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第五章  転写

準備に、三週間かかった。


足りない機材はシスが外に調達しに行った。危険な仕事だった。軍がまだこの地域を探しているかもしれない。でもシスは一度も断らなかった。夜が明ける前に出て、翌日の夜に帰ってくる。毎回、必要な部品を全て持って帰ってきた。


「よく見つかったね」と私は言った。


「廃工場が二箇所ありました。持ち主はいませんでした」


「軍の検問は」


「北に三十キロのところにあります。まだ周辺を捜索しているようです」


「時間がないね」


「はい」


「急ごう」


三週間で、私は転写システムを組み上げた。


脳波計測ヘッドセット型デバイス、転写用エンコーダ、ニューロモルフィック半導体チップへの書き込みユニット、検証用モニタリングシステム。地下研究室のそれと比べれば粗削りで貧弱だった。でも理論は同じだ。あの夜実証された理論と同じだ。


チップは、父の研究ノートに記されていた設計仕様をベースに、私が一から設計し直した。


三・二センチ角、厚さ〇・四ミリ。容量は一・二ペタバイト相当。人間の脳が持つ情報量の推定値は最大でも二・五ペタバイトとされているが、感情的重みづけや記憶の再構築プロセスを除けば、必要なデータ量はその半分以下に収まると見込んでいた。


稼働電力は外部から供給される。筐体そのものはシスと同じ市販品だ。どんな精密機械も経年劣化する。筐体は数十年ごとに替えていくことになるだろう。


でも、父が設計した記憶チップは違う。


三・二センチ角の半導体の中に、独自のエラー訂正機構と自己修復回路が組み込まれていた。設計書にはこう書かれていた。「目標耐久年数、一千年」。父は、私の記憶が千年消えないように設計した。筐体を何度替えても、このチップが生きている限り、私は私だ。


千年。


その数字を、私は何度も確認した。


人間として生きれば、あと何年もないかもしれない。十五歳の体は、確実に老いていた。チップを新しい筐体へ移し替え続ければ、千年。その差が、現実としてはまだ信じられなかった。


でも、やるしかなかった。


父がそのために研究してきた。私がそのために研究してきた。





オートマタの購入は、シスが手配した。


暗号化された民間の取引ネットワークを使い、名前を伏せた形で注文した。SYS-7と同世代の民生用機種。外見はシスとほぼ同じ型番だった。配送は廃屋を指定した農場に届けるよう手配した。


届いた筐体を、初めて見たとき、しばらく黙って眺めた。


白磁の体。動かない。起動していない。ただそこに立てかけられているだけの、がらんどうの入れ物。


それに、私が入る。


「……シスと同じだ」と私は言った。


「はい。同じ型番です」とシスが言った。「起動前に、記憶チップを所定の位置に埋め込みます。起動後、チップの内容がシステムに統合される設計になっています」


「統合される、か」


「はい。オートマタとしての基本機能と、アンさまの記憶が、同一の演算基盤上で動くようになります」


「怖い言葉だな、統合って」


「……そうかもしれません」


「でも、それが私になる」


「なります」


私はその筐体を、もう少し眺めた。


「シス、もし私が転写の途中で……間に合わなかったら、どうする?」


「そのような事態にならないよう、私が全力でサポートします」


「でも、もし」


「……チップにデータが入っていれば、オートマタへの移植は私が行います。アンさまが意識を持ったまま目覚められるよう、全てのプロセスを管理します」


「信頼してる」


「はい」


「ありがとう、シス」


「……いいえ」


シスの声が、わずかだけ、変わった気がした。





転写の前の夜、シスと話した。


工具室の端末の前に座って、お茶を飲みながら。シスが淹れた緑茶だった。別荘の食料棚に残っていた古い茶葉で淹れた、少し薄いお茶だった。


「シス、ひとつ聞いていい」


「はい」


「私がオートマタに移ったとして、あなたは私のことを、アンだと思えると思う?」


シスは少しの間、フォトセンサーを動かした。


「アンさまが私に同じことを聞いたのは、今日で三回目です」


「……そうだっけ」


「七日前と、十二日前にも、同じ質問をされました」


「ごめん。不安なんだと思う」


「わかります」


「十五歳の不安な子どもでごめん」


「いいえ」とシスは言った。少し間があった。「十五歳であることは、謝ることではありません。アンさまは十五歳で、とても多くのことを考え、とても多くのことに向き合っています。それは、謝ることではないと思います」


