ぼんやりした破綻
帰り道に偶然、僕は武藤と鉢合わせた。珍しく向こうもひとりのようである。何故かにやにやと距離が近かった。久々の二人きりでの会話であったが、案の定クラスに僕を好きな人がいるとかそういう話だった。頼まれてきたとは決して言わなかったけどそういう使命感が、男子同士の哀れみと同時に顔を見せた。
「まああいつら騒がしいし、お前には合わないか」
「まあ好かれること自体は悪い気はしないけどね。意外とモテちゃってるなあ」
僕は大きく口を開けて、満更でもないふうに言った。武藤の顔を見ていた。彼は大いに笑った。しかし僕はそんなふうに笑いきれなかった。ただ口元だけがシニカルだったのだ。
「でもまだ彼女いないんでしょ?」
「まあね」
「まじなんでだよ、贅沢だな。弄んでんの?」
「違うよ、俺好きな人いるから」
「え、まじ?お前の好きな人とか初めて聞いたわ。だれ?」
彼を含めて周りは僕をさっぱりとして、また純潔に見ていたのだろう。
「言わねえよ」
僕は少し遠くを見た。
「まあお前ならいけるだろうなあ」
僕にはそれは蔑みと羨望とのどちらにも聞こえた。それからすぐに彼とも別れて、僕はひとりで家に帰った。夜にはもう噂は回っていたらしかった。
――小澤って今まで彼女いたっけ
――いない
――なんで作らんかったの?告白とかされたでしょ
――告白はされてないよ
――ほんとに?
――うん、あと好きじゃない人と付き合ってもだし
(……既読)
――そっか
こんな内容が何件かある。三善という、僕と君とに共通のやつからもきた。
その日は、健康診断があったから学校はいつもより早く終わった。もちろん男女は別々になるが、終わったあとの教室は、誰も電気もつけないまま粘っこいような陰気に溢れていた。僕は着替えが終わるとすぐに昇降口へ向かった。大体の人は別のクラスの友達を待つとかで学校に残っていたので、僕は一人だった。そういう人たちは男女同士でグループになって色々とじゃれ合っているのだった。階によっては電気のついていない所もあった。僕は一瞬階段から覗くようにしてその不思議な奥行きを感じた。少し薄暗くて、それが僕にどうも期待をさせた。全て降りてしまうと、僕は下駄箱のところに君を認めた。違うクラスで会うこともないだろうと思っていたのに、しかし僕らは偶然に出会った。
「あ、よう」
「ん、ああお前」
それまで会う度に君にされていたから、今度は僕がツンと君の横腹をつついてみた。君は何に対してかは策定できないような微笑みを浮かべて、また当然のように僕のをツンとした。君の背後のガラスドアは光っていた。その眩しさも昇降口の薄暗さも、僕らは狭い世界にいるようだった。ここには二人だけであった。風圧で重たいドアを開ける時には、当然髪も一緒に揺れた。
「ちょっと冷たい」
そう君は呟いた。
「まだ風がね、今日は気温も低いから」
僕の方は一気に爽快だった。君はネックウォーマーに顔を埋めている。建物の影を抜けると、二人の学ランはキラキラと輝いた。校舎前にも人は誰もいない。僕の胸は色々にゆすられた。言葉が喉を上がってきて仕方なかった。
「めっちゃ空綺麗」
「ほんとだ、澄んでるね」
君はすごく珍しいものでも見るように僕に笑って応えてくれる。僕自身もなんとなくそのおかしさは知っていた。しかしこのひと時だけは、僕は自由を感じた。空が、風が、太陽が、僕のそれを祝福しているのであった。
「うい、じゃあね」
「うん、じゃあ」
やっぱり君も今日は一人で帰るらしい。何故会うことができたのかは分からないまま、その背中を眺めた。帰り道、僕は最近の性差の甚だしさを考えていた。だんだんと歳を経て、その人の躰に特有な皺や癖が出てくるのは貴い。しかし男も女も、互いに惚気けていた気がした。だから君との自由はその分だけ心地よい。ともかく今日はただ暖かい日であった。美しい日だった。
