乙女ゲームのヒロインがバグりました――前世のチート転生者が荒らした後の廃領地で、不審なゲーム攻略イベントを合理的に論破して排除する話
アッシェンバッハ領は、かつて訪れた「至高の賢者」によって徹底的に破壊された。
賢者を名乗ったその男は、異界の知識とやらで領内に巨大な魔力炉を築き、旧来の産業をすべて廃して魔導機械によるオートメーション化を推し進めた。しかし、彼の知識はあまりにも雑で、安全基準を無視した設計の炉は三年目に大爆発を起こした。賢者は爆発の煙に紛れて姿を消し、残されたのは、有毒な魔力泥に汚染された畑と、膨大な借金、そして不毛な廃墟と化した領地だけだった。
私の幼馴染であるジークハルトは、急死した父の跡を継いで領主代行となり、その日暮らしのやりくりに追われている。私は領主館の片隅、奇跡的に焼け残った古い書庫で、散乱した過去の帳簿や魔導書の整理を行いながら、彼を陰で支える方法を探していた。
ある日の午後、黴臭い書庫に不釣り合いな甘い香りが漂ってきた。
扉が開く音が聞こえ、顔を上げると、見慣れない少女が立っていた。薄桃色の髪をきれいに巻き、この荒廃した領地には似合わないフリルのついたドレスを着ている。
彼女は私に気づくと、大袈裟な動作でよろめき、「きゃっ!」と声を上げて床に倒れ込んだ。手から滑り落ちた小さなガラス瓶が割れ、さらに強い甘い香りが立ち上る。
「ごめんなさい、足がもつれてしまって……。あ、あなた、この書庫の管理者?私はフィーネ。よろしくね」
立ち上がったフィーネは、スカートの埃を払う動作をしながら、上目遣いで私を見た。その瞳はどこか虚ろで、焦点が私ではなく、私の頭上にある虚空を結んでいるように見えた。
「大丈夫ですか」
私は静かに尋ね、割れたガラス瓶の破片を見つめた。立ち上る香りは、ただの香水ではない。精神を微かに弛緩させ、相手の警戒心を解く作用を持つ薬草「ネペンテス」の抽出液だ。
「平気よ!それより、ジーク様……あ、ジークハルト様はこの書庫によく来られるのかしら?実は私、彼にどうしても伝えたいことがあって」
フィーネの口調は、初対面の人間に対するものとしてはあまりにも馴れ馴れしかった。そして彼女は「フラグ」や「イベント」といった、この世界の言語ではない奇妙な単語を独り言のようにつぶやいていた。
私は本を閉じ、感情を殺した声で答えた。
「ジークハルト様は領内の復興事業で多忙を極めております。書庫に来られることは滅多にありません」
「そっか……じゃあ書庫イベントは発生しないのかな。でも、ここが出会いの場所じゃないなら、やっぱり次は街頭での衝突イベントかな?」
フィーネは私を無視してそうつぶやくと、風のように去っていった。
私は彼女が立ち去った後、床に残った香水の成分を布で拭き取り、それを魔導分析器にかけた。結果は思った通り、魔力的に合成された精神干渉薬だった。彼女は自身の魅力を不自然に高める「魅了」の魔法、あるいはそれに類する魔導具を使用している。
アッシェンバッハ領は、前回の「賢者」のせいで外来の異常者に対して非常に敏感になっている。私はただちにジークへ警告を送るため、報告書を書き始めた。
フィーネはその後、街中でジークハルトに接触を図った。
ある日、復興計画の予算書を片手に中央広場を歩いていたジークハルトの前に、フィーネがパンを咥えて角から走り込んできた。そして、避ける素振りすら見せずに正面からジークハルトに衝突した。
「痛っ……!もう、どこ見て歩いてるのよ!……って、あれ?あなた、ジークハルト様?」
フィーネは芝居がかった動作で顔を赤らめ、ジークハルトを見上げた。周囲の領民たちが呆然と見守る中、ジークハルトは眉間に深い皺を刻んだ。
「すまない。だが、広場でパンを咥えて疾走するのは危険だ。それに、君の身体から漂うその匂いは何だ」
ジークハルトの指摘は冷淡だった。彼は前賢者ハルトの残した精神干渉装置の被害を間近で見てきたため、フィーネが発する魅了薬の香りに敏感に反応したのだ。
「え?匂い?これ、ローズの香水だけど……え、ちょっと待って、ここで『なんだ、この香りは』ってなって、私の手を引いて連れて行ってくれるんじゃないの?」
フィーネは困惑したように小声で言った。ジークハルトは彼女を完全に狂人か、あるいは他国の間諜と判断したようだった。
「警備兵。この者を広場から退去させろ。他者に精神干渉を及ぼす疑いのある薬物を所持している可能性がある。身元を確認しておけ」
「嘘でしょ!?冷徹公爵のデレ期前だからって冷たすぎない!?好感度マイナススタートなの!?」
フィーネは警備兵に両腕を掴まれそうになり、必死の形相で身を翻して逃げ去った。
