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白き咎、飴の檻

作者: いっちー

 同じ種で作られ、同じ腹から生まれたと言うのに、何故、こうも違うのか?

 廟の向こうへ消えた王である父と兄を見送った黄陣(コウジン)は、踵を返した。

 礼をしたまま主を待つ臣下や、妃たちの一団から抜け出て、穏やかな足取りで歩み始める。その速度は徐々に上がり、やがて駆け足になった。

「どうして」

 城へと続く森の道に、忌々しげな呻きが落ちる。陣は足を止めて、廟を振り返った。木々の緑の向こう、青空を背景に、廟の反り返った、真っ赤な屋根が見えた。

「何故天帝は、僕に会ってはくれない?」

 森羅万象を司る、大いなる神・天帝。その廟に入れるのは、王、正妃、皇子のみであったが、王の第二子である陣は、資格はあると言うのに、生まれて十八年、天帝に会ったことがない。自身の出生すら疑った陣を、父は酷く怒って否定したにも関わらず、依然、廟への参詣許可は下りなかった。

「……兄上」

 兄の涼しげな面が脳裏を過ぎる。陣は、唇に寄せた爪を、噛んだ。

 三歳年上の兄・黄鳳(コウホウ)は、双子かと思われるほどに、陣と似通っていた。けれど何かが根本的に違っていた。

 文官たちにも勝る知能と知識を持ち、武官顔負けの剣技を誇る、鳳。天帝に次の王を約束された兄には、圧倒的な存在感があった。

 陣の奥歯がぎり、と鳴った。

 同じ師に付き、同じ卓子で食事を取った、実の兄弟である。それなのに、何故、こうも違うのか。

 胸中が暗く苛まれる度に、陣は自分を惨めに思った。

 この劣等感は自身の卑小さが引き起こしていると分かるからこそ、情けなく、苛立った。

 ――と、その時、前方で物音がたった。我に返った陣は、一人の女が、目を丸々と見開いて自分を見ているのに気付いた。

 年の頃は陣と同じ十八ほど。少し下がり気味の目尻が、見る者に柔らかな印象与える。

 決して美人ではなかったが、日だまりを彷彿とさせる、不思議な魅力を備えた女だった。

「何を見ている」

 陣の静かな問いに、びくり、と女の身体が揺れた。陣はますます苛立った。

「何を見ているのかと訊いている!!」

 怒声に、女が半歩退く。

 陣は自分を顧みて、気まずげに視線を落とした。荒ぶる呼吸をゆっくり吐き出す。

 自己嫌悪で気分が落ち込んだ。見知らぬ他人に八つ当たりをするなど……兄ならばこんなこと、決して、しない。

「て……手が、痛そうだなと思って」

 震える声が耳に届き、陣は顔を上げた。

 おずおずと近付いた女は、そっと陣の右手を取ると、絹の手巾を添えた。

 真っ白な布が、みるみる内に赤く染まった。

 そこで陣は初めて、爪の噛みすぎで指先から血が出ていることに気付いた。陣は優しく血を拭う女を見下ろすと、呻いた。

「…………驚かないんだな」

「驚く、ですか?」と、きょとんとした女に、陣は自嘲の笑いを零した。

「これでも穏やかな皇子の振りをしていたんだが……はっ。卑しさは滲み出ていたらしい」

「皇子といえども、人の子。誰だって心穏やかでない時はあります」

 さらりと応えた女に、陣は息を詰まらせた。

 能力も人徳も、なす事全て兄に遠く及ばない。もっとまともに、もっと素敵に、皇子として、人として、もっともっと精進せねばならない。今の自分は駄目だ。どうしようもない愚図だ――と思っていた。けれど目の前の女は、素を批難することなく、頷いたのだ。

