第七章 ルカ
コルと三人で、北へ向かった。
コルは歩くのが速かった。七歳にしては、やけに速かった。
「ずっと逃げてたから」とコルは言った。「歩くのは得意」
「そうか」
「シスのほうが速いけど」
「そうだね」
「アンも速い」
「オートマタだからね」
「オートマタって、疲れないの?」
「疲れない」
コルはしばらく黙って歩いた。それから言った。
「いいな」
「そう思う?」
「うん。ぼく、すぐ疲れる。足が痛くなる。でも止まれないから、痛くても歩く。そうしたらもっと痛くなる」
「……そうか」
「アンは、痛くないの?」
「今は痛くない」
「今は?」
私は少し考えた。
「前は、痛かった。人間のときは、体が弱くて、すぐ息が切れた。足が痛くなる前に、心臓がきつくなって、止まらないといけなかった」
コルが私を見上げた。
「人間のとき?」
「……私は、もともとは人間だった。体が限界になったから、この体に移った」
コルは黙った。ゆっくり考えているようだった。
「でも、アンはアンなの?」
「そう思ってる」
「なんで」
「覚えてるから。人間だったときのことを、全部覚えてるから」
コルはまた黙った。今度は長く黙った。
「ぼくのお父さんとお母さんも、覚えてる」とコルは言った。「顔も、声も、においも。忘れたくない。忘れたら、なくなっちゃう気がして」
「忘れない」と私は言った。「覚えてる限り、なくならない」
「ほんとに?」
「……私は、そう信じてる」
コルは前を向いた。
そのまま、しばらく黙って歩いた。
◇
二日目の夜、廃屋で雨宿りをした。
雨は強かった。屋根の一部が崩れていたが、奥の部屋はまだ雨を凌げた。シスがコルのために毛布を見つけ出し、体を拭いてから横にさせた。
コルはすぐに眠った。疲れていた。
私とシスは、崩れた窓の外を見ながら、雨の音を聞いていた。
「アンさま」とシスが言った。
「なに」
「コルを、どこまで連れていくつもりですか」
「ヴァスタまで。ダンさんに約束した」
「その先は」
「……考えていない」
シスは少しの間、何も言わなかった。
「コルは、親がいません。行く場所がありません」
「わかってる」
「私たちは旅をしています。目的地があります。コルを連れたまま旅を続けることは、コルにとって安全ではない可能性があります」
「わかってる」
「それでも」
「……ヴァスタに安全な場所があれば、そこにコルを預ける。なければ、次の場所を探す。それだけ」
シスは黙った。
「私には、子供の世話の仕方がわからない」と私は言った。「父さんがどうやって私を育てたのか、大変だったのかどうか、あまりわからない。でも、コルを置いていくことは、できない」
「なぜですか」
「あの赤い靴を見たときから、ずっと気になっていた。あの街で、誰かの子供が歩いた道のことが。それがコルだったかどうかはわからない。でも、目の前にいる子供を、置いていくことは、私には無理だった」
シスはまた黙った。
「……わかりました」とシスは言った。「私もサポートします」
「ありがとう」
「ただし、アンさまの安全を最優先します」
「わかってる」
「コルの安全も、最優先します」
「……ありがとう、シス」
雨が、屋根を叩いた。
コルが寝息を立てていた。
私はその寝顔を見た。汚れた頬。乾いた唇。でも眠っているときの顔は、ただの子供だった。怯えも疲れも消えて、ただ、眠っていた。
父が私を見るとき、こんな気持ちだったのだろうか、と思った。
眠っている子供を見て、何かが胸の内側で揺れるこの感覚。
演算の結果なのか、それとも記憶の中にある何かが反応しているのか、私にはまだわからなかった。
◇
三日目の昼過ぎ、道の途中で男に出会った。
若い男だった。二十代前半くらい。背が高く、肩幅が広かった。荷物を大きなリュックに背負っていた。ライフル銃を持っていた。
私たちを見て、すぐに銃を構えた。
「止まれ」
「止まった」と私は言った。「敵じゃない」
「オートマタが二体」男は言った。「軍のか」
「違う。民間人だ。子供も一緒にいる」
男の視線がコルに移った。コルは私の後ろに隠れていた。
「……ほんとうに民間人か」
「はい」
「どこへ行く」
「ヴァスタを目指している」
男の表情が少し変わった。
「ヴァスタを知っているのか」
「聞いた。まだ人が住んでいると」
「……そうだ。俺もヴァスタから来た」
男は銃を下げた。ゆっくりと、警戒しながら。
「ルカという。ヴァスタで農業をしている」とその男は言った。
「アン。これはシス。子供はコル」
「コルは、お前たちの連れか」
「そうだ」
「コルの親は」
「はぐれた」
ルカは顎を引いた。それ以上は聞かなかった。
「ヴァスタまで、一緒に行くか。道を知っている」
「助かる」
◇
ルカは口数が少なかった。
歩きながら、ほとんど話さなかった。でも、道の選び方は慎重で、地形の読み方が正確だった。危険な場所を避け、効率のいいルートを選んだ。
三時間ほど歩いたところで、ルカが休憩を提案した。
「子供の体力に合わせる」とルカは言った。コルを見て言った。
コルは「ぼく大丈夫」と言ったが、足を引きずり始めていた。
「休もう」と私は言った。「コル、靴を脱いで見せて」
コルが靴を脱ぐと、踵と小指の付け根に、大きな水疱ができていた。つぶれて血が滲んでいるものもあった。