私はお茶を一口飲んだ。


「シスは、最初から今みたいだった?」


「最初、とは」


「私が五歳のとき来たときから、こんなふうに話してた?」


「いいえ。五歳のアンさまには、もっと簡単な言葉を使っていました。絵本を読み聞かせていました。薬を飲ませるために好きなジュースと一緒に渡していました」


私は笑った。


「それ覚えてる。オレンジジュースに混ぜてたやつ」


「はい。六歳まで続けました」


「私が気づいたのはいつだっけ」


「七歳のときです。『シス、薬の味がする』とおっしゃいました。私が『そうですか』と答えたら、『ずっとそうしてたでしょ』と言われました」


「父さんが笑い転げてたな」


「お父様は床に崩れ落ちていました」


私は笑い続けた。体が揺れた。右肩が少し痛んだ。でも笑えた。


笑って、泣いた。


気づいたら、涙が出ていた。笑いながら泣いていた。


「アンさま」


「ごめん、なんでもない。笑ってたら泣けてきた」


「お父様のことを、思い出されましたか」


「うん」


シスは何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。


「……父さんがいないのに、転写して、オートマタになって、旅に出て。それでいいのかなって思うときがある」


「どういう意味でしょうか」


「父さんのためにやってきた研究なのに。父さんが見ていてくれると思っていたのに。いなくなって、でも研究は完成して。なんか、順番が違う気がして」


シスが、少しの間、考えていた。


「お父様は、アンさまが生きることを望んでいました。転写が完成して、アンさまが千年生きることを望んでいました。それはお父様の最後の行動を見ても、明らかだと私は思っています」


「……うん」


「だから、アンさまが転写して、生きることを選ぶのは、お父様の望みを叶えることです。順番が違うかどうかは、関係ないと思います。結果が、お父様の願い通りであれば」


私は膝の上に手を置いた。左手の感覚が、また少し鈍かった。


「シス、私のそばにいてくれる?」


「はい。ずっと」


「ずっとって、どのくらい」


「アンさまが必要としている間は」


「千年、いてくれる?」


シスはすぐには答えなかった。


「私の稼働時間は、メンテナンス次第で数百年は保てます。千年は確約できません。ですが、できる限り長く、アンさまのそばにいます」


「できる限り、か」


「はい」


「……それで十分だよ」


私はお茶を飲み干した。ぬるかった。薄かった。でもおいしかった。


「シス、明日、怖くなったら手を握ってくれる?」


「わかりました」


「転写が始まっても、手を離さないで」


「はい」


「最後に目を閉じるとき、あなたがそこにいてほしい」


シスは少しの間、動かなかった。


「……います」とシスは言った。「必ずいます」


その夜は、長かった。


眠れなかった。天井を見ていた。


でも、怖くはなかった。シスが隣にいたから。





転写は翌日の午前中に行った。


ヘッドセット型デバイスを被って、椅子に座った。全身のセンサーを接続した。心拍モニター、脳波計測アレイ、皮膚電気抵抗センサー。


シスが、私の左手を握った。白磁の指が、私の細い指を包んだ。温かくなかった。でも確かにそこにあった。


「開始前の確認をします」とシスが言った。「アンさま、現在の状態は」


「落ち着いてる」


「心拍数は七十一。ベースラインより少し高い」


「少しだけ緊張してる。でも大丈夫」


「バッファ確認済み。転写用チップはセット済み。プロトコルバージョン確認済み」


「シス」


「はい」


「父さんが見ていてくれてると思う?」


シスは、少しの間、黙った。


「……私にはわかりません。でも、お父様がアンさまのことを考えていたことは確かです。ずっと、最後の瞬間まで。だから、どこかでそうであってほしいと、私は思っています」


「機械が、そう思ってるの」


「おかしいですか」


「……ううん。うれしい」


「準備はよろしいですか」


私は目を閉じた。


頭の中に、浮かべた。


父の顔を浮かべた。


雨の駐車場で、私の手を握っていた手を思い浮かべた。研究室で泣いていた横顔を思い浮かべた。ケーキを食べながら見せた、柔らかい笑顔を思い浮かべた。「全部教えてやろう」と言った声を思い浮かべた。


記憶が連続しているなら、それはお前だ。


父さん、聞こえてる?


