第六章 廃市
最初の街に着いたのは、別荘を出て四日目のことだった。
地図には名前があった。ヴォルナという街だ。人口は戦前、八万人ほどだったらしい。今は、誰もいなかった。
街の手前の丘に立って、私は眼下に広がる光景を見た。
この体の視覚は人間のそれとは違う。可視光と赤外線を同時に処理できる。だから瓦礫の冷たさと、残り火の温かさを、同時に色として見ることができた。崩れたビルが赤外線の映像では灰色に沈んでいて、どこかで燃え続けている瓦礫が淡いオレンジに輝いていた。
静かだった。
風の音だけがあった。
「人の気配は」と私は聞いた。
「熱源センサーで確認しています。この方角三百メートル以内に、生体反応は検出されません」とシスが答えた。「ただし廃墟の構造上、センサーが届かない空間が多数存在します。断言はできません」
「軍は」
「電波信号の発信源を探知中です。近辺には見当たりません」
「入ろう」
「わかりました。私が先行します」
シスが前に出た。私はその一歩後ろをついて歩いた。
街に入ると、においがした。
この体に嗅覚センサーはあるが、人間のものとは異なる。化学物質の種類と濃度として知覚する。煙の成分、焦げた有機物、金属酸化物、そして雨水。それらが混ざった複雑な信号が、センサーに流れ込んできた。
人間だった頃は、こういう匂いを「煙の匂い」とひとまとめにしていた。でも今は、何が燃えたのか、どのくらい前に燃えたのかが、成分からある程度わかる。
建物の外壁が崩れていた。ガラスが割れたまま散らばっていた。車が道路の真ん中で横倒しになっていた。電線が垂れ下がっていた。
でも一番印象に残ったのは、そういうものではなかった。
子供の靴が、道路の端に落ちていた。
片方だけ。小さな赤い靴。サイズは十五センチほど。泥で汚れていた。紐が解けていた。
私はその前で立ち止まった。
「アンさま」
「……うん」
「どうしましたか」
「なんでもない。行こう」
歩き出した。でも、しばらくその靴のことが頭から離れなかった。
誰かの子供がいたのだ。
小さな足が、この道を歩いたのだ。
今、その子はどこにいるのだろう。
私は十五歳だ。でもこの体はどこから見ても同い年に見えるオートマタだ。その子がもし生きていたら、今頃どこかで怯えているのだろうか。誰かに守られているだろうか。
考えても仕方のないことを、考えた。
街の中心部に、かつて広場だったと思われる場所があった。噴水の台座が残っていた。水は出ていなかった。台座の石に、誰かが文字を書いていた。赤いスプレーで。
「ANCORA QUI」
シスに翻訳を頼んだ。
「イタリア語です。『まだここにいる』という意味です」
「まだここにいる」
「はい」
私は台座の石を見た。文字はまだ新しかった。スプレーが乾いて間もない。
「誰かが最近書いたんだ」
「おそらく。数日以内かと」
「この街に、まだ誰かがいる」
「……センサーには引っかかりませんでしたが、可能性はあります」
私は広場を見渡した。崩れた建物。割れた窓。でも、その赤い文字だけが、生きていた。
まだここにいる。
私は、その言葉がなぜか、胸の内側で揺れるのを感じた。感情処理の演算が走る感覚。
「急ごう。物資の確認をしてから、先に進む」
「はい」
◇
街に残っていた物資は少なかった。
シスがスーパーマーケットの残骸を調べた。食料はほとんど持ち出されていたが、倉庫の奥の棚に、いくつか缶詰が残っていた。水は、地下の給水管が一部生きていた。
私は食料を必要としない。でも、旅の途中で人に出会ったとき、物資があれば交渉ができる。シスがそう判断して、使えるものを選んでいた。
私はその間、街を歩いた。
一人で歩いた。
人間だった頃の私は、一人で外を歩くことがほとんどなかった。体のせいだ。無理をしてはいけないと言われていたし、実際、長距離を歩くと息が切れた。だから父かシスが、必ずそばにいた。
でも今は違う。
歩ける。どこまでも歩ける。
息が切れない。足が痛まない。疲れない。
それはとても奇妙な感覚だった。
自由、という言葉が浮かんだ。でも正確にはそれとも違う気がした。人間だった頃の自分が諦めていたことが、今の自分にはできる。それが嬉しいのか、悲しいのか、よくわからなかった。
ひとつの路地に入ったとき、建物の影に何かが見えた。
動いた。
私は立ち止まった。センサーが熱源を拾った。小さな熱源だ。生体反応に近い。
「誰かいるの?」
声をかけた。返事がなかった。
「隠れなくていい。私はオートマタだ。あなたを傷つけない」
しばらく沈黙があった。
それから、建物の陰からゆっくりと、小さな影が出てきた。
子供だった。
七歳か八歳くらいの男の子。茶色の髪が汚れていた。服は破れていた。靴は両方あった。目が大きくて、怯えていた。
「……怖くない」と私は言った。「大丈夫」
男の子は私を見て、シスを見て、また私を見た。
「あなたたち、兵隊じゃないの」と男の子は言った。声が細かった。
「違う。兵隊じゃない」
「オートマタ?」
「そう。私はアン。こっちはシス」
「アンとシス」男の子は繰り返した。「変な名前」
「そうかもしれない」
「ぼくはコル」
「コル。この街に、ひとりでいるの?」
コルは少し黙った。それから首を振った。
