恵里
翌朝、駅のホームに入った愛結美の目に、ベンチに座る七菜子が映った。
『あ、愛結美ちゃん!おはよう』
『…おはよう』
七菜子はすぐに愛結美に気付き、手を振っていた。
そしてそのまま手招きし、隣に座るように促したが、愛結美はただ、七菜子の前まで近付いただけで止まった。
『昨日ありがとね、あの本買って読んだら凄い面白くて、フランスの事も凄く判りやすかったよ』
『そうなんだ、よかったね』
『うん、知りたい事も全部載ってたし…愛結美ちゃんも、あの本読んだの?』
『元々本好きだし…本屋でバイトしてると、自然にいろんな本の情報が入って来て、読んでみたいって思うのがあったりするから』
『そうなんだぁ…私、あんまり本て読まないんだけど、昨日の本読んだら、もっといろいろ読んでみようかなって思ったよ』
愛結美は初めて、七菜子に笑顔を向けた。
『愛結美ちゃんの笑顔って、何かいいね』
突然関心したように云った七菜子の言葉に、愛結美は少し恥ずかしくなった。
そんな事云われたのは、生まれて初めてだ。
『そんな事ないよ…』
『ずっと笑ってればいいのに…愛結美ちゃん、きっとモテるよ』
からかう為だとか、媚る為とか、そんないやらしさを一切感じない七菜子の真っ直ぐな言葉に、愛結美の頬がほんのりと赤くなった。
『やめようよ、そう云うの』
照れている愛結美を、七菜子は心から可愛いと思っていた。
でも、それを口に出してしまうと、愛結美の可愛さが消えてしまう。
そんな気がして、七菜子は敢えて口に出さず、一緒に笑っていたのだが、そこに恵里が現れた。
『七菜子!愛結美!おはよう!』
手を振りながらやって来た恵里の顔を見た途端、愛結美の顔から一瞬にして笑顔が消えたのを、七菜子は見逃さなかった。
『おはよう、恵里』
七菜子は恵里に手を振ったが、愛結美はフッと後ろを向き、そのまま静かに立ち去ってしまった。
七菜子は不愉快な子ではないようだ。
でも恵里は…
愛結美にとって、恵里は相変わらず邪魔な存在でしかない。
このまま教室までついて来られるのは困る。
愛結美は出来るだけ二人から離れ、丁度入って来た電車に乗った。
どんなに七菜子が話しかけても、愛結美は不思議と嫌な気はしない。
それは、七菜子も感じていた。
愛結美は、自分とだけは普通に話す。
愛結美が気難しいと云うのは、前に恵里から聞いて知っていた。
『私のクラスに、すっごい気難しいけど、面白そうなのがいるんだよ!いっつも誰とも話さないんだけど、話しかければ普通に話すんだ』
その時は普通に聞いていたが、愛結美の反応を見ていると、恵里が話しかけても、必要最低限の答えしか返していない。
七菜子は薄々気付き始めていた。
恵里は、仲良くしようとしている訳ではない。
からかい半分で、愛結美に声をかけているだけ。
そして愛結美には、そんな恵里のいやらしさが、言葉を通して伝わっている。
愛結美は恵里を迷惑がっているのに、恵里はそんな事に気付いてない。
愛結美の嫌そうな反応を見る為だけに、恵里は毎日、愛結美にくっついているように見えた。
七菜子と恵里は中学時代からの付き合いで、恵里のいい所も悪い所もよく知っている。
だからこそ、七菜子は恵里が許せなくなったが、愛結美が自分で防御出来ている内は、自分は見ていようと思った。
高校2年になり、愛結美と恵里はクラスが離れ、七菜子は、愛結美の隣のクラスになった。
愛結美は、恵里の教室が少し遠くなった事に、心の底からホッとしていた。
だからだろうか…
愛結美と七菜子が一緒にいる姿を、恵里はよく見掛けるようになった。
でも、自分が近付くと、愛結美はスッとどこかに行ってしまう。
七菜子も別に、それを咎める様子もなく、当たり前のように愛結美を見送っている。