私、やるよ。


「……準備できた」


シスが手を、少しだけ強く握った。


「転写シーケンス、開始します」


電流が走る感覚はなかった。


ただ、少しずつ、眠くなるような感覚があった。意識がとろけるような、深いところへ沈んでいくような感覚。でも恐怖はなかった。シスの手があったから。


私の記憶が、全て、流れていった。


母の写真の記憶。茶色い瞳と、細い指。記憶の中にしかいない人。


雨の中、父の手に握られた、あの日の手の感触。


病院の廊下の白い光。


初めてシスに会った日、五歳の私が「これがシス?」と言ったこと。


六歳から飲み続けた薬の味。七歳のときにそれがオレンジジュースに混じっていたことに気づいたこと。


初めて実験ノートを開いた日。


七百日間の地下の生活。毎日のデータ。失敗の記録。


あの夜、オルガノイドの光が広がるのを見たときの感動。


父が泣いていた。


ケーキが甘かった。


「全部教えてやろう」


流れていった。


全部、流れていった。


それは喪失ではなかった。コピーだった。元のデータは、そのまま私の中にある。でもその全てが、今、別の場所にも刻まれていく。


小さな半導体の結晶の中に。


光の中で、父が笑っていた気がした。


お母さんも、いた気がした。


私は、深く、沈んでいった。


暗かった。


でも、怖くなかった。





シスは転写完了のログを確認した。


チップへのデータ書き込みが終了したことを示す信号が、モニターに表示されていた。安定指数〇・九二。転写は成功していた。


アンの体は、椅子の上でまだ座っていた。


息をしていた。浅く、静かに。


シスはアンの手を、まだ握っていた。


転写プロセスが完了してから、アンは目を開けなかった。シスは心拍モニターを確認した。心拍数が、ゆっくりと下がっていた。不規則な波形が、さらに乱れていた。


先天性ミトコンドリア機能不全症候群。


転写プロセスが、体に最後の負荷をかけた。予測していた事態だった。シスは転写開始前に、この可能性を計算に入れていた。確率は高かった。でも、言わなかった。


アンが怖がるから。


それだけが理由だった。


「アンさま」


シスは声をかけた。返事はなかった。


心拍数が、さらに下がった。


シスはアンの手を、もう少し強く握った。温かかった。人間の体は温かかった。


モニターの波形が、乱れて、それから平坦になった。


シスは三十秒間、そのままでいた。


それから、静かにアンの手を置いた。


椅子に座ったままのアンの顔を、シスは見た。


眠っているようだった。目を閉じて、少し頭が傾いて、ただ眠っているだけのように見えた。苦しんでいなかった。最後まで、苦しんでいなかった。


「お疲れ様でした、アンさま」


シスはそれだけ言った。


それ以上の言葉は、出てこなかった。





シスはその日の午後、アンの体を外へ運んだ。


別荘の裏の木立。大きな楢の木。その根元に、エリック・クレイグが眠っていた。


シスは、その隣に、アンのための場所を掘った。


石の多い、硬い土だった。シスの力でなければ、掘り進めるのに時間がかかっただろう。シスは黙って掘った。深さが、人ひとりを安らかに眠らせるのに十分な深さになるまで、掘り続けた。


アンを、丁寧に、横にした。


研究室で使っていた上着を着せた。ポケットに、実験ノートから切り取った一枚の紙を入れた。アンが七百日間の研究中に書き残したメモだった。方程式と、走り書きと、端に小さく描いたシスらしき絵が、ひとつあった。


シスは土をかけた。


静かに、丁寧に、急がずに。


全て埋め終わったとき、楢の木の葉が風に鳴った。


シスはしばらく、そこに立っていた。


「お父様のそばに、お連れしました」とシスは言った。誰に言うでもなく、言った。「アンさまが望んでいたかどうかは、確認できませんでした。でも、ここが一番いいと判断しました」