私は広場の陰からその様子を観察し、確信を得た。彼女は「ゲームのシナリオ」を盲信している。そして自分の行動がすべて好意的に受け取られるという、恐るべき独善性を持っている。
数日後、フィーネはさらに強硬な手段に出た。
領主館の裏手にある庭園に無断で侵入し、ジークハルトの執務室の窓辺に、青いバラの花束と一枚のカードを置いていったのだ。カードには「明日の午後、北の廃鉱山で待っています。大切な話があります」と、美しいが奇妙なインクで書かれていた。
ジークハルトはそのカードを私に見せ、ため息をついた。
「例の不審な女だ。北の廃鉱山といえば、ハルトが遺した魔力炉の残骸がある場所だな。あそこは現在、有害な魔力の残渣が漂っており、一般人の立ち入りは禁止されているはずだが」
「はい。普通の領民であれば近づきもしない場所です。しかし彼女は、あえてその場所を選びました。おそらく、何らかの劇的な出来事――彼女の言う『イベント』を起こすためでしょう」
「どうする、アメリ。彼女を捕らえるか」
「いいえ、ジーク様。彼女は自分が世界の主役であると信じ込んでいます。こちらが強硬手段に出れば、被害者を装って周囲の同情を買うか、あるいはさらに予測不可能な行動に出るでしょう。ここは、彼女の描く『台本』をこちらで書き換えるべきです」
私は静かに提案した。
「私が彼女に接触し、案内役を買い出します。彼女が何を企んでいるのか、そのすべてを暴き、弁解の余地のない現行犯として処理しましょう」
ジークハルトは私の目を見て、静かに頷いた。
「わかった。君の判断に任せる。だが、無理はしないでくれ」
私は領主館の書庫の外、フィーネが潜んでいると思われる街の宿屋へ向かった。
宿の裏路地で、フィーネが一人でメモ帳を睨みつけながらイライラと爪を噛んでいるのを見つけた。
「フィーネさん」
私は声をかけた。
フィーネは驚いて顔を上げ、私を睨んだ。
「何よ、あの地味な図書委員じゃない。どうしてここがわかったの?」
「書庫の管理人は、領内の動向に詳しいものです。ジークハルト様から、あなたの置かれたカードを拝見しました」
「あ!ジーク様、カードを読んでくれたのね!?じゃあ、明日の廃鉱山に来てくれるの?」
「はい。ですが、ジークハルト様は大変警戒心の強いお方です。前賢者ハルトの残した魔力炉の爆発事故以来、外部の人間を信用していません。もしあなたが、ただそこで待っているだけでは、彼は警備兵を連れてあなたを逮捕しに行くでしょう」
「ええっ!?そんなの困るわ!あそこは、山賊に襲われた私をジーク様が助けて、その後で魔力炉の暴走を二人で止めて絆が深まるっていう、最大のイベントなのよ!」
フィーネは焦ったように、自分の手の内をすべて暴露した。やはり彼女にとって、この世界は自分の恋愛を成就させるための舞台でしかないのだ。
「なるほど。山賊に襲われる、ですか」
「そうよ!もう山賊役の浮浪者たちにお金は払ってあるんだから!レシピ通りにやれば絶対に上手くいくはずなの。でも、魔力炉の暴走はどうやったら起こせるの?私、機械の動かし方なんてわからないし……」
私は微笑みを深め、親切な案内人を装って言った。
「それでしたら、私がお手伝いできます。魔力炉の制御盤には、赤いレバーがございます。それを右に回し、中央の安全キーを抜き取れば、炉は疑似的な警告状態に入ります。ジークハルト様が到着された瞬間にその操作を行えば、彼はあなたと共に炉を止めるために奔走せざるを得なくなるでしょう」
「本当!?ありがとう!あなた、実はすごくいいキャラだったのね!NPCにしては気が利くじゃない!」
フィーネは私の手を握り、嬉々として宿へ戻っていった。
NPC。彼女が使ったその言葉が、私の胸に冷たく突き刺さった。彼女にとって、この地で生きる人々は、感情を持たないただの背景に過ぎないのだ。
私はその足でジークハルトのもとへ戻り、計画の全貌を伝えた。
「山賊役の浮浪者たちは本日中にすべて捕縛します。指示書や金銭の流れも押さえました。そして、廃鉱山の魔力炉は、私が事前に安全対策を施しておきます。フィーネが自らテロ行為を働く瞬間を、ジーク様と警備隊で押さえてください」
翌日の午後。
北の廃鉱山は、冷たい霧に包まれていた。
かつてハルトが暴走させた巨大な魔力炉のコアは、錆びついた鉄骨の奥で、未だに弱々しい青い魔力を脈動させていた。
フィーネは薄暗い魔力炉の前に立ち、興奮した様子で赤いレバーを見つめていた。
「よし、そろそろジーク様が来る時間ね。山賊たちがいないのは気になるけど、まあいいわ。魔力炉が暴走すれば、絶対に彼は私を助けに来るはず。そこで私が『きゃっ、危ない!』って言って……」