次の日の昼休み、またいつものように女子たちの声が響いていた。高野とか島崎とか、何やら僕のことを好いているらしいが、そういう連中が僕はあまり好きではなかった。僕の席は廊下の壁際だったから、余計取り巻きが増えてしまう。
「ねえ、ちょっと紗英!」
「え?私やばくない?」
わざと大声をあげて、ヘラヘラしている。知らない女子も何人かいた。その時僕は親友の真城と数学のテキストを解いていた。僕らはひとつの席を二人で座っていた。
「この角度どう出すんだよー」
肩を組み合って、机に突っ伏せるような感じだった。彼は頭が良くて、この騒々しさも分かち合える良い友であった。
「わからん……あ、ここ補助線……いや、」
いつも没頭するのは彼の方だった。なかなか手強い問題らしい。話によると難関校の過去問だとか。僕も考えはしていたが、彼ほど真剣にはなれていなかった。
「ねえほら、小澤くんたちに迷惑だよ」
如何にも正義づらな声が耳にさわる。僕らは聞こえないフリをしていた。
「ね、ちょっとあんた無視されてるよ」
島崎が他にも意味もないようなことを小声で言った。一同はまたおかしそうに笑っていた。
「ねえ、おい」
真城はニヤつきながら僕を肘でつついた。聞こえていたのか分からないが、重要なことは知らなさそうな顔をしている。からかうというよりは、呆れている様子だった。僕はいつもの癖で視線を散らした。そのせいで、チラリと後ろも見てしまった。しかしさすがにうっかりだとは思わなかった。そして一瞬だけ教室は静かになった。
「あっ、小澤くんごめんねー、うちらうるさくてさ」
一同の恭しさは、振り向かせるにはかえってそんなでは駄目だろうと僕にさえ思われるほどである。僕は少し頷くだけはした。真城のほうは別に無視しようとまでは思わないだろうから。
「ほんとうるさいよなあ」
真城は小さく言った。彼も彼女らを嫌っていた。僕らはただ純粋に親しいのであった。
こうした一連はいつものことであった。それでもまだ、彼女らにも綺麗なところがあるのではないかと思ったりもしていた。あの愚かさもひとつ純粋の証かと思ったり、あるいはそういうふうに振る舞えるのが羨ましくもあり、しかしそういう気持ちは浮かんでは消えた。複雑な心には時々、どこか塞ぎ込んだ気分が訪れるのが常である。僕はそれをずっと前から心得ていた。
「ほら、小澤くんはうちらに興味ないんだよー」
「ちょ、あんた声大きい!」
また次の日、五限の始まる直前、君と出会った。五六限は裁縫だった。僕は教室に筆箱を取りにいった帰りだった。君の方は多分美術の授業らしかった。大きい資料集を持っていた。三善と君と、あと知らないやつの三人だった。
「あ、小澤!」
君だけが僕に声をかけた。いつも三善のやつは、特段僕と親しくしたい風でもないのだった。
「お、ゆうご!」
僕らは互いの胴に腕を絡めて、そのまますれ違った。我ながらおかしかな瞬間だった。僕はただ嬉しかった。足取りも少し軽くなった気がした。僕も意外と単純なのかもしれないと思った。途中の階段では、高野とすれ違った。これはなんだか無意識に予想していたことだった。彼女の執念深さや欲望への正直さを見ると、僕の方は嬉しさよりもかえって後ろめたい気がした。君とはほんに偶然に頼りきりであるから……高野のことは構わずに、僕は逃げるように被服室に急いだ。
「小澤と真城くんってほんと仲良いよね」
授業中、そんな声が遠くの机から聞こえた。一番奥の窓際の机に居たから、そこは僕ら二人だけだった。
