罠
後日、服を返しに行くと、申し訳なさそうに出迎えた彼女が、愛結美を部屋に招き入れ、警察から聞いた話をし始めた。
『この前、警察から聞いたんですけど…彼には、私の他に婚約者がいたそうなんです…』
『そうなんですか…』
愛結美は内心ドキドキしていた。
もしかしたら、彼女は何かに感付いたかもしれない。
『私、もしかしたらあなたがその彼女なんじゃって思ったんですけど…彼に聞いたら初対面だったって云うし…』
『じゃあ、彼とはまだ?』
『いいえ…別れました。この部屋も、来週引っ越します。初対面の人に乱暴するような人と、一緒にはいられません。彼は謝ってくれたけど、私はどうしても、女として彼を許す気にはなれないし』
『そうなんですか…』
『気にしないで下さいね…あなたのせいじゃありませんから…第一、あなたは被害者なんです。私、却って良かったと思ってます。婚約者の事も合わせて、結局そう云う人なんだって判りましたから』
愛結美は、本当の事を云いそうになって飲み込んだ。
『兎に角、私はもう彼に会うつもりはありません。あなたとも、きっともう会わないと思います。だから…本当にすみませんでした』
彼女は愛結美に土下座した。
『そんな…もういいんです…結局未遂だったんだし…それより、幸せになって下さいね』
愛結美は彼女の顔を上げさせて微笑んだ。
愛結美が彼女に別れを告げて部屋を出ると、いつの間にか七菜子からメールが入っていた。
【新聞見た!?あいつ、婦女暴行で逮捕されたんだって!】
【えー!何それー!】
【あいつそんな奴だったんだ…何か別れて良かったって感じ(o≧▽゜)o泣いてたのが馬鹿みたい(笑)】
何はともあれ、七菜子が元気になった。
あの女性も、妙に清々しい顔をしていた。
この二人の反応が、愛結美の気持ちを随分軽くした。
でも、愛結美には、まだやらなければならない事があった。
その日、愛結美は彼に会いに警察へ行った。
『あんたが会いに来るなんてな…俺をこんな目に遭わせといて』
『ひとつ、云っておこうと思って』
愛結美は毅然とした態度で彼に向かった。
『私があなたを誘惑したって思ってるみたいだけど、私はあの時、やめてとしか云ってません』
『だから?』
『誤解してるみたいだけど、私はただ、道を聞きたかっただけ。それを、あなたが何故か勘違いした。勝手に車に乗って来たのもあなた。私は、何も云ってませんよ。だからやめてって、云ったでしょ?』
愛結美はそれだけ云うと帰って行った。
でも、その日から毎日彼に会いに行き、『あなたが勝手に誤解しただけ。だから私はやめてって云った』と云い続けた。
何を考えているか判らないが、いい加減うんざりだと云われても、愛結美が来ない日はなかった。
『あんた何考えてんだよ…おかしいんじゃねーの?』
そう云われても尚、『あなたが勝手に勘違いしただけ。私はちゃんと、やめてって、云ったでしょ?』と云い続ける。
それは、彼を怯えさせるには充分だった。
『もう…やめてくれ…寝てても夢にあんたが出て来る…何考えてるか知らないけど…もう…判ったから』
愛結美は彼の次の反応を待った。
『…ごめんなさい…すみませんでした…本当に…本当にごめんなさい』
憔悴しきった彼の顔を見て、愛結美は漸く終わったと思った。
愛結美は、この為に毎日彼に会いに来ていた。
彼を弱らせ、戦意喪失させ、謝罪させる為に、毎日毎日、彼に同じ言葉を唱え続けていたのだ。
ここまですれば、彼はもう、何もしないだろう。
愛結美は彼にニッコリ笑うと、『女を本気にさせるのは、心から愛した時だけにして下さいね』とだけ云って帰った。
愛結美の後ろ姿を見送りながら、彼は心から『女って恐ぇ…』と呟いた。
愛結美が彼の元へ通い続けていた間、七菜子には新しい恋人が出来ていた。
今度の恋人は、七菜子をちゃんと愛している。
愛結美はそう確信した。
残る問題は、自分の事。
結婚するのかしないのか、自分から聡史に迫っておいて、警察に通う事で精一杯になり、結局そのままになっている。
聡史には、忙しくて会えないと云ったきり、連絡もしていない。
もう、きっと駄目だろう…
愛結美は聡史との結婚を諦め、今は仕事に没頭しようと決めた。
【メールだけでもしてみなよ】
心配そうに七菜子がメールして来るが、もうそんな気も起きない。
愛結美は、なるようになればいいとさえ思っていた。
そんな日々の中、愛結美が仕事から帰ると、部屋に灯りが点いている。
消し忘れ?
