カガミンときもだめし
パキッ!
うっかり落としてしまった手鏡は、するどくてかん高い音を立てて、床に転がった。
ガラスに、大きなヒビ割れができていた。
「ど、どうしよう」
アヤは泣きそうになった。
丸い形に小さな取っ手のついた、とても古そうな手鏡。
もともとはきれいな朱色に、花柄模様をあしらったものだったのだろう。今は色あせて全体的に茶色っぽくくすんで、模様もほとんど剥げ落ちてしまっている。鏡も曇っていてよく映らない。
それでも、タンスの引き戸の奥に大事そうにしまってあったのは、きっと、おばあちゃんにとって大切な鏡だったにちがいない。
アヤのおばあちゃんは、半年くらい前に亡くなってしまった。
毎年、夏休みに田舎のお父さんの実家で、おばあちゃんに裁縫を教えてもらうのが楽しみだった。
今年も夏休みになって、両親と一緒に遊びに来たけど、もうおばあちゃんはいない。
さみしくて、することもなくて、まだ元気だったころのままになっているおばあちゃんの部屋で、裁縫道具を探しているときに見つけた手鏡だった。
「おじいちゃんに謝らなきゃ」
アヤはそう思ってはみたが、すぐに尻込みしてしまった。
おじいちゃんは厳しくて、怒るととても怖い。おばあちゃんが大切にしていた鏡を割ったなんて言ったら、どんなカミナリが落ちることやら。
結局その日は何も言いだせないまま夜になってしまった。
「明日になったら、ちゃんと謝ろう」
アヤはそう決心し、枕元に手鏡をおいて、布団に入った。
しばらくして――。
「これ」
と、耳元でなにやら囁くような声が聞こえたような気がして、アヤは目を覚ました。
辺りを見回しても、誰もいない。
「気のせいか……夢でもみたのかな」
アヤは目を閉じた。
「これ、寝るでない。起きろ、小娘!」
今度は怒鳴るような大声がして、思わずアヤは跳び起きた。もう一度部屋の中を見回したが、やはり誰の姿もなかった。
「どこを見ておる。ここじゃここじゃ」
声は枕元の方から聞こえてくるようだった。
そこには、寝る前においた手鏡があるだけ。
アヤは手鏡を手に取って、裏表を確認したり、振り回したりしてみた。
「こ、これ、乱暴にするでない。目がまわるであろうが!」
喋ってる。鏡が!
「ぎゃああああああっ!」
びっくりして、思わずアヤは手鏡を放り投げた。
「ああっ、落としちゃだめじゃーっ!」
悲鳴をあげながら、手鏡は柔らかい布団の上に落ちた。
「し、死ぬかと思ったではないか。まったく、乱暴にするなと言っておるのに。また割れたらどうするのじゃ」
「お、お……か、鏡がしゃべって……お、お化け? 鏡のお化け?」
「さわぐでない。家の者が起きてしまうではないか。何もせんから、もっと近くにきて、小声で話せ」
どうやら手鏡は自分では歩いたり動いたりできないらしい。アヤは恐る恐る近づいてみた。
「あ、あのう」
「わっちにヒビ割れを作ったのは、お前じゃな。まったく、久しぶりに外に出られたと思ったらこれだ」
「ご、ごめんなさい」
「まあよい。ところで、ヨシエはどうしておる?」
「え、ヨシエ?」
それは、おばあちゃんの名前だった。
「おばあちゃんのこと、知っているの?」
「自分の持ち主のことを知らぬわけがなかろう。ヨシエは今どこにおるのじゃ」
「おばあちゃんは、死んじゃったよ……半年くらい前に」
「なんと」
手鏡はしん、と静かになった。こうしていれば、ただの古い手鏡にしか見えないが、アヤにはなぜか、この鏡が悲しんでいるように見えた。
やがて、手鏡はひとりごとのように話しはじめた。
「そうか、しばらく会っていないと思っていたが、そんなことになっていたのか」
「あの、鏡さん」
「カガミンじゃ」
「え?」
「わっちの名前じゃ。ヨシエがつけてくれたのじゃ――って何を笑っておる!」
鏡だからカガミンって、そのまんますぎる。
すっかり怖くなくなったアヤは、カガミンに自己紹介した。
「そうか、ヨシエの孫か。ならばちょうど良い。アヤ、お前に頼みがある。わっちを、一人前のお化けにしてほしいのじゃ」