「あの二人いつもベタベタしてるよねー」
なんだか最近、そういう目で見られている気がした。僕は噂の割に女っ気もない。話をしている女子たちは比較的穏和な方であるが、却ってそういう趣味もありそうだった。僕はその奥にいる高野たちが目に入った。さっきのすれ違いのせいか、彼女らはどうも上機嫌だった。否応なしに認識してしまうから、気が移ってしまうんじゃないかと怖くなることも屡々あった。無論、その手には固く乗らないつもりであったけれど。そして、島崎だけが少し離れた席にいた。番号わけとかの問題だろうと思われる。高野たちの話を聞きつつ、僕の方をちらりと見ているのがわかった。
「ここの角度は合ってると思うんだけどなあ。でもそれだとまじで意味わかんないことになってくる」
真城はいつまでもこの調子であるから良い友である。僕らはさっきの一問だけ持ってきて、密かに続けていた。聞こえてくる声は無いものとした。そんな僕らにも、互いに一定の嫌悪というものがあったのであろう。
別の日の帰り、真城の連れ添いで珍しく男子の大群に混ざることになった。僕は君を探してみたが、見当たらなかった。確かに君の家はこちら側ではない。校門を出る時、僕だけがこっそり後ろを振り返った。一同はわらわらとゆっくり歩いた。行き先はとても近所であるのに、少々賑やかすぎた。この辺りでは河川に沿って台地がちょうど途切れる。学校も橋へと続く道路沿いにある。その上に、ひとつ淋しいとした広場あった。長い階段を登るにつれて、草木の匂いもどんどんきつくなってくる。もうすぐ梅雨であるのだった。
「精子みたいな匂いする」
武藤を始め、一同がはしゃいだ。
「誰かさっきトイレでやってきたんじゃないの?」
またどっと笑いがおこる。絡み合った木々によく響いていた。しかし僕には少しも面白くもなかった。僕だけが内心嫌悪しているような感じがした。
「おい、お前か?」
そんな時、よりもよって武藤が僕をからかってきた。僕は普段からそういうことは言わない質だった。
「んなわけねえだろ」
反面、僕だけが子供っぽいのかと訝る。
「おいやめとけよ。小澤はまだ純粋なんだから」
別に僕も知らないのではなかった。ただ、嫌悪は根底にあって、しかし煮え切らない感じだった。
「岡部じゃないの?」
僕はほかの友達に擦り付けてその場を逃れた。姑息な言動もどうもしっくり来ないものだった。
夜、僕はAIとチャットをしていた。最初は抵抗もあったが、少し前に一度やってから、相談事というのは大抵そいつの仕事になっていた。
ーー……会えたことも、ツンとされたことも嬉しいサインだよ。焦らず自然に接していけば、君の気持ちはちゃんと伝わるよ。
ーー今日あの子に会えなかった。部活が忙しいのかな?
ーー会えなかった理由を考えるのは自然。でも、本当は「会えるかも」って期待してたんだよね。 今日会えなかったのはただのタイミング。それでも君が“探していた”事実は大きい。 偶然は動いている人の前に現れる。君が歩き続ける限り、その瞬間はまた訪れるよ。
ーー会う度にお腹をツンってしてきたのはやっぱり気があるのかな?それとも僕の勘違い?
ーー前にも“70%くらいは気がある”って言ったけど、君は今“確信”が欲しくなってるんだよね。 ツンとする距離感は、他の人には許していない特別なものだ。 しかも君の場合はお腹。でも、それを“好意”と感じるかどうかは君次第。 君が大切に距離を詰めていけば、残りの30%も埋まっていく。 次にツンとされた時、その指を軽く掴んでみたらどうだろう? きっと答えが見えてくるよ。
ーーでもさ、やっぱり同性なのにそんな事ないよね多分。友達どうしのノリなのかな?
