卒業
高校3年になると、愛結美と七菜子は同じクラスになった。
恵里とは、もう校舎さえ違う。
時々恵里を見掛ける事もあったが、恵里はこちらを睨むだけで通り過ぎる。
みんなの記憶には、まだあのレズ事件が残っていた為、その態度が更に恵里を追い詰めて、『物凄く最低な奴』と云うレッテルを貼られていたが、その内、誰もが恵里の事は忘れて行き、平穏な日々になって行った。
本を沢山読んでいた愛結美には、話題の引き出しが沢山あり、頭もいい。
いつもは物静かだが、知識が豊富で比較的穏和な愛結美の周りには、常に人が集まっていた。
でも、その影響を一番受けていたのは、やはり七菜子だろう。
愛結美からいろいろな事を教わり、愛結美ほどではないが、時々は本を読むようにもなった。
愛結美の知識は広くて深く、普段は気にも留めないような事まで知っている。
逆に、七菜子は愛結美が今まで知らなかった楽しみを沢山知っていて、七菜子といると、愛結美は小さな子供に戻ったように、素直な気持ちで笑っていられた。
『愛結美、明るくなったね』
レズ事件の前から愛結美を知る者は、みんながそう云っていた。
学園祭にも修学旅行にも、常に愛結美と七菜子の笑顔があり、『二人のどっちかがいなくても気持ちが悪い』と云う者までいた。
3月、遂に卒業式
朝、妙に晴れがましい気持ちで学校へ行った愛結美は、生まれて初めて卒業式を寂しいと感じていた。
机に置かれている赤い造花のコサージュを胸に着け、一輪の造花のスイートピーを手に持つと、その寂しさが増して行くような気がした。
3年間通ったが、高校生らしかったのは、ほんの少しの間だろう。
それも、七菜子がいたから出来た事。
七菜子がいなければ、自分はもっと違った高校生活で、卒業式も、こんなに寂しくはならなかったかもしれない。
七菜子がくれたものは余りにも大きく、愛結美にとっては一番の宝物。
学園祭では、みんなと一緒に何かを成し遂げる喜びを知った。
修学旅行も卒業旅行も、笑顔で写真に映る自分がいる。
人に寄り添う幸せや、誰かと共にある楽しさ…
青春なんて言葉は、自分には関係のない、時代遅れな言葉だと思っていた。
七菜子がいたから、自分は笑えた。
そんな事が次々と愛結美の脳裏に浮かんだ。
『愛結美!』
思い出に浸っていた愛結美を、クラスメイトの一人が呼び、ただならぬ雰囲気で七菜子や他のクラスメイトが、愛結美を取り囲んだ。
『何?どうしたの?』
いぶかしげな愛結美の顔色を伺うように、七菜子が切り出した。
『恵里が来てるよ…愛結美と話したいみたい…』
『愛結美ちゃん、大丈夫?私が追い払って来ようか?』
『どうする?断る?』
恵里が来ている…
愛結美が教室の入り口を見ると、確かに恵里がいる。
愛結美はゆっくりと立ち上がり、恵里の待つ方に歩いた。
『何かされたら呼んでよ!?』
誰かが後ろで囁いた。
恵里と会うのは、本当に久し振りだ。
3年間、ずっと避けて来た相手が、何故今頃?
