたりする様子は一切無い。


 ひとしきり暴れたアンネマリーは、どうやってもここから動く事は出来ない事を悟る。


「何よ……何で、私が」


 激しく動こうとしたせいで息が上がっていた。

 荒くなった呼吸を落ち着けようと、深く息を吐き、そして吸うこと数回。


 未だに少しばかりパニックを引き摺っているものの、少しは冷静になったのか、辺りを見回す。

 ぶつぶつと呟きながら周囲に目を凝らす彼女の姿は、少し異様でもあった。


「ほんと、何処よここ……何かのイベント?でも私はこんなの知らない……隠しイベ?あり得るかも。そうすると、どこでフラグを踏んだ?」


 そこでアンネマリーは、自分がどういった経緯でこの場所にいるのかを考え始める。己の覚えている最後の記憶は、一体なんだったのだろうか。


「ぎ、つぅっ!………ッ」


 ずきりとこめかみが痛んだ。

 咄嗟に頭に手をやろうとするが、手枷がガチャリというだけで腕が上がる事は無い。


「クソッ……クソクソクソぉッ!」


 苛立ちに身をよじるが、当然動く事は出来なかった。

 ずきんずきんと脈打つような痛みは、まるで頭蓋骨に釘を打ち付けられているかのように脳味噌に響く。ぶわっと噴き出る脂汗が、輪をかけて不快だ。


「ふゥーーッ、ふゥーーッ、ふゥーーッ、ッ……」


 肘掛に爪を突き立てながら我慢していると、次第に痛みの波は引いていった。


 再び荒くなってしまった息を整えようとして噎せながらも、アンネマリーはクソッ、一体なんだってのよ、と独り言ちた。


 それは、唐突な頭痛に対してのものなのか、それとも。


 アンネマリーは背中の汗が、急速に冷えていくのを感じた。


「思い出せない……」


 自分が意識を手放す直前の記憶はおろか、それ以前の記憶までもが、ぽっかりと抜け落ちてしまっていた。思い出そうとしても、記憶は靄がかかったかのように遠退いてゆき、再びじりじりと痛みがぶり返してくる。


 最後に覚えているのは大聖殿の一室でシャルランテに会った辺りか。

 そこから今に至るまで、何日か日を跨いでいることは分かる。しかし、その間に何があったかが全く思い出せなかった。


 一体自分に何があったのだろうか。

 自らを構成する要素の一つが無くなってしまっている事に、アンネマリーは薄ら寒い恐怖を感じた。


「わ、わたしはアンネマリー・エル・ラージーン……性別は女……年は十四歳、聖歴五十四年生まれ……父はケアル・エル・ラージーン、母は……わたしは、ラージーン王国公爵令嬢で……」


 確かめるように、“自分”を言葉にする。


 誰もいない、自分一人の部屋で。その自分さえも見失いかけている。

 それは、“自分”という存在の危機に、本能的に自己防衛が働いた姿だったのだろう。


「私は転生者……この世界はゲームの中の物語……ゲームの名前は……?年齢は、前世と今世を合わせて、四十九歳……前世で住んでいた場所は………私の前世の名前は……ああああアアッ!!!」


 思い出せない。

 記憶が、今まで生きてきた己の軌跡が、所々失われている。

 ──アンネマリーという存在が、崩壊していく。


「ああ、ああああああ」


 頭を掻きむしりたい衝動に駆られる。

 動けない。爪を突き立てる。

 がりがりと掻き、爪が剥がれる。厭わない。構わずに、さらに掻き毟る。


「何で……何で何で何で何デナンデナンデナンデ」


 目を零れ落ちそうなほど見開いたまま、アンネマリーは声を出し続けた。




 がちゃり、と音がした。

 項垂れていたアンネマリーが頭を上げると、前方のやや上の方に光のスリットが入っていた。

 とっくに蝋燭は燃え尽きており、真暗闇の中一筋の光だけが褐色の少女の顔を半分だけ照らした。


 軋んだ音を立てて光は大きくなっていく。

 それが部屋の扉が開いているのだと、アンネマリーが理解するまでに数瞬の時間を要した。


 扉が開くと、一人の人間が、火を灯した蝋燭と小さな椅子を持ってゆっくりと階段を降りてくる。

 扉があんなに上にあるのだから、ここは地下室なのかもしれない、とぼんやりとアンネマリーは考えた。


 その人間は灰色の外套を羽織っていたため体型が分かりづらかったが、歩き方からして恐らくは男だろう。


 男はフードは被ってはいなかった。だが奇妙な事に、その顔をアンネマリーが認識する事は出来なかった。見えない訳では無い。男の手に持つ蝋燭で、男自身の顔は照らされている。だが、認識する事が出来ない。