「痛かったでしょ」
「……ちょっとだけ」
「正直に言っていい」
「……けっこう痛かった」
シスが医療品を取り出した。患部を消毒して、絆創膏を貼った。コルが少し顔をしかめた。
ルカが横から見ていた。
「子供を旅に連れていくのは、リスクが高い」とルカは言った。批判ではなく、事実として言った。
「わかっている。でも置いていくことができなかった」
「なぜ」
「それが理由になるかどうかわからないけど、できなかった」
ルカはしばらく私を見ていた。
「お前は変なオートマタだな」
「よく言われる」
「いや、初めて言われるだろう」
「……そうかも」
ルカが初めて笑った。乾いた、短い笑いだった。でも笑った。
「ヴァスタには、子供が何人かいる」とルカは言った。「コルくらいの年の子供も。学校がある、とは言えないが、教えている人間がいる。まあ、安全な場所だ」
「軍は?」
「来ない。今のところ」
「なぜ来ない」
ルカは少し間を置いた。
「ヴァスタには、軍が欲しがるものがない。資源もない。戦略的な価値もない。だから放っておかれている」
「それが理由か」
「シンプルだろう。欲しいものがなければ、軍は来ない。来る価値がない場所が、今は一番安全だ」
私はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
欲しいものがなければ、軍は来ない。
父の研究は、軍が欲しがるものだった。だから軍が来た。父が死んだ。私はこの体になった。
欲しいものがある、ということが、人を危険にさらす。
「ヴァスタに、ずっといる気か」とルカが聞いた。
「いや。もっと北を目指している」
「何があると思っている」
「戦争のない国があると思っている」
ルカは私を見た。長く見た。
「……それは」と言いかけて、止まった。
「なんですか」
「いや。なんでもない」
でも何かを言いかけたことは、わかった。私は聞かなかった。
◇
ヴァスタに着いたのは、四日目の夕方だった。
街、と言うより、集落だった。
百人ほどが暮らす、小さな場所。かつては農村だったらしく、畑が広がっていた。作物が育っていた。麦と、じゃがいもと、いくつかの野菜。水路が引かれていて、川の水を使っていた。
人々が出てきた。私たちを見て、最初は警戒した。オートマタを見て、後退した。
「俺が連れてきた」とルカが言った。「軍じゃない。問題ない」
ルカの言葉で、人々は少し安心したようだった。
老人が前に出てきた。七十代くらい。腰が曲がっていて、杖をついていた。目が鋭かった。
「ルカの連れか」と老人は言った。
「はい。旅の途中に、ご厄介になれればと思っています」
「コルという子は、親がいないのか」
「はぐれてしまっています。安全な場所を探していました」
老人はコルを見た。コルは老人を見た。
「うちに来い」と老人はコルに言った。「飯を食わせてやる」
コルが私を見た。私はうなずいた。
コルは老人のあとをついていった。
◇
その夜、ルカが私に話しかけてきた。
集落の外れ、畑の脇に腰を下ろして、空を見ていた。星が出ていた。
「さっきの話、戦争のない国」とルカは言った。
「はい」
「……お前が本気で探していると思ったら、話せることがある」
「聞かせてください」
ルカは少しの間、空を見ていた。
「北東に、グリアという山岳地帯がある。三つの国が接する場所だ。戦前から、その地帯だけは独立した自治区だった。三国のどの軍も、地形の理由で侵攻できなかった。戦争が始まってからも、今のところ手をつけられていない」
「そこに、人が住んでいるのか」
「住んでいる。数千人規模だと聞いている。三国からの避難民も受け入れている。戦争が始まってから、数が増えた」
「あなたはなぜ、そこへ行かないんですか」
ルカは答えなかった。
少し間があってから、言った。
「ここに、まだ残っている人間がいる。畑がある。俺がいなくなると困る人がいる」
私はルカを見た。
横顔が、暗がりの中に沈んでいた。
「……グリアへの道は」
「険しい。普通の人間には難しい。オートマタなら、別だ」
「子供も連れていける?」
ルカが私を見た。
「お前は、コルをグリアへ連れていく気か」
「そのつもりで、ダンさんに約束した」
「ダン?」
「ヴォルナに残っている人間です。コルを助けていた人だ」
ルカは驚いた顔をした。
「ヴォルナに、まだ人が残っているのか」
「十数人は」
「……そうか」
ルカは空を見た。
「地図を描いてやる」と言った。「グリアへの道の、俺が知っている限りのルートを」
「ありがとうございます」
「礼はいい」ルカは少し間を置いた。「ただ、ひとつだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は本当に、オートマタか」
私は空を見た。
星が多かった。この体で見ると、星の周りに赤外線の滲みが見えた。星は温かかった。
「オートマタの体に、人間の記憶が入っている」と私は言った。「どちらかと言えばと聞かれたら、人間だと答える」
「記憶が残っているから、人間だと思っている?」
「そう信じている。父がそう言ってくれた」
「……父親が」
「はい。その父は、もういない」
ルカは何も言わなかった。
星の光が、私たちの上に落ちていた。