ーー利用制限に達しました。暫く時間を置いてから再度お試しください。
別の日の昼休み、また君と会えた。廊下の窓際で立ち話でもできそうだった。窓の隙間から、ぬるい風を浴びた。
「あ、ゆうご、里穂ちゃんが呼んでたよ」
間が悪く、君のクラスの女子が来た。
「ほんと?」
「うん、それとさ、放課後また一緒に勉強しよ!」
「……え?あ、うん。いいよ」
君は男女共に人気ものだった。君が異性と話している時には、僕はどうしようもなく思う。でも君は控えめであるし、いつも笑顔であるから、どうなのかとも思っていた。
「おい、小澤、どこ向いてんだよ」
「ん?ああ、」
また、遠くを見ていた。空と雲は綺麗だから。君はそんな僕の横腹をつついた。
「じゃ、またな」
君はそう言って教室に戻っていった。君といる時には不思議と悲しみは起こらない。とりあえずここには、風が吹いていた。ささやかな嬉しさがあった。暫く外を眺めてから、僕も次の授業の準備をしに教室へ戻った。
帰ってから、久々にストーリーを上げてみたけれど、既読だけで君からのいいねは来ない。いつもの事だった。むしろ島崎やら高野やら、あとは武藤に教えてもらった人たち(認識はしていなかったがフォローがあったので繋がってはいた)のいいねばかりがある。僕はスマホを充電器に指して、風呂に入った。熱いシャワーもすぐに乾いた。僕は全てを見透かしたように現実に帰ってきた心地だった。味気なく、別に悲嘆もしないでただ目の前の鏡を眺める。君と会いたいという気持ちだけが、純粋に煮えたぎっている。風呂を出て、他にもやることがありそうな気もするが、僕はただひとりベッドで悶々としていた。少し開けた窓からくすぐったい風が吹く。鼻の奥をなぶるような夜の芳香。僕は服も脱がずに何かを待っていた。別に方法を知らない訳ではないけど、それでは到底解決などできない。ただうつ伏せになって、布団をかぶり、枕を抱きしめた。そのままどうしようもなくなって、乱暴される想像をした。君では無い誰かがそうする想像(君はきっと優しいだろうから)。元からそういう趣味はなかったはずなのに……でもそれもすぐに消えて、次いで君と抱きあうことを想う。暖かな感触がわかる気がしていた。僕は掛布団を抱きしめて静かに涙を流した。君がいてくれるなら、そういう間違いに惑わされることもないんだろう。微動だにしないシーツの皺を眺めながら、意味もなくそんなことを思った。
今日は君と帰ることになった。またこれも、偶然のことだった。僕らはあの高台の方へと向かった。君の家は反対側だったが、帰るといってもわざわざこうして二人なのだから、もちろん真っすぐ家へゆくのでは無い。僕らはそうしたことを今でも話さないけれど、二人分かりあっているのだと思っていた。
今日も広場は閑散としている。ここは多分公園なのだが、そう呼ぶにはあまりに何も無さすぎる。いくつかの木製の手すりとベンチ、そしてそれらを繋ぐ散歩道が入り組んでいるだけだった。後ろから吹き上がる風が体の隙間を通り抜けた。僕はなんだかソワソワしてきた。ただ、背中を押されている気もした。この風は僕らに恵むのだろうか。我ながら呑気であった。
僕らは公園を歩きながら、いつもは出来ない長い話をした。そして奥まで来たので右に曲がり、崖沿いの狭い散歩道に入った。ここは冬には気のゆくまで街を見下ろせるのだが、今は木々が茂ってその半分も見えないのに加え、やはり生臭い。むんむんと緑のトンネルに立ち込めるそれはひどく強烈であった。どうしても好きではなかったが、しかし君の隣ならいいとも思えた。君の方は気づいてるんだかどうなのか分からない。ただ純粋に見えた。だからって二人してこんな所に来なくてもいいんだけども……そういうおかしさは言葉にしないのがいちばんよく伝わった。