「えっと、どういうこと?」
「お前はさっき、わっちのことをお化けと言ったが、実はまだ完全ではないのじゃ。今までヨシエが協力してくれていたのだが……もういないのでは仕方ない。お前が引き継いでくれぬか」
「協力って、何をすればいいの?」
「九十九たび、人を怖がらせれば一人前になれるのじゃ」
「きゅ、九十九人も!」
「あわてるでない。ヨシエの協力で、既にわっちは九十回ほど怖がらせておる。そうじゃ、今さっき、アヤが怖がったから、もう九十一じゃな。つまり、あとたったの八じゃ。簡単であろう」
「そんなこと言われても、あと八人も驚かすなんて、一体どうやれば……」
「何を言っておる。お前が怖がればいいではないか」
「え、私?」
一瞬、何を言われたのか、アヤにはわからなかった。
「もしかして、今まではおばあちゃんが――」
「ヨシエが九十回、怖がってくれたんじゃ」
正直、ずっこけそうになってしまった。
――お、おばあちゃん、凄すぎ。ていうか、何やってんの。
「あとは孫であるアヤ、お前が八回、わっちを怖がれば――」
「無理!」
アヤはきっぱりと言った。
「な、なんでじゃ!」
「だって、もうカガミンのこと、怖くないもん」
「う」
カガミンは黙ってしまった。
でも仕方がなかった。怖がるフリならいくらでもやってあげられるけど、本心から怖がるのはもうどうやってもできそうにない。
「何か恐ろしい姿に化けるとか、そういうことはできないの?」
「……できないのじゃ。それどころか、見ての通り、わっちはただの手鏡。自分で歩くこともできん。だからヨシエは一人で頑張って何度も怖がってくれたのじゃ」
――おばあちゃん、一体どうやったら同じ相手に九十回も本当に怖がることができたの?
カガミンは落ち込んでいるように見えた。もしかしたら泣きそうなのかもしれない。そんな風にもアヤは感じた。
だんだんかわいそうになってきて、なんとかしてあげたくなってきた。
何かいい手はないかと考え込んでいると、ふと壁にかけてあるカレンダーが目に入った。
そこでアヤは思い出した。
「そうだ! あさっての夜、ここの町内会で肝だめし大会があるって、お父さんが言ってたよ」
「肝だめし? それがどうしたのじゃ」
「だから、その肝だめし大会で、みんなを驚かせばいいんだよ。そうしたら八人なんてすぐだよ!」
「ええっ? そ、それはどうであろう」
なぜかカガミンはあまり気乗りしないようだったが、他にいい方法もないのでしぶしぶ承知した。
*
そして肝だめしの日がやってきて――。
アヤは夜、カガミンを持ってこっそりと家を抜けだした。
おじいちゃんは夜はいつもテレビのナイター中継にくぎ付けだし、両親はその肝だめし大会の手伝いで留守にしているので、簡単だった。あとは途中で見つからないことを祈るだけだった。
「そのわりに真っ白いワンピース姿とは、闇夜ではたいそう目立つように思うがのう」
カガミンが少しイヤミっぽく言った。
「しょうがないでしょ。他は洗濯しててこれしかなかったんだから!」
肝だめし会場は近所の神社だった。正面の鳥居が集合場所になっていて、遠くから様子を窺うと、もう何十人もの参加者が集まっている。そろそろ始まりそうな雰囲気だった。
アヤは見つからないように注意しながら、神社の裏手に回った。そこは雑木林になっていて、まっすぐ突っ切ると本堂の裏に出られる。おばあちゃんから、子どもの頃はよくそこで遊んだと聞いていたのを覚えていた。
林の中はほとんど真っ暗で、普段なら怖くてとても一人では歩けそうになかった。でも今は半人前とはいえ、一応お化けのカガミンが一緒。だから平気だと無理矢理思いこんで、全速力で駆けた。
本堂につくと、全身汗まみれで髪もべっとりと顔にはりつくくらいだった。
どうやら開始には間に合ったみたいで、アヤは荒い息を整えるひまもなく、できるだけ人気のない場所を探し、道端の茂みの中に隠れた。
「もうすぐ始まるよ。人が通りかかったら飛び出すから、タイミングはカガミンが合図してね」