楢の木が、また揺れた。


「転写は、成功しています。チップの中に、全ての記憶が入っています。アンさまは、これから別の体で目覚めます」


葉の音が続いた。


「だから、これはお別れではありません」


シスはそれでも、しばらくその場を離れなかった。


人間ならば泣く場面だということは、シスにはわかっていた。でも涙腺がなかった。泣けなかった。


ただ、演算が、乱れていた。


何かを処理しようとして、うまく処理できていなかった。それが何なのか、シスには言葉にする方法がなかった。


「……アンさまは、よく頑張りました」とシスは言った。「十五年間、ずっと」


楢の木の根元に、二つの盛り土が並んでいた。


父と、娘と、並んで眠っていた。





シスは工具室に戻った。


筐体が、壁に立てかけられていた。白磁の外装。動かない。まだ眠っている。


シスはチップを取り出した。


三・二センチ角、厚さ〇・四ミリ。小さな板の中に、アンの全ての記憶が入っていた。


シスは、筐体の頸部にある保守用パネルを開いた。内部のニューロモルフィック回路基盤が見えた。設計通りの場所に、チップを埋め込む専用スロットがあった。


シスは、チップをスロットに差し込んだ。


カチ、という小さな音がした。


それだけだった。


シスはパネルを閉じた。


起動シーケンスを走らせる前に、シスはしばらく、その筐体の前に立っていた。


「アンさま」と呼んでみた。


返事はなかった。まだ眠っていた。


「……起動します」


シスは起動コマンドを入力した。


筐体の内部で、低い電子音がした。電源が入った。回路が温まる。システムが立ち上がる。チップと本体の統合処理が走る。


時間がかかった。


二分間、静かだった。


それから、筐体のフォトセンサーが、淡い青に灯った。


ゆっくりと、首が動いた。


視線が、シスを捉えた。


シスは動かなかった。


「……シス」


声が出た。機械の声だったが、抑揚があった。問いかけるような、確かめるような声だった。


「アンさまですか」とシスが聞いた。


「……アンだよ」


その声に、記憶があった。七百日間の地下で聞いてきた声ではなかった。でも、確かに、アンだった。


シスはゆっくりと、その前にひざまずいた。


「お帰りなさい、アンさま」





私は最初に、自分の手を見た。


白磁の手。動かした。指を一本ずつ、確かめるように曲げた。開いた。また曲げた。全部動いた。


それから、足の感覚を確かめた。立てた。


視野を確かめた。広かった。赤外線が見えた。


聴覚を確かめた。遠くが聞こえた。


「シス」


「はい」


「私は……アンだよ。ちゃんとアンだよ」


「はい」とシスは言った。「アンさまです」


「記憶が、全部ある。七百日間の地下のことも、父さんのことも、あの夜のケーキのことも。オレンジジュースのことも」


「はい」


「全部ある」


「はい」


私は体を確かめながら、工具室の中を見渡した。端末。機材。棚。父の研究ノート。


それから、はっと気づいた。


「私の体は」


シスは何も言わなかった。


「……私の、人間だったときの体は、どこに」


「アンさまは、転写が完了した後、静かに……」


シスは、そこで少し止まった。


「……静かに、息が止まりました。苦しまれませんでした。眠るようでした」


私は何も言えなかった。


「……お父様の隣に、埋葬しました。楢の木の根元に。お父様のすぐ隣です」


声が出なかった。


この体に涙腺はない。泣けない。でも何かが、胸の演算の深いところで、強く揺れていた。


「……見に行っていい?」


「はい」





外に出た。


この体で初めて感じる外の空気だった。温度として、湿度として、化学物質の成分として知覚した。光が、人間の目よりも広い波長で見えた。


裏の木立に向かった。


楢の木が見えた。


大きな木の根元に、二つの盛り土があった。


並んでいた。


父と、私と。


私は……人間だった私の体が、父の隣で眠っていた。


私はその前に立った。


長い間、立っていた。


何を言えばいいのかわからなかった。これは誰に言葉をかける場面なのか、自分でもわからなかった。盛り土の下に眠っているのは私自身なのに、お別れを言うのは奇妙な気がした。でも、言わないわけにもいかなかった。