フィーネが赤いレバーに手をかけ、それを右に回そうとしたその瞬間。
「そこまでだ、フィーネ」
廃鉱山の入り口から、松明を持ったジークハルトと、十数名の重武装した警備兵が姿を現した。
フィーネはぱっと表情を輝かせた。
「ジーク様!来てくれたのね!私、ここで山賊に襲われそうになって……あ、あれ?山賊は?」
ジークハルトの目は、燃える松明の炎よりも冷たかった。彼は腰の剣を抜き、フィーネを指し示した。
「貴殿が雇った浮浪者どもは、すでに全員捕縛した。彼らは貴殿から金を受け取り、ここで自作自演の誘拐騒ぎを起こすよう指示されたと白状している。そして」
ジークハルトは一歩踏み出し、冷徹な声で告げた。
「貴殿が今触れているそのレバーは、領地の魔力炉の安全装置を破壊するものだ。それを操作すれば、炉心融解が起き、この領地全体が再び魔力の毒に侵される。貴殿の行いは、領民数千人の命を人質に取る、明白なテロ行為だ」
フィーネは呆然と立ち尽くした。
「テロ……?何言ってるのよ!これはイベントでしょ?魔力炉を暴走させて、二人で止めるっていうゲームのシナリオよ!どうして私がテロリスト扱いされるのよ!」
「ゲーム?」
ジークハルトの眉間に怒りの筋が浮かんだ。
「ふざけるな。数年前、ハルトという男がこの炉を暴走させ、我が領地はどれほどの悲劇に見舞われたか。今なおその傷跡に苦しむ領民たちがいるのだ。それを、己の奇妙な妄想を叶えるために再び危険にさらそうとするなど、万死に値する大罪だ」
「違うわ!ハルトなんて知らない!そんなキャラ、原作のゲームには存在しなかった!ここは乙女ゲーム『聖女の恋路は薔薇色に』の世界で、私はヒロインなのよ!なんで誰も私を愛してくれないの!?どうしてシナリオが壊れてるのよ!」
フィーネは半狂乱になり、安全装置のレバーを力任せに引いた。
「こうなったら、炉を爆発させてやるわ!ピンチになれば、絶対に私を守る選択肢が出るはずよ!」
警備兵たちが身構えた。
しかし、魔力炉は沈黙したままだった。脈動していた青い光は急速に失われ、ただの鉄の塊へと戻っていった。
フィーネはレバーを握ったまま、呆然と私を見た。
「え……?なんで動かないの?」
「数日前、あなたがこの計画を教えてくれた瞬間に、私はこの魔力炉の接続プラグを外しておきました」
私は物陰から姿を現し、手に持った黒いプラグを示した。
「ハルト様の遺した設計図を読み解けば、この炉の物理的停止コードを入力することなど容易でした。フィーネさん、あなたは自分の描いた物語に夢中になるあまり、現実の機械の構造すら調べようとしなかったのですね」
「嘘……嘘よ……!」
「連れて行け」
ジークハルトの冷徹な命令が響いた。
警備兵たちがフィーネを取り押さえ、その腕に魔力を封じる手錠をかけた。フィーネは泣き叫びながら、床に擦りつけられるようにして引きずられていった。
「離して!私はヒロインよ!これはバグよ!バグなんだから!私を助けなさいよ、このバグキャラども!」
その叫び声は、冷たい鉱山の闇に虚しく吸い込まれていった。
廃鉱山に静寂が戻った。
ジークハルトは剣を鞘に収め、深く息を吐き出した。そして、私の方を振り返った。
「アメリ、また君に救われた。もし君が彼女の意図を見抜いていなければ、領地は二度目の破滅を迎えていた」
「お役に立てて光栄です、ジーク様。私はただ、書庫にある知識を整理し、論理的に導き出しただけに過ぎません」
私は恭しく礼をした。ジークハルトは少しだけ表情を和らげ、私の肩に手を置いた。
「君がいてくれてよかった。さあ、帰ろう。書庫は冷えるから、温かいお茶を用意させる」
「ありがとうございます、ジーク様」
領主館の書庫に戻り、私は再び静寂の中で本を開いた。
フィーネという少女。彼女はきっと、何不自由ない満ち足りた世界で、自分が物語の主役であると信じ込まされて育ったのだろう。他者の痛みを感じることもなく、ただ自分の欲望を満たすための舞台を求めてこの世界にやってきた、哀れな怪物。
しかし、そんな怪物を生み出したのは、彼女を主人公としてちやほやし、他者を脇役として扱うことを許した、彼女のいた社会そのものなのだ。
フィーネで三人目だった。
どうやらこの世界のどこかに、アッシェンバッハ領を舞台にした乙女ゲームなるものが存在するらしい。転生者たちはそのシナリオを握りしめてやってくるが、攻略情報にはハルトの大爆発もその後の荒廃も載っていない。ゲームと現実の乖離を理解できないまま、全員が同じように自滅していく。
私は帳簿を閉じ、新たに届いた入境申請書の束に目を通した。この崩壊した領地を守るために紡ぎ出すロジックの種は、まだまだ尽きそうにない。