 顔の無い男。それが彼女の男に対する印象だった。


 男に続いて、もう一人の人間が扉から入ってきた。

 今度は女だ。起伏の乏しい体型だが、同じ女だからか、わかる。


 女は黒い服を着ていた。後ろを向いて扉を閉めた女が振り向くと、黒いジャケットの下に白いシャツを着ている事が分かった。見覚えのある服だ。仕立ての良い、燕尾服のような、服。


 暗がりから女が出てきて、はっきりと女の顔が見えた。


 その顔を、アンネマリーは知っていた。


「あ、ぁ……あ、あ、あ……」


 掠れた声を上げるアンネマリーに、女はにこりと笑った。


「お久しぶりです、お嬢様」


 その瞬間、ダムが決壊するような勢いでアンネマリーの脳内に映像がフラッシュバックする。


 微笑む顔、喜ぶ声、そして激烈な痛みと共に腹に突き込まれた拳。

 嗤う瞳は黒に染まり、虹彩の奥で蝙蝠が飛び───


「ぁ、ああアアアアアァァ!!おまえぇェェ!おまえェェッ!ミストぉぉぉぉぉッ!裏切ったな、わたしが拾ってやった恩も忘れて!!薄汚い犬っころの分際で───この、このわたしを、裏切ったなァァァッッ!!こ、ころすっ、ころしてやるぅぁぁァァァッ!!」


 獣の様に目を血走らせて吠えるアンネマリーに、女──ミストは眉をはの字に寄せて口を開いた。


「裏切ったとは失敬な。貴女よりも何十倍も素晴らしい、私が仕えるべき方を見つけただけです」

「ああああアアアア!ころすっ、ころしてやる……ッッァァ!!ぜったいに、ぜったいにッ!!」


 なおも叫び続けるアンネマリーを見て、顔の無い男が肩を竦めた。


「段々情緒が不安定になってきたな。……ミスト、静かにさせろ」

「はい、主様」


 そして紫電が走った。


「あがッ……!」


 ミストの仕業だ。

 雷はアンネマリーの肌を焼かない程度の絶妙な力加減で彼女の体を流れ、麻痺させる。

 その様子は、地球でのスタンガンそっくりだった。


「オーケー。良い腕前だ」

「有難きお言葉」


 ミストの雷は継続的に走り続け、アンネマリーを痺れさせ続けている。

 何も喋る事の出来なくなったアンネマリーを他所に、顔の無い男は脱いだ外套をミストに渡し、緩慢な動きでアンネマリーの方へと向き直った。


 男は手慣れた動作で燭台の蝋燭を取り替え、手に持った椅子を置いてその上に座る。


「何で自分がこんな目に、って顔してるな?」


 口端を釣り上げるように、口を開いた。


「わかるぜ。毎回・・そう・・だからな。()()()()()()()()()()()()?だから、俺も言うことにしてるんだわ。『言っておくが、これは“隠しイベント”でも何でもないぞ』ってな」