「あの、何か?」

 傷んだ指先に手巾を巻き付け、さっさと退出しようとした女の腕を、陣は知れず掴んでいた。自分の行動に戸惑い、彼は束の間、押し黙ると、やがて掠れた声で謝罪した。

「…………すまない。怒鳴ってしまって」

「いいえ」と、女は目を細めて微笑んだ。

「陣様を追いかけてきて良かった。とても思い詰めた顔をされていたから……一人で痛みに耐えるのは、辛いですし」

 言葉の途中で、女はハッとして口元を手の平で押さえた。それから勢いよく頭を下げた。

「わたくしの場合は、あの、その、辛いので、つい。出過ぎた真似をいたしました」

 陣は言葉なく女を見た。純真な気遣いが嬉しかった。自分に向けられる心が温かかった。

「ありがとう」

 ――それは、陣にとって最初で最後の恋に落ちた瞬間だった。

 彼女は――(フウ)游旻(ユウミン)は、兄の婚約者だったけれど。


* * *


 游旻に心を奪われた陣は、すぐに彼女に使者を送り、再会を願った。

 彼女は兄の、数多いる婚約者の一人で、その妃候補が異性と会うなど言語道断である。なので、もちろん断られることを、陣は覚悟していた。それでも、行動せずにはいられなかった。

