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白い湯着を着て手ぬぐいを右手に浴場に入ると、湯気で視界が真っ白になった。後ろ手にガラスの引き戸を閉めて、すべらないよう注意しながら進み、同時にクリーンの生活魔法を体にかけて、汚れを落とす。まだ速い時間なので、私以外に人はいない。ざっと見た感じお湯に濁りはない。
「さて、と」
沢山ある中でも一番大きな浴槽に手を入れる。すると、手が細かな泡で包まれた。
「ふふ……」
こそばゆさに微笑みながら、ふちに置いてある桶をひとつ手に取り、お湯を体にかける。ほどよい暖かさの湯が肌をなでる。
「んー、結構ぬるめかな?」
ぬるいのは長く入れるから好きだ。そして、ゼンガミの温泉と違って不快感を感じない。これなら、ちゃんと入れるだろう。ゆっくりと温泉に浸かる。
「ふうー……」
思わず息がこぼれる。泡と温度が全身をコーティングしていて凄く気持ち良く、炭酸独特の匂いを感じる。桶にお湯をくんで手ぬぐいをくぐらせ、その手ぬぐいで髪をまとめてから顎までつかる。
「最っ高……」
もう、温泉に入るのなんて何年ぶりだろうか。お風呂ですら週に二回しか入れないので、前入った時より気持ちよく感じる。手足を思いっきりのばして、また息をはく。
「ああ……」
これは、もの凄い贅沢だ。この贅沢を満喫するべく、頭をふちに預けてボーっとする。現実ではボーっとしているとあまり良くないことをモヤモヤと考えてしまうけれど、どういう訳か、心地良い温度のおかげか、あまりそういったことを考えないでいられる。こんなことも、数年はなかったはずだ。そう思うとなんだか泣けてくる。
流れる涙は汗に紛れ、しばらくお湯に浸かった後、立ち上がって隣の小さな湯船に浸かる。こっちはさっきまでのと違って結構熱い。のぼせないようにさっさと上がり、木造の引き戸を開けて外に出る。見た目は生木なのに触った感じが木、という感じがあまりしない。どんな材質を使っているのだろう。
外は、何個かの広い温泉があり、その外側を松と椿が植わった小さめの庭園があり、全体を竹の柵がぐるっと囲んでいた。
「結構広いなあー」
屋内の浴場よりも広いかもしれない。とりあえず一番広いお湯に浸かる。一番始めに入ったものよりわずかに暖かいけれど、首から上は外気と風で肌寒く感じるので、ちょうど良い感じだ。
「ふうー……」
どうしてお湯につかると息をはきたくなるのだろう? どうでも良いことを考えながら左足をなでる。泡が肌から離れていきこそばゆい。FLOをやって良かった。開発に参加出来て良かった。そうでなければ、現実では出来ないこんな体験をもう一度出来なかっただろう。私がいなければ、ここまでの再現度は出来なかっただろう。本当に、良かった。
感慨を胸に抱きながら入っているとのぼせてきたので、お湯から出て檜で作られた長椅子に座って涼む。湯着がお湯を吸って少し重たい。室内の方からガラガラと音がした。誰か入ってきたのだろうか。ぼーっとしていると湯着が冷えて肌寒くなってきたけれど、体の内側は熱を持っている。花の咲いていない椿を眺めながら涼み、少し火照っているくらいでまたお湯に浸かる。今度のは熱すぎて入れなかったので、奥の横になって入る浅い温泉に入る。石の枕に頭を乗せると、だいたい体の半分くらいまでがお湯に浸かけれど、残りは外に出ていて冷える。少しの間浸かってから露天で始めに入ったぬるめの温泉に浸かる。
温泉に入ってはのぼせて涼み、喉が渇いては長椅子に座ってウォーターの生活魔法で喉を潤すのを繰りかえり、空が緋色に染まりそこそこ人が入ってきた頃ようやく温泉から上がる。このポカポカした感じをしばらく堪能したいので、クールの生活魔法も適当にクリーンで水気を飛ばしてカーキ色の服に着替える。とは言ってもヘルプの装備覧から変えるだけだけれど。
「しまったなあ」
折角の良い雰囲気にこの服は似合わない。どうせなら浴衣を買っておけば良かった。今更後悔するも、もう遅い。今までよりツルツルした肌にうっとりしながら部屋に戻ってゴロゴロする。外が鮮やかな緋色から青味がかった紺色、暗い黒色に変わっていくのを眺める。暗くなると天井につけられた明かりがつく。蛍光灯に似ているけれど、少しだけ黄色がかっている。一番星が光りだすのを見ていると、ドアがノックされた。
「はーい」
「お食事をお持ちしました」
「分かりました」
ドアを開けると、私を案内した女性が一礼した。その後ろに続いて黒い羽織を着た男性が料理の乗ったお盆を運んできた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
ちゃぶ台の上に置かれたお盆の上には、鮮やかな料理が並べられている。白いご飯に、ワカメと豆腐の浮いた味噌汁。鯛らしき皮の赤い魚の刺身に小さな鍋に入って湯気を上げる小さな何かの肉と花の形に飾り切りされたニンジン。青菜のおひたしと切り干し大根とニンジンの煮物に二切れのたくあん。数はそこそこあるけれど、一個一個は小さい。
「いただきます」
手を合わせて箸を手に取り、とりあえず味噌汁に口をつける。赤味噌の辛味に鰹と昆布の出汁の香りが口いっぱいに広がり、飲み込むと胃が温まる。ご飯を食べると、かむたびに玄米とは違う雑味の無い米の甘みに頬が緩む。
続いて刺身を醤油に付けて食べる。醤油の風味に負けない、油のものでは決してない身そのものの淡白な旨味。なのに、油が乗っているという矛盾。
「これは……」
失敗した。醤油なしの方がおいしいのではないか。実際にそうしてみると、醤油の香りがない分鯛の味を楽しめて良い。次に箸で取ったのは、おひたしだ。一口食べてから、首をかしげる。
「あれ? 苦くない」
青菜は、多かれ少なかれ苦味がある。それが良い、という人もいるけれど、私はそれが嫌な派だ。このおひたしには、ほとんど苦味がない。
「葉物って、こんなに甘いんだ……」
ここの料理は本当においしい。期待しながら続いて食べるのは、何かの肉だ。一口サイズに切られた、茶色い塊。見た目はただの肉だけれど、これもおいしいのだろう。
「ふわあ……」
口の中に入れた瞬間、溶けてしまった。そう思えるほど、柔らかい。けれど、風味からして多分焼いている。でも、そのからくりの一端はすぐ分かった。
「味噌漬け、かあ」
噛めば溢れる味噌と肉の油と、わずかな獣の香り。猪肉を味噌に漬け込んだのだろう。だけれど、それだけではここまで柔らかくはならない。それに、記憶にある猪肉は固くなりやすかった。それがこんなに柔らかい、ということは、料理人の腕が凄いのだろう。
「はふう……」
お茶を飲んでリラックスして、最後の切り干し大根を食べる。大根独特の甘みと少しの醤油の風味が良く混ざっておいしい。だけれど、あのお肉を食べた後だけに感動は少なかった。
この日は夕食を満喫した後、しばらく余韻に浸ってからログアウトした。