「う、うむ」
アヤはカガミンの取っ手をぎゅっと握りしめて、肝だめしの参加者が通るのをじっと待った。
しばらくすると、懐中電灯の明かりが見えてきた。
「来たよ、準備はいい?」
アヤが声をかけると、「う、うむ」とカガミンは小さく返事した。
人影が近づいてくる。アヤと同じくらいの年の女の子二人組だ。かなりビクビクしながら、お互い寄り添うようにしているのが見えた。
――すごい怖がってる。これならうまくいきそうだ。さっそく二人分いただきね。
そう思って、アヤはカガミンの合図を待った。
どんどん近づいてくる。
いつでも飛び出せるよう、アヤは身構えた。
しかし合図はないまま、二人組は通り過ぎてしまった。
「カガミン、どうしたの、合図は?」
「じ、実はのう、緊張してしまって」
「は? なんで?」
「わっちは今まで、ヨシエ以外の者を驚かしたことがないのじゃ。だから自信がなくて、怖くて足が、いやわっちの場合、ノドがすくんでしまったようじゃ」
アヤはここでもずっこけそうになった。
「人を怖がらせるお化けが人を怖がってどーすんのよ!」
「そ、そんなこと言われても、怖いものは怖いんじゃ!」
そんな言い合いをしているうちに、次の二人組がやってきた。またさっきと同じか少し下くらいの年の、女の子二人組だ。
「次、来たよ、今度はちゃんとやってね」
「無理じゃ、無理じゃ」
「もう、何のためにここに来たのよ!」
「無理なものは無理じゃ」
「もういい! 私が勝手に飛び出すからね、しっかり驚かして!」
「ちょ、待つのじゃー」
うろたえるカガミンを無視して、アヤは二人組の前に飛び出した。
アヤは何度も何度も、汗だくになりながら茂みから飛び出して肝だめしの参加者を驚かした。
途中からカガミンも、ビクビクしながらも精いっぱい一緒になって驚かそうとした。
うまくいかないことが多かったが、中には怖がってくれた人もいた。ただ、怖かったのがカガミンなのかアヤなのかが、わからなかった。
家に戻ると、アヤはもうヘトヘトになってしまい、すぐに布団にもぐり込んだ。
枕元のカガミンに話しかけてみた。
「ねえ、うまくいったのかなあ」
「わからぬ。が、アヤには感謝しておる」
「一人前のお化けになったら、何かいいことがあるの?」
「それもわからぬ。ただ、ヨシエとの約束だから、どうしても果たしたかったのじゃ」
「そっかあ、おばあちゃんの願いなんだね」
少し嬉い気持ちになって、そのままアヤは眠ってしまった。
「カガミン、カガミン! すごいよ」
朝になって、アヤは驚いた。
明るい朱色に美しい花柄模様がくっきりと描かれ、窓からの朝日を浴びてピカピカに輝くその姿。
そして、大きくひび割れていたはずのガラスには、キズどころか一点の曇りもない。
カガミンはまるで新品の手鏡のようになっていた。
「どうやら、うまくいったみたいじゃの」
「うんうん、そうだね、よかったね」
「これで、アヤもおじいちゃんに叱られることもなくなったのう」
「うん、それもよかった!」
はしゃいているうちに朝食の時間になったので、カガミンと一緒に食卓についた。
そこで話題になったのが、夕べの肝だめし大会だった。
なんと、本物が出たと噂になっているらしい。
小学生くらいの、白いワンピースを着て、湿った髪が顔にはりついた女の子の幽霊だそうだ。
「……えっ?」
いつの間にか、両親がアヤをじっと見ている。
アヤは思い出した。夕べは疲れてしまって、着替えもしないでそのまま寝てしまい、そのままの姿で今、朝食をとっていることを。
結局、おじいちゃんではなく、両親にこっぴどく叱られることになってしまった。
テーブルの上で手鏡が笑うように、キラキラと光を反射させていた。
(おわり)
お読みいただきありがとうございます。
ホラーというより童話です。怖いの期待していた方には申し訳ありません><
後日ジャンル変更するかもしれません。
おじいちゃんの登場機会がなかったことに反省しておりますw