 けれど、驚くべきことに游旻はやってきた。

 彼女は「話し相手が欲しい」と言った陣を信じた。不安定な様子だった彼を、優しい彼女は、放っておけなかったのかもしれない。

 游旻が小説を好んでいることを知り、陣は彼女を、城の書庫に案内した。

 宮では随分と退屈な時間を過ごしていたのか、小姓姿に変装した游旻は、子供のようにはしゃいだ。

「陣様。本当にありがとうございました。とても楽しい後宮暮らしでしたわ」

「何だ急に。……まさか、宮を下がるのか」

「お妃様がお決まりになったら、すぐにでも」

 ここ丹の国では、正妃、両妃が決まると、他の候補者は自由に宮を退くことができる。

 しかし後宮での贅沢な暮らしや、一夜の可能性を捨てきれず、宮に残る女は多い。

「もとより、わたくしは数合わせですから」と笑う游旻は、後宮に未練はないのだろう。そんなさっぱりした性格も、陣には好ましかった。

 文官たちが忙しげに行き交う東殿を、陣は游旻を連れて歩いた。書庫からの帰り道、二人で赤く爛れた夕日を眺める。

 後宮までの、二人だけの秘密。目眩がするほど幸せな一時。

 東殿には、ちらほらと武官の姿が見えた。いつもよりその数は多い。陣はぼんやりと不穏な噂を思い出す。と。

「おやおや。珍しいところで会うね、陣」

 唐突にかけられた声に、陣は飛び上がった。

「兄上」

 兄・黄鳳(コウホウ)だった。游旻が素早い動きで陣の背後に隠れ、手を組み頭を下げる。

「背中に隠れたお嬢さんはどちらかな?」

 が、鋭く見抜かれ、游旻と陣は慌てた。

 陣はどう弁明すべきか考え倦ね、知れず助けを求めて游旻を見た。そこで彼は、一瞬、目を上げた彼女の表情を目撃してしまった。鳳を目にした彼女の頬は、朱に染まっていた。

「も、申し訳ございません!」

 頭を下げて、游旻が脱兎の如く駆け出す。止める間もなかった。

 ……陣は複雑な気持ちでそれを見送った。

 最後に見た、彼女の面が頭を離れない。

 面白くなかった。

 そう思う自分がとりわけ矮小に思われる。

「見覚えがあるな。……あれは風家の娘?」

 その時、ぽつり、と鳳が漏らした言葉に、陣はハッとした。

 数千の女の中で、まさか游旻を覚えているとは思わなかったが、鳳は常人ではない。

 陣は身を投げ出すように兄の袍の袖を掴むと、声を潜めた。

「兄上。どうか、お許しください。彼女を無理矢理連れ出したのは、僕なのです」

「だろうね。もちろん彼女の貞淑さを疑ったりはしないよ」

 鳳は、弟の必死さにきょとんとしてから、微笑を浮かべて小首を傾げた。

「なるほどね。君は、彼女を好いているのか」

「す……っ」と、陣は息を詰まらせた。顔に熱が集まり、言葉が宙に霧散する。

 陣は咄嗟に手を組むと、頭を下げた。

 戦慄く唇から焦りを追い出し、何とか声を落ち着け否定する。

「滅相もございません。僕はただ、礼をしたかっただけで」

「礼?」

「はい。怪我の手当てをしていただいたのです。彼女は本が好きだとのことでしたので、書庫にある本を見せて差し上げました」

「そう」と頷いた兄を、陣は恐る恐る見上げた。久々に見た兄は、疲れているようだった。

 鳳は、一瞬、唇を歪めた。陣の肩を掴み、彼は、努めて柔らかな声音で、言った。

「もう一度、訊くよ。陣」

「いっ――――」

 予想外の肩の痛みに、陣は眉根を寄せた。

 吸い込まれそうになる黒曜石の瞳は、柔らかい。だからこそ、痛みと相俟って、底知れない恐ろしさが込み上げてくる。

「陣。君は、彼女を好いているわけでは――己の妃にと考えているのでは、ないんだね?」

「は、はい。嘘、偽りなく。天帝に誓って」

「よろしい」と、鳳は満足げに微笑した。

 陣は身体を硬直させた。

 ――自分の劣等感が、もし、兄によって、もたらされるものだとしたら?

