問二:四つの精神と状況を整理しなさい。
『よかったよかった。無事に映っているようで何より。これが映ったという事は、もう鍵をかける必要はない。解錠しよう』
テレビに映し出されているのはレッドフォード教授の顔だった。そしてその顔には笑みが宿っている。しかしそれは、壮年男性の快活さは無く、邪悪そのものだった。
あるいは。歓喜か。
「ちょっと、どういうつもりよ。もうやってられないわ! サプライズなんてクソ食らえ! 私はここから出て行く。鍵は開いてんでしょうね」
カップルの女が発狂に近い叫び声を上げ、ドアの方へと大股で歩いて行く。男の方は一瞬躊躇うようにテレビの方を見たが、女について行くように立ち上がる。
ドアノブに手をようと手を伸ばす。
『おお、開けるのかね? 外がどうなってるかも分からないのに』
教授の一言で、女の手は停止した。
言っている意味が分からない。だが、このまま教授の言葉を無視して開けるのは危険な気がする。女は頭では理解できていなかったが、動物に備わる本能的なものでそれを感じ取った。
『私は量子力学についての研究も行っていてね。それについての実験だ。理論物理学者は実験をするものじゃないが、これは例外だろう』
「言っている意味が分からないのじゃが。教授、これはどんな実験で?」
『簡単に言えば、君たちは猫だ。シュレディンガーの猫。君たちがどうなっているかは私にも正確に知ることはできない。同様に、君たちも私がどうなっているか分からない』
カップルはドアの側で棒立ちのまま、老人と教授のやりとりを聞いていた。一応彼らも並みの常識がある人間なので、『シュレディンガーの猫』というフレーズは意味こそ知らぬも聞いた事はある。
『つまりは、外がどうなっているか君たちには分からないという事だ。例えばほら』
教授が指をパチンと鳴らした直後、ドアノブが白熱した。急激に熱せられたため、周囲の水分が一瞬で水蒸気に変わる。
真鍮製のドアノブらしいが、この白熱の仕方は明らかに異常だ。溶け落ちていないのが不思議なぐらいに。
『ここは地球のマントルの中かもしれない。さてさて、君たちは外に出たかったんだろう? 開ければいい。圧力で死ぬか、焼かれて死ぬか。どちらが先かは私にも分からん』
「そん、な馬鹿なことがある訳ない!」
『そうかね? 確かめたかったら開ければいいさ。どうなっても私には観測できんがな。このウェブカメラも細工の可能性は払拭できないしな』
教授は再びパチンと指を鳴らす。
次はあれだけは白熱していた真鍮のドアノブが一瞬で冷えて黒ずみ、しまいには凍りつき始めた。
『ここは太陽から遠く離れた氷の星、天王星の表面かもしれない。そう、地球という惑星の中でないかもしれないよ。だって、観測しなければ分からないからね』
つまりは。どうやっても出られない。ガチャリ、と解錠を示す音がドアからしても、誰も開ける者はない。
見るもの以外信じるな、と言われれば誰も外に出られないではないか。外に何があるかわからない状況では、そこに留まるしかないではないか。
これが、シュレディンガーの猫。その、逆さまだ。
エルヴィン・シュレディンガーはこのあり得ないぶっ飛んだ状況を是とする量子力学を皮肉るため、かの有名な思考実験を行ったはずなのに。
量子力学が存在する限り。量子力学が間違いであると証明されない限り。
この部屋は猫の入った箱として機能する。
とどのつまり。鍵のかけられていない究極の密室に、閉じ込められたのだ。
◇◆◇
発狂した。
もうおしまいだ。絶望しかない。部屋から出ることは実質不可能だ。いや、生死を考えなければ出ること自体は不可能ではない。だが死因が『部屋から出た』だとあまりに間抜けだ。
部屋から出たい。だがドアを開ける勇気なんてない。
カップルの女は大声で喚きながら神の名を叫ぶ。それを呆然と見る男の方は逃避し続けていた事実がじわじわと確信に変わり、無表情でいるのも難しくなってくる。
二人の中で。何かが明確に瓦解する。
それは何と呼べば良いのか。精神、自己、根幹。
人間を構成する中心たる名の無い何かが壊れる。形があったならば『粉々に』と表現するほどに。
時折ぎり……という痛々しい音がする。それはカップルの男がゆっくりと舌を噛み切ろうとする音だった。つまりは、その命を捨てる行為。
これが人間の極点なのか。極大の絶望の中では『現実ではない場所』への想いが無意識に募っていくものなのか。
逃避に逃避を重ねるうちに、二人の男女はほぼ同時に気づく。
このままでは死ぬ。だが、ここから行動しても死ぬ。
じゃあ確率が高いのはどっちなんだ?