最近疲れてたからかな…
溜め息をついて玄関の鍵を開けようとした時、ドアがゆっくり開いた。
何!?…誰かいる!
愛結美が驚いて後退りすると、顔を出したのは見慣れた男…恋人の聡史だった。
『おかえり!』
『…何してるの!?』
『何だよ、その顔…来ちゃいけなかったか?』
『そうじゃないけど…来るなら来るって云ってくれないと…強盗かと思うじゃない!』
愛結美の心臓がドキドキしている。
恋人がいるからではなく、本気で強盗かと思ったから。
『帰って来るのが見えたから、驚かせようと思ってな』
『驚かせすぎよ…』
愛結美がフラフラと部屋に入ると、何やらいい匂いが漂っていた。
匂いの素は、台所。
『本当にどうしたの?』
『ちょっとな…もう少しだから、手洗って着替えて来いよ』
『お母さんみたいな事云わないでよ』
愛結美は笑いながら部屋着に着替え、洗面所で化粧を落として手を洗った。
『出来た出来た!あゆ、出来たぞ!』
『美味しそう…』
聡史は、愛結美の為に、愛結美の好物ばかりを作っていた。
海草サラダにペンネのグラタン、野菜のコンソメスープと、炊きたての白いご飯…
『全部一人で作ったの?』
『他に誰かいるか?まずは食べよう』
二人は椅子に座り、食事を始めた。
どれもこれも、愛結美好みの味付けで、お世辞ではなく、本当に美味しかった。
片付けようと立ち上がった愛結美に、恋人は『後で俺がやるよ』と云って再び座らせた。
『今日何か変だよ…』
妙にソワソワしている恋人を見て、愛結美が笑った。
『俺この前、職場の女の子から手相教わったんだよ…見てやるから手出してみな』
愛結美はいぶかしげに、両手を差し出した。
『お前は頑固で頭が固くて、でも頭いいな…』
『ちょっと子供っぽくて…芯がしっかりしてる…あ、でも感情線がグチャグチャだな』
恋人は、勝手な事を云いながら、愛結美の掌を見ている。
『何それ』
聡史は、愛結美が笑い出しても尚、真剣に手相を見ていた。
『結婚線は…あ、これかぁ…よかったな!もうすぐ結婚出来るぞ』
『結婚なんて…誰とよ』
『…俺とに決まってんじゃん』
愛結美はビックリしていた。
何故なら、いつの間にか左手の薬指に、ブリリアントカットのダイヤの指輪がはめられていたからだ。
『嘘…何これ!いつの間に!?』
目を丸くして指輪を見ている愛結美は、次の瞬間、ずっと聞きたかった言葉を聞く事が出来た。
『結婚しよう…会えなくて、凄く寂しかったよ』
『本当?…私でいいの?』
『俺は、愛結美がいい』
愛結美の目から、大粒の涙が溢れた。
もう駄目だと思っていたから、その喜びはやけに大きく、恋人への愛を再確認していた。
『愛結美…ずーっと、俺と一緒にいて下さい…』
恋人に手を握られ、愛結美はあまりムードのないプロポーズを、それでも幸せだと感じた。
『…よろしくお願いします』
その夜、恋人がシャワーを浴びている間に、愛結美は七菜子にメールした。
【今日、やっとプロポーズされた(*^^*)私、結婚します】
七菜子からの返信は早かった。
【うーーそーーー( ̄□ ̄;)!!マージー!?どんな男かお姉さんに見せなさい!】
愛結美は七菜子からのメールに吹き出した。
【今お風呂入ってるから無理】
【フシダラ!!】
七菜子とのメールに笑っていると、恋人がシャワーから出て来た。
不思議がる恋人に事情を話し、二人の写真を撮って、七菜子にメールで送ると【イチャイチャするな!】と云うメールが返って来た。
恋人からのリクエストで、【彼が七菜子の顔見たいって】と送ると、七菜子はとんでもない写真を送って来た。
赤い口紅で、左の頬に『幸せに』、右の頬に『なるのだぁ!』、額には大きなハートを描き、おまけに眉を太く塗り、ラメ付きの長いつけマツゲをして、ドジョウすくいのように、綿棒を下唇で支えて鼻に刺している。
これには愛結美も恋人も、お腹を抱えて笑ってしまった。
【七菜子…もしかして酔ってる?】
【ワイン1本空けちゃった( ̄∇ ̄*)ゞエヘ】
【呑み過ぎだよ!もう寝ちゃいな】
【そうする(笑)愛結美も彼氏と子作りして寝ちゃえ】
このやりとりを、笑いながら見ていた恋人は、『いい友達だな』と云った。