二人の間に、何か自分に関する事で話がされているのだろうか…
最初こそそんな風にも思ったが、最近では少しずつ腹が立って来ていた。
七菜子も何も云って来ないし、愛結美に至っては、もう会話すら成立しない。
何度か『最近仲良いね』と二人に云ってみたが、愛結美も七菜子も、声を揃えて『そう?』と云うだけ。
いつの間にか、自分は七菜子と一緒にいる事さえ少なくなっている。
七菜子は元々、私の友達なのに…
恵里は疑心暗鬼になり、孤独感に襲われるようにもなって行った。
別に構うもんか…
友達は、七菜子や愛結美だけではない…
そう思っても、恵里の中に一度芽生えた嫉妬心は、なかなか消えない。
そしてそれは、とんでもない方向に向けられた。
『愛結美はレズだ』
恵里はそうみんなに振れ回った。
そんな噂が広まれば、七菜子は愛結美から離れ、また一緒にいられるようになる。
恵里はどこかでそう信じていた。
噂は恵里の予想以上の早さで広まり、それは七菜子や愛結美本人の耳にも入る事になった。
愛結美は普段、誰とも話さないのに、七菜子とだけは話している。
その事が、却って噂のスピードを早めていたようだ。
愛結美は七菜子への危険を感じたが、自分が七菜子を避けても、今まで通りに振る舞っていても、噂は決して消えないだろう。
ここは、何もせずにいる事が一番かもしれない。
愛結美は、特にこれと云ったアクションはせず、いつも通りに振る舞っていたが、愛結美が思ったより応えてないその態度が、恵里には面白くなかった。
愛結美を困らせる事が出来ると思ったのに、当の愛結美は相変わらず平気な顔をしている。
どちらかと云えば、七菜子の態度の方がおかしい。
愛結美のように、自分を避けているような気がする上、自分を見る目が冷たい。
恵里は気付いてなかった。
七菜子が愛結美の為にみんなから話を聞き、その結果、噂の発端が恵里だと気付いた事も、気の強い七菜子が、そんな恵里に対して憤慨し、愛結美の為に考えを巡らせている事も。
ある日の下校時間、七菜子は下駄箱で恵里を捕まえた。
『恵里!あんた何考えてるの?』
『何が?』
恵里はヘラヘラと笑いながら答えた。
『愛結美がレズだって、言い回ったんでしょ?』
『知らないよ!そんな噂があるのは知ってるけど…』
『当然でしょ?自分で立てた噂なんだから…』
七菜子の剣幕に、恵里は全身から血の気が引くのを感じ、青ざめて行く恵里を見て、七菜子は確信した。
『恵里…あんた最低!』
『関係ないってば!信じてよ!』
『恵里…自分がやったって認めて、ちゃんと愛結美に謝るなら、私は許してあげる…でも、それでもシラを切るなら、私はあんたを絶対に許さない』
恵里は、究極の選択を迫られた気分だった。
でも、悪いのは自分ではない…
飽くまで恵里はそう思っていた。
『知らないよ』
『恵里…あんた…最悪!』
そう罵った時、少しの間人がまばらだった下駄箱に、再び人が近付く声がした。
口をつぐんでしまった恵里に、怒りの治まらない七菜子は、いきなりキスをした。
何が起こったのか判らず、ただ硬直してしまっている恵里を尻目に、七菜子は人が目の前まで来た事を見計らって唇を離した。
『何するのよ!友達だからって勘違いしないで!』
呆然としている恵里の体を突き飛ばし、七菜子は泣きながらその場を立ち去った。
偶然にも、そこには七菜子と同じクラスの生徒がいて、泣いている七菜子を『どうしたの?何があったの?』と捕まえて慰めていた。
『恵里が…いきなりキスして来たの…私そんなんじゃないのに…』
七菜子の証言通り、みんなの目には、恵里が無理矢理七菜子にキスしたように見えたようで、全員が冷ややかな視線を恵里に浴びせている。