この後に及んでようやく冷静な思考を取り戻したのは、それだけ感情を出し尽くした証なのだろう。無感情は冷酷に聞こえるが、論理的、客観的という面では非常に優れている。
二人は指標を求めた。取り敢えず向かうべき場所、やるべき事を。
何の会話も交わしていないのに、二人はアイコンタクトで了解したようだった。ドアに近づき、屈み込む。
その淵に隙間が無いかどうかを調べているのだ。そこから外の様子を伺おうとしているのである。幸い、真鍮のドアノブは白熱も凍結もしていないことから、たとえ隙間から何が見えてもこちら側に被害がある事は無いだろう。
地球のマントルの中や氷の星の中心核ならば、その様子を覗くのは愚行だろう。
だが彼らはある意味で量子力学の本質を突いていた。
観測すれば、外の事象は確定する。つまり部屋の中から外の様子を『観測』できれば、外の世界に『無限の可能性』は無くなるのだ。たとえそれがマグマだろうが、氷を超えた凍結であろうが。
「くそっ! 結局どこにもない。これじゃあ何も手がかりが……」
結局、ドアに隙間などなかった。流石に理論物理学者たるものがそんなミスを犯すはずもないが、心の指標を求めているカップルの二人にとっては可能性があるならば希望に変わってしまう。
へなへなとカップルの女は床に倒れこむ。土足の床に夏場の薄い格好で寝転がるのは衛生的によろしくないが、この状況で衛生もクソもない。そんな戯言を考える時間は無い。
男の方もそんな女を見て、改めて自分の状況を再認識したのだろう。
だがその焦りの顔は一瞬にして無色に変ずる。逃避を超えた、『感情の消失』だ。
何も手がかりは無い。
シュレディンガーが遺したものは、それだけ狂っていて、尚且つ完璧だった。
老人はこんな時でも冷静だった。
まず冷静に周囲を見回した。流石にこの状況となれば、教授の悪ノリという線は絶対に無い。もしもそうなら、間違いなくカップルの女あたりに八つ裂きにされるだろう。ヒステリックな女は亡き妻だけで十分だ、と老人は心の中だけで呟く。
部屋には外の様子を見るための窓はない。あの教授が言うには、外の様子が分からないからこの部屋から出られない、という事だから当然か。換気するものもない。となると、あまり時間が経ちすぎると餓死よりも窒息死の恐れが高まる。
内装は実にシンプルだ。四人のための腰掛椅子、先ほどまで教授の映っていた旧型のテレビ、そして意味ありげな冷蔵庫。そして実験室にはよくある液体の入ったタンクだった。
老人は冷蔵庫に手をかけ、中を見ようとするが躊躇う。
そう、ここはシュレディンガーの罠の中だ。
自分の『観測』できない場所を、覗くことは安全なのか?
ひとまず冷蔵庫は危険と判断して放置した。
冷蔵庫の次に確認すべき特異なものといえば、貯蔵タンクだろう。シュレディンガーの猫について、多少知識があれば気づくと思うが、これは明らかに噴霧される毒液を模している。
そもそもあの実験のテーマである『猫の生死』の元凶もこの毒液なのだ。
しかし、タンクには『蒸留水』と記載されている。何とも実験室らしいものだが、簡単に信用する訳にはいかない。
幸いなことに、タンクは半透明で中の液体が見えている。そこから液体を出すためのチューブも半透明なので、一応『観測』はできている。つまりこのノズルを捻った途端に毒ガスが出てくるようなことはないのだ。……半透明なタンクが、そう見えるように作られている可能性も否定できないが。
(老い先短いんだ。この先何があろうと、わしの運命は変わらん)
決心すると、にわかにチューブの先にあるノズルに手を差し出す。透明な液体だったとしても、硫酸などが溶けている可能性もある。だから取り敢えず自分の腕を使って、酸ではないことを証明するのだ。
きゅっ、と一捻りして出てきたのは、やはり透明な液体だ。それに何が溶けているかは定かでないが、取り敢えず腕に火傷が無いことから硫酸である線は無い。
吹っ切れたのか、老人はノズルから滴る液体を掌ですくい、口をつける。
(やはり、水? 味のようなものはしない。この老いぼれの味覚があてになるかは分からんが)
老人はタンクから離れる。自分の身体には目立った被害はないが、この後どうなるかは分からない。明確に純水と確認できない限り、他の三人に勧めることはできない。
(ふむ。結局、教授は何がしたかったんじゃろうか)
老人は考える。
部屋の中と外。一体どちらがシュレディンガーで、どちらが猫なんだ?