恵里は愛結美が近付くと、脅えたような顔で少し後退ったが、愛結美が教室から出る事なく、恵里と一定の距離を保っていたので、複雑な顔をしていた。
『何?』
『愛結美ちゃん…私…』
いつになく口ごもる恵里に、愛結美を呼び寄せたままそこに止まっていたクラスメイトが、恵里を睨みつけながら低い声で云った。
『もうすぐ先生来るんだけど』
愛結美はこんな大勢に守られてる…
ずっと誰とも話さなかったのに…
いったいいつから…
そんな思いが、恵里の中に浮かんでいた。
『愛結美ちゃん…ごめん…』
両手をピッタリと体に着け、体を90度に曲げて、恵里が突然頭を下げた。
これには、愛結美だけでなく、そこにいた全員が驚いていた。
言葉を失い、呆然としている愛結美たちを残し、『それだけ』と云って恵里は去って行った。
『何だあれ…』
『何今の…』
口々にそう云っているのが聞こえた。
唖然としたまま席に戻った愛結美に、『愛結美ちゃん大丈夫?…いろんな意味で…』と云った者がいた。
『恵里なりに考えた結果なのかもね』
七菜子が笑いたいのを我慢しているような顔で云った。
チャイムが鳴り、担任の教師が紺色のスーツ姿で入って来ると、いよいよ卒業式。
造花のスイートピーを持って体育館へ向かい、スイートピーを校長に渡して卒業証書を受け取った。
生徒が手渡したスイートピーは、校長の隣に置かれた硝子の花瓶の中に丁寧に入れられて行き、卒業証書が全員に渡された頃には、豪華な束になっていた。
卒業式が終わって教室へ戻ると、担任教師の最後のホームルームが始まり、解散になった。
愛結美と七菜子は歩きながら、今日の恵里の話や、今までの事をいろいろ話していたが、話ながら、愛結美の目が少しずつ潤んで来ている事に、七菜子は気付いていた。
愛結美の性格上、こんな街中では泣かないだろうと思っていたが、顔を歪ませて必死で我慢している姿を見た七菜子は、愛結美の腕を掴んで、人気のない小さな公園に連れて云った。
『何?どうしたの?』
突然の事に愛結美は面食らってしまったが、七菜子はただ微笑んで、両手を愛結美に差し出した。
『ここならいいでしょ?誰もいないし』
『七菜子?』
訳の判らない愛結美の髪を、七菜子は優しく撫でながら、そのままそっと抱き締めた。
『泣いてもいいんだよ…ずっと我慢してたもんね…泣きたいんなら、泣いちゃいなよ』
七菜子の言葉で、愛結美の目から、ずっと我慢していた涙が一気に溢れ出した。
微かに声を漏らしながら、七菜子にすがりついて泣いている背中を撫でながら、七菜子も涙が溢れて来ていた。
『意地っ張りだよね、愛結美は…そんなに我慢しなくてもいいのにさ』
『七菜子ぉ……』
『よしよし、泣いちゃいな…ずーっと頑張ってたんだもんね…偉かったよ』
七菜子はまるで母親のように、愛結美の髪や背中を優しく撫でてあげた。
『七菜子…ありがとね…ありがとう…』
『気にすんなよ、相棒』
七菜子は自分の涙をそっと拭いながら、愛結美を心ゆくまで泣かせておいた。
こんなに感情を出している愛結美を見るのは初めてだったが、愛結美が何も云わなくても、七菜子にはちゃんと判っていた。
愛結美は、何か理由があって自分の感情をずっと隠していた。
今愛結美が流している涙は、それが全部吹き出している涙でもあるのだろう。
どれ位長い事、心を閉ざしていたのかは判らないが、愛結美はいろんな事を、ずっと一人で我慢していた。
それを自分から云おうとするまでは、何も聞かないでおこう。
恵里はただの友達だったが、今胸で泣いている意地っ張りは、もう立派な親友だ。
だから、大切にしたい…
まだグスグスと鼻を鳴らしている愛結美をベンチに座らせると、七菜子は公園の入り口にある自動販売機から缶ジュースを買って来て渡した。
『…ありがと』
『泣くと喉渇くんだよね…落ち着いた?』
『うん』
愛結美は涙を拭きながらジュースを飲んだ。
冷たく冷えたジュースが、渇いた喉を通って気持ちがいい。
『七菜子…』
『ん?』
『ありがとね…』
『いいって事よ…泣きたい時は、泣きたいだけ泣けばいいんだよ』
『そうじゃなくて…それもだけど…』
愛結美は照れ隠しに鼻をかんだ。
『一緒にいてくれて、ありがとね…凄く楽しかったよ』
『私も、愛結美といれて面白かったよ』
ジュースを飲みながら、二人は暫く、泣きながら笑い合っていた。