恵里はやっと事情が飲み込めたのか、何か云おうと口を開いたが、『二度と私に近付かないで!』と云う七菜子の叫びに消されてしまった。
そして、恵里が立てた『愛結美はレズだ』と云う噂は消え、代わりに翌日から別な噂が広まった。
『ずっと好きだった愛結美に相手にされなかった恵里は、仕返しに変な噂を立て、今度は七菜子を誘惑した。でもそれも断られて、挙げ句に自分がレズだとバレてしまった』
その新しい噂はあっと云う間に広がり、愛結美の耳にも入って、愛結美は思わず、声を上げて笑ってしまった。
同じクラスの生徒たちが、読んでいた本を床に落としてまで笑い転げている愛結美の所に集まり、初めて聞く愛結美の笑い声に、一緒になって笑い出していた。
『愛結美ちゃんの噂って、恵里が流したんだぁ!』
『愛結美は恵里の気持ち知ってたの?』
『愛結美じゃなくて、あいつがレズだったんじゃん』
『そう云えば恵里って、何かと愛結美ちゃんにまとわりついてたもんね』
『愛結美ちゃん散々だったね』
口々に勝手な事を云いながら、一緒に笑うクラスメイトの顔さえ、愛結美にはツボだった。
『愛結美笑いすぎ!大事な本落ちてるじゃん』
一人の生徒が、床に落ちている愛結美の本を笑いながら拾ってあげた。
『ありがとう…何かおかしくて…』
『判るけどね』
仲間に囲まれて笑う楽しさを、愛結美はこの時、全身で感じていた。
今までは、近寄りがたいけど、無害だから放っておく…と云うのが、同級生が愛結美に対して抱いていた印象だったが、愛結美の笑い声を聞いて以来、それが一変した。
朝、愛結美が教室に入ると、『愛結美ちゃん、おはよう』と云われ、下校時間には、『バイバイ愛結美ちゃん』と声をかけられる。
最初は不馴れな愛結美だったが、それも次第に慣れて行き、自分から声をかけるようにもなった。
勿論、『愛結美!帰ろう!』と隣の教室から迎えに来る七菜子もいる。
愛結美は、七菜子のした事に気付いていたが、口に出すと笑ってしまいそうなので、云うのをやめた。
『愛結美、今日お茶して帰ろう…私最後体育だったから喉渇いちゃったよ』
『いいよ、いつもの喫茶店?』
『あそこ美味しいけど高いよねぇ…駅前のモスでいいや』
気が付けば、愛結美は暫く本を読んでいない自分に気付いた。
友達は、裏切る者は裏切る
自分がそれを見極めていればいい…
いつしかそんな風に思うようになっている自分にも、気が付いていた。
一方の恵里は、すっかり肩身が狭くなってしまい、学校にいる間は、どこにいても居心地悪そうにキョロキョロしていた。
何故自分がこんな立場になってしまったのかも、恵里には判っていなかった。
恵里の怒りは七菜子と愛結美に向けられていたが、恵里にはもう何も出来ない。
何をしても、必ず自分が悪者になってしまう。
恵里はすっかり、意気消沈していた。
そんな恵里を気の毒にも思ったが、愛結美も七菜子も、恵里のした事を思うと、近付く気にはなれなかった。
許していない訳ではないが、許した訳でもない。
『恵里はきっと、自分が悪いなんて思ってない。あの子はそう云う子。だから、自分から謝ってくるまでは、関わらない方がいい』
愛結美より恵里をよく知っている七菜子の言葉には説得力があったが、愛結美は元々、恵里と関わるつもりは皆無だった。
だからずっと避けて来たのに、恵里にはそれすら気に入らなかったのだろう。
自分には友達が大勢いる…
自分はみんなの人気者…
恵里はきっと、それが自分の思い上がりだとさえ、気付いていない。
中身のない友情は、意図も簡単に壊れる。
大切にしないと、大切にはされない…
その事に恵里が気付く日は、まだまだ遠いような気が七菜子はしていた。