 アンネマリーが目を見開いた。

 この男はこの世界ゲームの事を知っているのか。まさか、転生者なのか。そんな疑問が次々と脳裏をよぎる。


「あぁ、俺は転生者とかいうのじゃないから。このやり取りは七回目・・・だから、もういい。現状、お前の言うことを俺はほぼ信じていない」


 何の話だ。アンネマリーはそう言おうとするが、顎すら動かす事も出来ない。

 憎しみの視線を二人へ送ると、顔の無い男はけらけらと笑った。


「ひゃは、同情するよ。信頼する部下に裏切られたんだものなァ。そりゃ怒るよな、わかるわかる」


 まあ、全部俺のせいなんだけどな。

 そう言って、ひとしきり笑った男は髪をかきあげた。


「このやり取りは九回目だが、一応自己紹介しておこうか。──つっても、この顔を忘れてなけりゃ言わなくてもわかるだろうけどな」

「………ッッ!!」


 先程まで認識できなかった男の顔が、今は見える。

 黒髪に灰青色の──自分が覚えている中で最新の──いや、最も新しいものから数えて二番目の記憶の中の登場人物。


 従姉妹シャルランテの執事、ハシュウ──橋生輪道がそこに居た。


「お、まだ覚えてるみたいだな。良かった良かった」


 ハシュウは嬉しそうに笑った。


「忘れられるとつまんねぇからさぁ。この、やったのは俺でしたって言う時のお前の表情かお、何度見ても面白いんだもんな」


 くつくつ、と肩を震わせるハシュウ。


(何を、言っているの……この男は)


 何が何だか全くわからない。

 何故ハシュウが、自分を監禁しているのか。

 未知なるものに対して怯えるように、弱々しくアンネマリーは微かに首を振った。


(何で、何で……わたしが、こんな目に)