 一瞬、脳裏を過ぎった……恐怖。

 夕日を背にして、鳳は笑っていた。

 それはそれは嬉しそうに、耳にまで届きそうなほど、唇をニッと引き延ばし、邪悪に笑っていた。



 その三日後、鳳は正妃と両妃を選んだ。

 豊かな黒髪を結い上げ、豪勢な簪に、紗の衣を幾重にも重ねた正装で、鳳の隣――正妃として、游旻が立っていた。

 その頬は、酒を仰いだように、ほんのりと赤味を帯び、満面の幸福が滲んでいた。


* * *


 陣は三月ほど眠れぬ夜を過ごした。

 游旻が幸せなら、とやっと自分を納得させた頃、陣は鳳から呼び出された。

「何を……」

 告げられた兄の言葉に、陣は狼狽えた。

「お前にこれをあげる。さ、游旻。お行き」

「はい」と、鳳に促されるまま、游旻は進み出た。

 陣は彼女を押しのけると、声を荒げた。

「か、彼女は貴方の奥方ではありませんか!」

「仕方ないじゃない。飽いたのだもの」

 鳳はそっけなく言った。

 游旻が項垂れる。

 陣は拳を握り締め、なんとか怒りを抑え込むと、言った。

「では……何故、結婚など」

「お前への嫌がらせだよ」

 ニッコリと微笑んだ鳳の答えに、陣は何も言えなくなった。

 やはり、と思った。

 自分の劣等感や自己嫌悪が、全て兄によって仕組まれたものだったのだと、やっと得心する。

「貴方は……」

 必死になって怒りを抑える陣の肩を、鳳は軽やかに叩いた。

「お前には、私のお下がりが似合いだと思うんだ。なあ。そうだろう? 陣」

「貴方と言う人は、どこまで――――!!」

 胸ぐらに掴みかかった陣を、游旻が必死に止めた。

 渋々、兄から指を剥がし取った陣に、鳳はくすくす笑って袍を翻し、去って行く。

 呆然と立ち尽くした陣は、取り残された游旻を見た。彼女はじっと鳳を見送っていた。

 腹立たしいにも程がある――

 陣はさっさと自室に戻ろうと思ったが、游旻を放ってはおけなかった。

 陣は游旻の手を取ると、大股で歩み、自室に向かった。

 鳳は「嫌がらせ」と言って、笑った。

 それほど厭われる理由など、陣には考えもつかない。

 けれど陣が兄を羨み、劣等感に苛まれ、自己嫌悪で苦しむ度に、彼はほくそ笑んでいたのだ。

 そして、その嫌がらせに、游旻は利用された。どうしてこのまま放っておくことなどできるだろう。

 なにより彼女は、陣の、破れたとは言え、初恋の相手なのだ。

「どうぞ。何もない(へや)だが」

 皇太子の正妃を連れてきた主に、陣の小姓は仰天したが、丁寧に来客をもてなした。

「……游旻」

 游旻を椅子に座らせると、陣は落ち着きなく、部屋を行ったり来たりした。

 彼女が泣き出したり、怒り出したりすれば、それなりにすべきことも見えてくるだろうが、彼女はぼんやりと虚空を見つめたまま、黙り込んでいる。

 無理もないとは言え、陣は困り果てた。何か、何か話さねば……脅迫に近い焦りと共に、考えを巡らせる。

 やがて、陣はポン、と手を打った。

「そ、そうだ。先日、珍しい果物を手に入れてな……よければ、游旻も」

 退室した小姓に、早速命じようと顔を上げた陣は、動きを止めた。

 游旻の腰帯が、しゅるり、と解けて床に円を描いた。

「――――――何を」

「おつとめを、果たそうと思いまして」

 合わせ目がはだけ、露わになった白い裸体が、陣の瞳を焼く。

「やめろ!」

 顔を背け、陣は声高に叫んだ。

 混乱と羞恥と……悲しみで、陣は「ああああ!」と咆哮を上げると、自身の髪を掻きむしった。

 やがて両の手で目頭を押さえ、静かに口を開いた。

「ぼ、僕は……正直に告白する。僕は、前からずっと、貴女を自分の妻にと望んでいた。貴女のことを、特別に想うからだ」

 自身の言葉に勇気づけられるように、陣は瞼を持ち上げると游旻を見つめた。

 力無い瞳と目が合う。

 以前、言葉を交わした頃の朗らかさは微塵もない。痛ましげな様子の彼女に、陣は泣きたくなった。

 一歩踏み出す。

 游旻が瞬きをする。

 陣は彼女が拒絶しないことを確かめてから、そっと歩み寄った。

 衣服の裾を掴み、素早く彼女の身体に巻き付ける。……触れた指先が火傷したように熱かった。

 八つ裂きにしたはずの想いは、無理矢理押込めていただけだったのだと、陣はまざまざと思い知った。

「そう、今も貴女を好いている」

 愛おしい。だから、彼女が悲しむ姿はこれほどまでに、胸を締め付ける。

「だが僕が、望むのは、貴女を抱くことじゃない。……貴女を大切にしたい。貴女に心安らかになって欲しい」

 游旻の長い睫毛が震えて、大粒の涙が零れた。

 陣はそれを親指で拭った。彼女は被害者だった。自分と同じ被害者だと、陣は思った。

「さあ、游旻。服を着て」

 そう言い置いて、陣は室の外に待機していた小姓に、果物を持ってくるよう命じた。

 胸が熱かった。彼女を幸せにしなければならない――それは大いなる使命に対する、怒りや悲しみと似た、喜びだった。


* * *


 寝台から出ると、すかさず外で待機していた小姓が飛んできて、陣の身支度を手伝った。

 背後で衣のこすれる音がした。游旻が上半身を起こしたのに気付き、陣は振り返った。

 長い髪の合間から、ぼんやりとした視線が陣を見つめる。

 陣はそっと游旻に近付くと、その頬に右手を添えた。

「また、夜に」

 そう言い置き、陣は朝儀のため寝所を出た。

 游旻を妻に迎えて、早三月の時が過ぎていた。

 綱渡りをするように陣は游旻に寄り添い、心に触れた。

 夜は二人、子犬のように身体を寄せ合い眠った。

 まだ接吻すらしたことはなかったが、それで良いと陣は思っていた。

 愛おしい人を支える……彼にとって、毎日は、涙が出るほど愛おしく、幸せに満ちていた。

「…………何だ? やけに騒々しいな」

 回廊に出た陣は、訝しげに辺りを見渡すと、いつもと違う城の様子に、回廊の影に身を滑り込ませた。

 武官たちが物々しい様子で走り回り、文官たちがおろおろと右往左往している。

 陣はそっと身を潜めて、文官の一人に近付くと、背後から袖を引っ張った。

「ひっ」と息を飲んだ文官は、やがて相手が陣だと認めると、逆に陣の両腕を強く掴み、言った。

「陣様!! 鳳様が……お亡くなりに」

 文官は上ずった声でそう言うと、恐ろしいことです、と譫言のように繰り返した。

「まさか」と、陣は唇を引き攣らせた。

 兄が死ぬ。それは、ありえないことだった。

 運命を司る天帝が決めた後継は、絶対である。死ぬことなど、ありえない。

(しかし嘘を吐いているようにも見えない)

 一体、何が起こっているのか――陣が混乱に辺りを見渡すと、不意にざわめきが、静まった。

 草が風に凪ぎ倒されるように、回廊にいた武官と文官が、深々と腰を曲げ礼をする。

「…………父上」

 陣は、回廊の向こうから大勢の武官を引き連れやってくる父を認め、臣下と同じく、頭を下げた。

 父は陣の肩を掴むと、言った。

「陣。ついさっき、鳳が死んだ」

 父に命じられ顔を上げた陣は、信じられないことを聞いた。

「天帝の言だ。よく聞きなさい。陣、本日よりお前を、皇太子となす」

「は……? な、何を」

「もとより天帝は、お前を次の後継に、と命じておられた。だが、この年、この日、唯一絶対の皇太子が死ぬと、同時に天帝はわしに告げた。運命は避けられぬ。しかし、国を滅ぼすなど受け入れられるはずもない。わしは……運命を騙そうと決意した」