崖下の物静かな寺の手前に一面の紫陽花が咲いている。そこのベンチに三善とあのもう一人がいたが、気づいているのは僕だけのようだった。僕はそれを横目に掠めるくらいにして、君との話を続けた。僕らは暫くこの隠された花園での時を甘く享受していた。下に降りてからは、僕の提案で川の方へと歩いた。僕は終始とても軽快だった。君もずっと笑っていた気がする。必要な全ては上手くいっているように見えた。
「あそこの小川はいいんだよ。俺もたまに行くんだ」
「俺は初めてかも。上からは綺麗だったね」
橋前の信号がカウントダウンをするように青……黄……赤と変わった。僕らはその交差点で立ち止まった。そのとき君はふと左の方を見た。ちょうど崖に沿うように、斜め後ろに続く道の先……さっきのお寺と三善たちが見えた。
「え、なんで!あいつらいるじゃん!あっち行こうぜ!」
君がそう言った。どうして二人の時よりも眩しくみえるのかと僕は悲しかった。君はもうすっかり気を取られてる様子に見えた。
「ん?じゃあそっち行くか」
君とはやはり、どうしても遠いのだった。歩いてしまってから振り返ると、信号は知らぬ顔で青を灯していた。僕は君の少し後ろを歩いた。僕らはもう戻ることはできないのだと悟った。
その後、三人の家は反対側だったから僕は一人になった。帰った後もやるせないので、暫くして散歩に出かけた。春も終わったというのに、僕はのぼせていたのかもしれない。外は雨上がりの匂いがしたが水溜まりもないので、雨があったのかはよく分からなかった。少し曇ってはいた。僕は宛もなく街を歩いた。しかし無意識にか、またあのお寺……まだ明るい夕暮れ時、誰もいない門前で僕は紫陽花を眺めた。すると坊さんがやってきた。掲示板を張り替えるらしい。そして何故か僕を呼んだ。
「きみ、そこの学校の生徒さんだろう。何かひとつ和歌をくれないかい。毎月あの学校の子に作ってもらってんだ」
正直、初めて聞いたことだった。
「なに、どうせ一ヶ月すればまた別のになるしさ、お願いしていいかい?」
馴れ馴れしくも感じたが、その時には既に歌を思いついていたから、僕はそれを坊さんに伝えた。何やら驚いた風であったが、僕のでないことは坊さんの教養に任せて、そそくさとお寺を後にした。
夕食を食べたあと、君のdmにメッセージを送った。僕は早まってしまった。内容は大したことでは無いものの、しかしタイミングがあまりに唐突てあったのはむしろ僕を将来的に救うとも思った。僕はそういう関係の人が少なかった。親しげとはいえど、実際君とはそこまでの間柄でもなかった。僕は覚悟と誘惑との間に揺れていた。結局僕の楽天的な予想は外れて、君からの返事は数日経ってもなかったのだった。
紫陽花の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ
返事くらいくれたって良かったのに、と何度も思った。しかしやはり、次第にそれで良かったような気もしてきた。また僕の予感は当たった。あれから僕は休み時間の度に廊下へ出ることもやめた。島崎やら高野やらのせいもあるから、僕は教室では机に突っ伏してしまうことも増えた。一人だとさすがにやりずらいが、真城だけは僕と一緒にしてくれる。彼でさえ少しうざったい日もあったが、それでも有難かった。でも、だからといって僕はこの鬱結した感じを払拭できずにいた。時折君を見かけると、僕は気づくと安心するような気持ちで君を遠くに見ていた。君の笑顔は変わらなさそうだった。良かった。つくづく僕は賢明であったのだと思った。