「ひゃははっ。また、何で私がって顔してるよ、お前。いっつもそうだよなァ?自分は全く悪くないって信じ込んでる」


 ハシュウはいつの間にか、奇妙な物体を片手に持っている。手慰みに弄ばれるそれは、青黒い、直方体を組み合わせたものだ。

 ハシュウはその物体を、回転させながら宙に放り投げる。


「教えてやるよ。お前は俺をムカつかせた。俺は、ムカついた奴は徹底的に痛めつけなきゃ気が済まねぇんだわ」


 落ちて来たその物体をハシュウが片手で掴み取ると、その手の指の間から、百足などの無数の蟲が零れ落ちた。


「ひっ」


 痺れた体でも悲鳴は出るようだった。

 思うように動かない身体に鞭打って、身をよじりハシュウから距離を取ろうとするが、当然それは叶わない。


 ハシュウの眼が妖しく瞬いた。

 アンネマリーの肌に、蠱毒のタトゥーが浮かび上がる。


「か、はッッ!!?」


 声も出せぬ程の激痛が少女を襲った。

 それを敢えて言葉にするならば、身体の内側から力づくで、根こそぎこそぎ取るように肉を引きちぎられる感覚だ。


 痛みと同時に、腹の奥から何かが喉までせり上がってくる。


「うぷっ」


 堪え切れずにそれを吐き出す。

 口腔から飛び出たその何かは、アンネマリーの唾液でてらてらと濡れた光を放ちながら、痙攣するように動いた。

 地面に落ちたそれを見て、ハシュウがのんびりとした口調で言った。


「おお、赤舌蜥蜴だ。いいねぇ、レア物だ」


 それは六足の蜥蜴だ。

 全身が青黒いいぼで覆われた、盲目の蜥蜴。疣の一つが潰れて、中から臭気を放つ胆汁の様な液体が流れる。

 その液体は地下室の床を溶かし、蜥蜴は赤い舌をちろちろと出してけけけと笑った。


「ひ、ひィッ!?」


 悍ましい光景だった。

 未だに蜥蜴とアンネマリーの間で糸を引く唾液が、ゆっくりと滑るようにして地面に落ちた。


「さーて、検診の時間だ。質問にはハッキリ答えろよ?答えない場合は、殺すからな?」


 にっこりとしてハシュウは口を開いた。

 有無を言わさぬ態度は、アンネマリーに拒否という選択肢を与えない。

 ミストが無言で雷を操作した。


「まずは、お前は、誰だ?」

「あ……あ、ん……あんね、まりー、える、らーじーん」


 雷が引き、段々と首から上は動かせるようになった。アンネマリーはたどたどしい口調で、怯えた声を出す。


「年齢は?」

「じ、ゅうよん、さい」

「住まいは?」

「らーじーん、おうこく」

「父の名前は?」


 父の名前は……何だったか。

 アンネマリーは、自身の記憶が霞んでいくことに気づいた。


 喉が乾く。やけに掠れた声が出た。


「ぁ………?わか、らない……」

「よろしい」


 ハシュウはミストの方に振り向いた。


は覚えてたよな?」

「はい。そのように記憶しております」

「オッケーオッケー。ついに、自分の出自までわかんなくなったのはウケるわ」


 父の名前は何だったか。母の名前も思い出せない。

 わたしは、わたしは。


「わた、しは……こうしゃく、れいじょう……」


 その言葉を聞いたハシュウは、堪え切れないと言わんばかりに肩を震わせた後、噴き出すように笑った。


「くく、く……あっはっは!自分の親の名前も忘れたのに、自分の地位だけは覚えてんのか!その地位が親によるものの癖に、親すら忘れた分際で!ひゃは、ひゃはははははは!!とんだ不孝者だなァ!?」

「ぐぎッ……ご、ごぽッ」


 再び内を抉るような激痛がして、アンネマリーはまた何かを吐瀉した。

 次に出てきたのは、緑色の百足と、まだら模様の針金虫だった。


「はぁッ、はぁッ、はぁッ」


 視界が揺れる。

 気持ち悪い。


 ──何故自分は、ここにいる?


 女が視界に入る。


 あれは、誰だ。


 ミストだ。裏切り者の、ミストだ。

 アンネマリーは吼えた。


「ぁ、ああアアアアアァァ!!おまえぇェェ!おまえェェッ!ミストぉぉぉぉぉッ!うらぎったな、わたしが拾ってやったおんもわすれて!!うす汚い犬っころの分際で───この、このわたしを、裏切ったなァァァッッ!!こ、ころすっ、ころしてやるぅぁぁァァァッ!!」


 途端にハシュウは白けた顔になった。


「チッ、直前の記憶が抜けたか。前回も、前々回もそうだったな。同じセリフばっか吐きやがって、つまんねぇ……ミスト」

「はい」

「ぎッ……!!」


 ミストが雷を再び飛ばし、アンネマリーを強制的に黙らせる。

 ハシュウはそれを見ながら手元の青黒い物体を弄び、半ば独白するかのように言葉を続けた。


 痛みは断続的にアンネマリーを襲う。

 激痛に呻く声すら、もはや出ない。


 声無き声で、絶叫する。


「なぁ、人間の魂って、何処にあると思う?」


 青黒い物体が、回る。

 くるりと捻られた手の上で、踊るように回る。


 さながらそれは、少女の血混じりの悲鳴をバックミュージックにした、優雅なダンスのように。


「わかんねぇよな。脳味噌にあるのか?心臓にあるのか?血のごとく体全身に満ちているのか?俺には想像も付かない」


 蝋燭が揺らめき、蜥蜴が舌をちろりと出した。

 けどな、とハシュウ。


「ひとつだけ分かった事がある。人間の魂と記憶ってのは、密接に繋がってるんだわ」


 それは一方的な関係なのだ、と言う。


 魂は記憶の上位に位置し、魂が喪われたのなら、その分だけ記憶が喪われていくのだ、と。


 その逆は起こらず、圧倒的に魂が上で、記憶が下の関係。

 そのどこまでも差が開いた関係は、アンネマリーとその生殺与奪を握るハシュウとの関係によく似ていた。


「魂が全部無くなっちまった人間ってのは、どうなるんだろうな?ただ単に記憶の全くない人間が出来上がるのか、あっさりと死ぬのか、それとも、植物人間のように生きながら屍となるのか」


 アンネマリーは動こうとした。

 抵抗しようとした。だが無理だ。


「俺は興味が出てきちまったよ。そこで思い付いたのが、これ。すこーしずーつ、すこーしずーつ、死なないように細心の注意を払いながら、魂を削っていくんだ」


 再び激痛がして、喉の奥がせり上がる。


「最後にどうなるかは、お前の記憶が全て無くなった時にわかる」


 ハシュウが、にたりと笑った。

 瞳の奥に写る狂気の象徴が、ぎらりと煌めいた。


「だから、頑張ってくれたまえよ、公爵令嬢殿」







これにて一章完結!


二章についてはまだ殆ど決まってないので、あれです。あれ。

なんとなく大まかにこれがやりたい、というのは決まっているので、さわりだけ投稿するかも知れません。気長にお待ちいただけると幸いです。


らたな

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