 述べられた事が理解できず、陣は父をまじまじと見つめた。

「ならず者は処分した。皇太子は死んだ。けれど真の皇太子は、こうして生きている。運命は上書きされたのだ」

「………………兄上は」

 陣の掠れた声に、父は悠然と頷いた。

「あれは申し分のない影武者を務めてくれた。……まあ、奴は自分が影武者であるなど、思いもしなかっただろうが」

「丹国、ますますの繁栄をお祝い申し上げまする! 陣様、万歳!」

 臣下の一人が、感極まったように転び出ると、地に額を擦りつけ、叫んだ。

 その声に呼応するかのように、陣の周りにいた臣下がすぐさま身を投げ出し、礼をした。

「黄陣様、万歳! 黄陣様、万歳!!」

 ワッと声が破裂する。

 陣は呆然と興奮に包まれる辺りを見渡し、口の端を引き攣らせた。

 脳裏を過去の苦渋が過ぎった。その映像は、平身低頭する臣下らの姿に破られ、塗り潰されていった。


* * *


 頭で理解しても、心が追いつくはずもない。

 父に退出を願った陣を、父は「さもあらん」とあっさり解放した。

 夢の中を歩くように、陣はふらふらと自室に戻った。

 胸が破裂しそうだった。興奮による酩酊感に、視界が揺れ続けていた。

 とにかくゆっくりしたい。今は游旻の腕にもたれて目を閉じていたい――と考えて、陣はふ、と歩みを止めた。

 游旻は、どう思うのだろう。

 自分を捨てた男の死を、気の毒にと思うのだろうか。それとも、喜ぶだろうか。

「駄目だな、僕は。もう兄上は死んだのに」

 未だにその影を気にしている。

 陣は首を振って考えを払うと、前を睨め付けるようにして真っ直ぐ歩み出した。もう比べる相手はいない。自分を卑しくさせる存在はいないのだ。

「…………陣様!」

 自室に至ると、すぐさま游旻付きの女官たちが駆け寄ってきた。彼女らが何か言うのを遮って、陣は鋭く問うた。

「これは、どうしたことだ」

 自室は、惨い有様になっていた。

 骨董品が粉々になり、床に散らばっていた。

 壁を彩る掛け軸は無残に破かれ、卓子の位置が大きく変わっている。

 椅子も天地が逆になり、よく見れば陣を迎えた女官らも、衣服や鬢が乱れ、憔悴しきっている様子だった。

 陣は、導かれるように、寝所を区切る衝立を退けた。……息を飲む。

「ゆ、游旻」

 游旻が、力なく寝台に横たわっていた。両手足を拘束され、唇に布を巻かれた彼女は、陣を認めると、唸って、身を捩り始めた。

「――――お前達、一体、何を」

「お許しくださいませ。お許し下さいませ!!」

 身を焼く怒りのまま、女官を振り返れば、三人の女たちは身を投げ出して、額を床に擦りつけた。悲鳴のような声で弁明する。

 鳳の死を耳にした游旻が突然、髪に挿していた簪で自分の咽を突こうとしたのだと。

 間一髪で食い止めたものの、游旻は自身の命を何としてでも絶とうと、暴れ狂ったらしい。

「お止めくださるよう、説得いたしましたが」

 己の細首を締め上げるので手を縛り、高楼へ向かって走りだしたため、足も封じた。舌をかみ切るかもしれない不安に、結局、口もとも布で覆ったのだと言う。詮方なきことだったと、女官たちは、許しを請うた。