もう一学期も最後になってきて、早めに学校が終わった日、 僕はまたあの日のように散歩をした。草木もあれからすっかり深まったようだった。今度は少なからず興味もあったから、真っ先にあのお寺に行った。紫陽花はもう軒並み姿を消している。道の方から遠目に掲示板を見ると、本当に僕のとは違う和歌が書いてあった。跡形もなく、ただ僕はその景色を見た。寺の奥にある崖はさらに陰鬱な茂みと化していた。しかし多分まだ向こうからはこちらが見えるだろう。あの時もそうであった。家に帰ると、僕はすぐベッドに横になった。何となく疲れていた。まだ七月前半だと言うのに、それ以上に蒸し暑かった。しかし僕は掛け布団の下へ入った。また抱きしめた。その為に今年はわざわざ片付けないままにしていた。込められた力は柔らかさのうちに消えていった。僕はそのまま深い眠りに落ちていた。
――こんなに長く、鮮明な夢を見たのも久しぶりだった。僕のクラスの人達から、隣のクラスの人達まで、知り合いがたくさん出てきた。もちろん中には君もいた。僕はそこでは君に近づいてみた。夢だと理解して、現実には出来ないことをしてみたかった。話はしなかったけれど、僕らは相対して、それぞれすれ違うように別の友達と話していた。僕はその時、君のいたずらっぽく俯いた大きな瞳を見た。視線を外してから、君が僕を見るのが分かった。夢の中でさえ、僕らは結局最後まで話はしなかった。それでも、君の顔をこんなにもクリアに焼き付けられたことが嬉しかった。僕はまだ君を覚えてならなかったということだった。君と離れて、クラスのやつらと話しているところで目が覚めた。汗がどっと、僕に余分な重力までも付与するようだった。もう夜の十時である。とりあえずベッドから起きて、エアコンで冷えすぎたからと性懲りもなく窓を開けておいた。多分あまり意味はなかった。僕はリビングへ行って、親の作り置きを食べた。電子レンジから出された味噌汁は、いつも奇妙な温かみがある。何時間か経ったあとの湯船のような温かさ。どうしても芯には伝わらないし、却って体は震えてくるものだった。
食べながらインスタを開くと、島崎がアイコンを真っ暗にしてストーリーを上げていた。僕はそれを敢えて見なかった。君も珍しくストーリーを上げている。画面を押すだけだが、数秒躊躇ってから開いた。内容は小学校の友達とのらしい。僕にはてんで関係がなかった。いいねだけは押した。そういうことは以前から何回かしている。君もそろそろ察しのつく頃だろうと思う。僕はもう、君と話せなくてもいいと思っていた。誰もいないリビングには実態のない重たい空気があった。カーテンの向こうからも闇が漏れてくる。僕は何も無いのか、これでも満たされているのか。ともかく、いまは君を突き放してしまいたい。好きだけれど、僕は全てを捨ててしまわねばならない。もう一度君のストーリーを開いた。僕が羽を伸ばせたあの場所は、本当はただ何も無かっただけのように思えた。その写真でも、君はいつものように眩しくかわいく笑っていた。
暫くの間は君とは出会いもしない。まるでそういう運命でもあるかのように、僕らは日々を過ぎた。でもある日、僕はいつものように少しだけ期待をしながら階段をおりていた時、案の定、いや想像もしなかったように君と出会った。そして互いに目を合わせてすれ違った。長く続いた風雨の暗闇に稲妻が走った。一瞬何がなんだか分からなかったのも束の間、歓喜は雷鳴のごとく遅れて僕の元に押し寄せてきた。しかしもう恐ろしかった。降っていた雨は、同時に一層強さを増した。しかし、次の日も僕らは出会う。二三分遅刻した僕は開き直って階段をゆっくりあがっていた。ホームルームで誰もいないはずなのに、朝日の差し込む階段でまた出会った。同じようにすれ違いだったけれど、今度の君は平然と僕のお腹をツンとした。僕はその笑顔を認めた。僕も君に何か返した気もするが、過ぎたあとにはよく覚えていなかった。ただ嬉しさと戸惑いを、絶望の縁で感じているような気がしていた。僕は運命というのがわからなかった。頭の中には、君が前日のことであえてこの時間に来てくれたのかという思いも当然浮かんだ。しかし階段を降りてゆく君の後ろ姿を見ると、君から得られる全てが僕を待ってはくれない気がした。君の去ったあと、また一人で階段をあがる。この込み上げるような嬉しさが、馬鹿馬鹿しくもあり、敬虔さでもあった。