「おじさんがいる。でも、今日から熱が出て、動けない」
「熱」
「ずっと寝てる。三日くらい」
私はシスを見た。シスもこちらを見ていた。
「案内して」と私は言った。「おじさんのところへ」
◇
コルが連れて行ったのは、街の外れにある小さな地下室だった。
かつては食料の貯蔵庫だったと思われる場所だ。石の壁、土の床、低い天井。古い毛布が敷かれていて、その上に男が横になっていた。
四十代くらいの男だった。頬がこけていて、唇が乾いていた。額に触れると、シスのセンサーが体温を計測した。三十九度二分。
「感染症の可能性があります」とシスが言った。「肺音を確認していいですか」
男は目を薄く開けた。意識はあった。
「……オートマタか」とかすれた声で言った。
「はい。あなたを診させてください」
「軍の?」
「違います」
男は少しの間、私を見ていた。
「……頼む」
シスが医療品ケースを開けた。聴診器型のセンサーで肺音を確認した。体温再測定、血圧確認、皮膚の状態を調べた。
「細菌性の気管支炎と思われます。重篤ではありませんが、抗生物質が必要です。手持ちにありますか」
男は首を振った。
「あと二日分だけある」
「投与してください。食事と水分が必要です。水はありますか」
「少しだけ」
「補充します」
シスが水を取りに行った。私は地下室に残った。コルが隅でじっとしていた。
「コルは家族は」と私は聞いた。
「お父さんとお母さんは、逃げるとき、はぐれた」とコルは言った。感情のない声だった。泣き終わった後の声だ。「このおじさんが、いっしょにいてくれた」
「おじさんの名前は」
「ダン。ダンさん」
「ダンさんは、コルのことを助けてくれてたんだね」
「うん」コルは少し間を置いた。「ぼくが、ダンさんを助けなきゃいけないのに、なにもできなかった」
「水を汲んだり、食べ物を探したりしてたでしょ」
「……うん」
「それは、ちゃんと助けてるよ」
コルは私を見た。オートマタの顔を、まじまじと見た。
「あなたは、人間なの?」とコルは聞いた。
「……難しい質問だね」
「見た目はオートマタだけど、なんか、人間みたいにしゃべる」
「そうかな」
「うん。あなたのしゃべり方、ダンさんみたい」
「ダンさんは、どんな話し方をするの」
「ゆっくり、考えながら話す。知らないことは知らないって言う。うそをつかない」
「……そういう話し方、好きだな」
コルはまた私を見た。怯えは、少しだけ薄れていた。
「アンは、どこへ行くの」
「戦争のない国を探してる」
「そんなところ、あるの?」
「あると思ってる」
「なんで」
「あってほしいから」
コルは考えるように、上を見た。天井の石を見た。
「ぼくも、そこに行きたい」
「うん」と私は言った。「一緒に探そう」
◇
ダンは四日で回復した。
シスが残っていた抗生物質を投与し、水を補給し、缶詰から食事を作り、体温を管理した。私は地下室と外を行き来しながら、周辺の安全を確認した。
四日目の朝、ダンが自分で起き上がった。
「助かった」とダンは言った。「礼を言う」
「急いでいたわけではないので」と私は言った。
「お前たちは、どこへ向かっている」
「北です。戦争のない場所を探しています」
ダンは私を見て、シスを見て、また私を見た。
「オートマタが、旅をしているのか」
「はい」
「珍しい」
「そう思います」
ダンは少し考えた。節くれだった手で、膝を叩いた。
「北に、ヴァスタという街がある。ここから三日ほど歩く。まだ人が住んでいると聞いている。軍の支配下ではないと。確かめてはいないが」
「情報、ありがとうございます」
「コルを、連れて行ってくれないか」
私は少し黙った。
「ダンさんは」
「私はここに残る」
「なぜ」
ダンは答えなかった。少し間があって、それから言った。
「この街に、まだ残っている人間がいる。私はそれを知っている。一人じゃない、十数人はいる。表には出ないが、地下やら廃墟やらに隠れている。私は彼らの連絡役をしていた」
「……広場の石の文字は」
「私が書いた」とダンは言った。静かに、しかしはっきりと。「まだここにいる、と。あれを見て、戻ってくる人間がいる。今まで三人戻ってきた」
「あなたが書いたんですか」
「誰かが書かなければならなかった」
私はその言葉を聞いて、しばらく何も言えなかった。
感情処理の演算が、強く走った。
「コルは、私が連れて行きます」と私は言った。「ヴァスタに着いたら、安全な場所かどうかを確認して、あなたに知らせます」
「どうやって」
「通信機器を持っています。周波数を合わせれば届きます」
ダンは少し驚いた顔をした。それから、初めて笑った。
「頼む」
「コル」と私は振り返った。
コルは隅で話を聞いていた。目が赤かった。
「ダンさんと別れるの、嫌だ」とコルは言った。
「また会える」と私は言った。「ダンさんはここにいる。まだここにいる、って書いた人だから。絶対にここにいる」
コルはダンを見た。ダンがうなずいた。
「行け」とダンは言った。「お前が安全な場所に着いたら、そっちに行く。約束する」
コルはしばらくの間、ダンの顔を見ていた。
それからゆっくりと、ダンに抱きついた。
ダンの大きな手が、コルの背中に回った。
私とシスは、黙って外に出た。