 陣は彼女らが嘘を吐いているとは思わなかったが、游旻がそのような振舞をするとも信じられなかった。混乱した陣は、一旦、女官らを下がらせると、妻に歩み寄った。

「だとしても、これは余りに、惨い」

 游旻は猫が威嚇するように鼻息荒く、陣を迎えた。

 陣はそっとその髪を撫でると口元の布を外してやる。何があったのか、本人の口から聞かねばと思った。游旻が何を考えているのか分からなかった。

 唇が自由になると、游旻は間髪入れず、陣に言った。

「あなたが死ねば良かったのに」

 言葉は形を持って、陣の鼓膜を貫いた。

「あなたが死ねば良かったのに!」

 游旻の絶叫に、陣は言葉を失った。

 声が唾液に絡め取られて、形を成さない。

 沈黙が二人を包んだ。

 言葉を反芻した陣の胸に、刀で斬り付けられたような痛みが走る。鮮やかに曝かれた、彼女の狂気の理由……

「死なせて、くださいませ」

 今にも消えてしまいそうな声で、游旻は請うた。彼女は滂沱の涙で濡れた頬を、陣の手にすり寄せ、繰り返した。

「わたくしに命を下す主人はもうおりません。自由です。わたくしは、この想いに殉じたい」

「何を馬鹿な。貴女は僕の妻だ」

「いいえ。いいえ、いいえ。わたくしは鳳の妻です。鳳がお命じになられたので、わたくしは、あなたの妻になった」

 陣は呆然と、妻を見下ろした。

「貴女は、僕を、少しも、想うことがないと」

 押し黙る游旻に、陣は笑っているような、泣いているような、情けない声で、確認した。

「これからも、決して僕を愛さないと」

 游旻は無言で頷いた。

 陣の視界は一瞬、真っ赤に染まった。全身を震わせる激情が、足先から、頭頂に突き抜けた。

 目の前から消えて欲しいと思った。今すぐ。

 陣は知れず、妻の細首を掴んでいた。

 寝台に押し倒し、馬乗りになる。

 游旻を被害者だと思い込んでいた陣は、自分の愚かさに笑い出しそうになった。

 情けなかった。誇りが傷ついた。自分を守るため、游旻を今すぐ消さねばならないと思った。……それを、彼女自身も望んでいる。

 陣は細首を締め上げた。

 游旻が柳眉を震わせた。けれど、一切抵抗を見せない。

 それが、歪んだ冷静さを、陣にもたらした。

 目尻に涙を浮かべ、苦悶する妻を、陣は下唇をきつく噛み、見下ろした。そろそろと両の手を離す。

 ……自分には輝かしい未来が待っている、と、脳裏で自分の声がした。もう自分を苛む兄はいないのだから、と。

(だけど、この女のせいで幸せにはなれない)

 想い続ける相手が、自分を愛さないなど、何処に、幸福を見いだせば良い?

(追い出すだけで良いじゃないか。この女の命を背負うなんて冗談じゃない。死にたければ、勝手に野垂れ死ねば良い)

 陣は決意した。追放してしまおう。目の見えないところへやってしまおう。そうすれば、もう、惑わされることはない。病で亡くなったと思い込めば良いだけだ。

(この女は、僕の愛する游旻じゃない)

 自分を愛さない女に用はない。

 ――――ない。それなのに。

「僕は、貴女を妻にした。貴女がどう思っていようと、僕は貴女を妻にした」

 心の底で、彼女を愛する過去の自分が訴えかけてくる。無言で見つめてくる。

 心がかき乱され、陣は項垂れた。ぽたり、と落ちた涙が游旻の衣に、丸く染みを作った。

「運命を供にすると決意したのは、他の誰でもない。貴女になんだ!」

(何故兄上は、僕に彼女を与えた?)

 不意に過ぎった疑問を振り払うかのように、陣は游旻の肩をきつく掴んだ。

「兄上は、貴女を僕に与えた。貴女はそれを放棄するのか。兄上の許可も得ずに」

 游旻の瞳が揺れる。陣は続けた。

「貴女は、殉じろと命じられていたのか?」

 游旻が唇を引き結ぶ。

「貴女は、兄上に……幸せになるように、と言われていたのか?」

 暫しの沈黙の後、游旻は力なく首を振った。

(ああ、そうだろう。きっと、貴女は僕の側にいけと命じられただけに違いない。だけど)

 陣は思いを巡らせた。

「兄上は、貴女を愛していたのだろうか」

「わたくしは愛されておりました。愛されておりました!!」

 必死な主張に、「だろうな」と陣は唇を歪め、確信した。

 兄はハッキリと嫌がらせだと言っていた。自分を目の仇にしていた。理由は簡単だ。

(兄上は自分が影武者であると……僕の代わりに死ぬと――――知っていた)