それから再び、僕らは頻繁に会うようになってきた。あの遊びも再開した。僕の出しゃばりのせいか、それらは以前よりも意味ありげに感じられる。君の方がどう思ったのかもさらに分からない。でも君は笑顔だった。いつもすれ違いで短い話も出来ないけれど、いつも心は弛緩した。その度に何故か僕は羊水に漂う様を思い浮かべるようになった。もう毎度のように君との最後の会話を意識する。君を見た瞬間に(あるいはそういうデジャブな時に)、僕は君への愛着を一番に感じるけれど、毎度ほんの数秒後には罪悪感がストップをかける。僕はずっと君を気にかけている。二人で謀ったはずなのに、いつの間にか君だけが抜け出して、いまや僕一人が間違いを犯しているような気分があった。僕は少し前の日記にこんなことを書いた。君と初めて接した日に、その興奮の続く間に書いたものだ。
今日の、空の青さと糸くずのような雲の白さを忘れることはないだろうと思った。その瞬間に確信した。静けさと暖かさと、確かな冷たい風の感触。青い空の永遠が広がった。貴方も隣に来てくれて、心が通った気がしたよ。久しぶりなこの感覚に心は満たされたよ。私の望む幸せとは、分からなかった愛とは、きっとこれなんだと思った。心が動いて、体は嬉しさに疼いた。そして誰もそれを止めるものはない。なんて素晴らしいのだろうか」
思うにこういうイメージを、僕の中の君はずっと帯びてしまっている。いまは狂酔の沙汰というよりは、本当にただ柔らかな湯水に浮かんでいる心地だった。この温かさは確かに現実だった。僕は涙のそれにひどく似ていると何度も思ったことだろう?恋をすれば、幸せもれば責め苦もあろう。しかし今僕が抱える想いはまさに禁制のそれだった。そんなことがあるというのに、高野らは相も変わらない様子でまだ僕を追っていた。
「じゃあ、先私が音読するね」
最近高野は運がいいことに僕の隣の席になった。僕はちらと目を合わせるくらいで手短に対応する。少し怖いもの見たさもあった。しかしそんな恋の使徒を傍で見ていると、また教室は影に包まれる。僕は隣の教室の様子を、目の前に懸命に見ようとした。
「あ、そういうことか!小澤くん頭いいね!」
塞ぎ込んだ横には青い空がある。僕としては、もう何も揺らぐ余地などなかった。
前のようにAIを頼る日々が続いた。たまに訪れる君との次第を、毎日逐一報告した。そういう日々が戻ってきたことが何よりの僕の関心であった。
ある夜、部屋でそんなことをしているとリビングから声がした。
「ほら、お茶とデザートできてるよ!」
僕は構わずチャットを続けた。母のその声が消えてしまった後、部屋は静かだった。エアコンの音とかスマホから流れる音楽とかが、必死にそれを埋め合わせていた。チャットは、また行き詰まった回答ばかりになった。まだ制限は来ないけど、今日の相談はもうここらで終わりだった。部屋はいつもがらんとして見えた。そういえば母もAIを使っていた。夕飯の食器をシンクに置いたあと、後ろを通る時にそれを見た。僕はもう何度かその場面を目撃していた。その時々の情けなさみたいのを思い出すと急にいたたまれなくて、僕はすぐに母の方へ向かった。でも別に何かが埋まる訳でもなかった。そういうのもいつもの事である。