 だから、愛した女を陣に与えた。

 お前は全てを取り上げたのだと、思い知らせるために。王位も、運命も、愛する人も、お前が全てを奪ったのだと、糾弾するために。

 さながら呪いだな、と陣は引き攣った笑いを零した。

 生き続ける限り、陣は兄を思い出す。兄が得ていただろう栄光、忠義、愛する女……陣の存在自体が罪を孕んでいると、周りの全てが、声を上げる。

(だが……僕は、この呪いを、自ら解ける)

 こんな女などいらないと一言、言えば良い。それは、惨めな過去を切り捨て、輝かしい未来を手に入れるための、第一歩。

「……わたくしを側に置いて、どうしようと言うのです。あなたに差し上げられるものなど、何もない。なのに、どうして」

 游旻が啜り泣く。陣は親指の腹で彼女の涙を拭うと、砂糖菓子に触れるように接吻した。

「――――――何、を」

「あげられるものがない? それは嘘だ。貴女は僕に、何もあげたくないだけ」

 陣は、唐突に、妻の衣の合わせ目に、両手をかけると、勢いよく引っ張った。

「けれど、貴女はたくさんのものを持っているじゃないか」

「…………お好きになさいませ」

 露わになった美しい乳房を見下ろした陣に、游旻は固い声で応えた。

 今更恐怖など感じない程には、心を決めていたのだろう。

 まるで娼婦だな、と陣は内心で哄笑した。

(兄上。……僕は、呪いを享受しますよ)

 彼女は陣を騙していたわけではない。以前よりも親しくなれたと感じていたのは、自分だけの思い込みだったことを、陣は認めた。

「貴女を、愛してる」

 彼女を目障りに思う。けれど、愛を止められない。なかったことにして、忘れたくない。

 彼女との思い出を。そのせいで兄を忘れられないとしても。永遠に惨めなままだとしても。

「だから、僕は、貴女の心が欲しい」

「お戯れを。契り交わしたとて、差し上げる想いなどございません」

「貴女は与えたくないだけだと、そう言ったろう。だから僕は、奪うんだよ」

 無表情で、陣は游旻の片方の乳房に触れた。

「愛も恋も全て兄上のもとにあるのなら、僕は貴女から兄上の思い出ごと奪おうと思う」

 力のままに強く鷲づかむ。

 痛みに游旻は眉根を寄せた。その全てが陣には愛おしい。

「僕が、貴女の耳朶に、この肢体に、愛を刻む度、貴女は僕を呪い続ける。それが、これから貴女にできる、唯一のことだ」

 激情を押さえ、陣は憐れみを込めて言った。

「貴女の命を守るため、貴女には手も足も、舌も必要ない」

 じっと妻を見下ろしながら、寝台をまさぐっていた陣の左手が、目当ての布を見つけた。

 それを引き寄せると、彼は微笑んだ。

「貴女に、自由は必要ない」

「な、何――――――ん、んぐっ」

 顔を背けた游旻の顎を掴む。動かぬよう固定し、その小さな唇に、先ほど彼女の口元を覆っていた布を、陣は容赦なく突っ込んだ。

「僕は、これから貴女の中の兄上に、僕自身を重ね塗りしていく。何度も、何度も」

 強烈に。無茶苦茶に。

「貴女の瞳は僕だけを映し、僕だけを憎み、その心の中は真っ黒に染まって、いずれ、兄上のことなど忘れてしまう」

 恐怖に見開かれた瞳には、陣が映っていた。それに彼は満足した。

 もがき逃げようとする游旻の身体を寝台に押しつけ、陣は白磁の肌に舌を這わせた。

 額、目元、頬、首筋……汗をじっくり味わう。

 何も考える必要はなかった。全ては兄の呪いであり、それが示すまま……落ちれば良い。

「貴女は、ただ……兄上を愛するように。一心に、祈るように」

 初雪の積もった双丘のように、白く輝く乳房に、陣は顔を埋めた。

 得も言えぬ、甘い不幸の香りを胸一杯に吸い込む。

「僕を、憎めばよろしい」

 言って、膨らみにきつく歯を立てる。

 游旻の呻きは芳しく、陣をどろどろに蕩けさせた。

ご意見、ご感想などいただけましたら、とても励みになります。

お読みくださり、本当にありがとうございました。

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