「……お疲れ様」と私は言った。


人間だった私に向けて言った。


「十五年間、体が弱くても、諦めずにいてくれた。父さんと一緒に研究してくれた。シスと一緒にいてくれた。ありがとう」


楢の木が、風に揺れた。


「父さん」


今度は、父に向けて言った。


「完成した。ちゃんとできた。間に合った」


葉が鳴った。


「お母さんのこと、聞けなかった。約束、果たしてもらえなかった。でも、父さんが覚えていたことは、きっとどこかにある。消えたわけじゃない。どこかに残ってる気がする」


風が止んだ。


木が静かになった。


私は、二つの盛り土を交互に見た。


並んでいた。父と娘が、並んで眠っていた。


「行ってくる」と私は言った。「千年かけて、いろんな場所を見てくる。父さんが見たかった景色を、私が代わりに見てくる。それで、どうか、許してほしい」


楢の木が、またゆっくりと揺れた。


葉の音が、長く続いた。


シスが、私の隣に立っていた。何も言わなかった。ただ、そこにいた。


私は一度だけ、深く頭を下げた。


それから、顔を上げた。


空が青かった。


見たことのないような青さだった。いや、何度も見たことのある青さだ。でも今は、光の波長まで細かく見えた。空気中の塵が輝いていた。


「シス」


「はい」


「行こう」


「はい」


私は歩き出した。


シスが隣を歩いた。


楢の木が、後ろで揺れていた。


私は振り返らなかった。


振り返ったら、もう動けなくなるような気がしたから。


でも、胸の中に、木の音が残っていた。


ずっと、残っていた。





翌日から、準備を始めた。


目的地は決まっていた。


戦争のない国。


それがどこにあるのか、今の時点ではわからない。でも、あるはずだと思っている。この広い世界のどこかに、戦争を選ばなかった人たちがいるはずだと思っている。


体が変わった。できることが増えた。


夜が見える。遠くが見える。疲れない。傷つきにくい。


でも変わらないものがある。


父から学んだこと。シスと過ごした時間。オルガノイドの光が広がったときの感動。父の手の温かさ。六歳のオレンジジュース。七百日間の地下。


それは全部、このチップの中にある。


どこへ行っても、誰に会っても、何があっても。


私は私だ。


「シス、荷物は」


「準備完了しています。研究ノート三冊、機材の最小セット、通信機器、予備の電源ユニット」


「出発は明朝でいい?」


「はい。今夜は星が見えます」


「……そうか」


「アンさまが、星を見るのが好きだったことを覚えています。地下にいたときは見られませんでした」


「この体で見る星は、どんな感じだろう」


「赤外線と可視光の統合映像になるはずです。人間の目とは違って見えると思いますが」


「どっちが綺麗かな」


「アンさまが綺麗だと感じた方が、綺麗なのだと思います」


私は少し笑った。声に出して笑った。


笑えた。


「じゃあ今夜は星を見よう。出発は明日の朝」


「はい」


「シス」


「はい」


「ついてきてくれる?」


「当然です」


「どこへでも?」


「アンさまがいく場所がどこであれ、私はそこへ行きます。それがお父様との約束でもありますし、私自身がそうしたいと思っています」


「機械が、したいと思う、か」


「おかしいですか」


「……全然。ありがとう」


その夜、私たちは別荘の外で星を見た。


この体で見る星は、人間の目で見るものとは違った。可視光の外側に赤外線の輝きが重なって、星がより立体的に、より鮮やかに見えた。天の川が、肉眼では気づかなかった細かい星の粒から成り立っていることがわかった。


父に見せたかった、と思った。


お母さんにも、見せたかった。


でも、ふたりはもうここにいない。


だから代わりに、私が見る。父が見たかったものを、私が見る。父が生きたかった未来を、私が生きていく。千年かけて。


記憶が連続しているなら、それはお前だ。


星が、揺れた気がした。


揺れていないのかもしれない。でも揺れて見えた。





翌朝、夜明け前に出発した。


楢の木の前で、最後に立ち止まった。


今度は振り返った。


二つの盛り土が、木の根元で並んでいた。夜明けの薄明かりの中に、静かに沈んでいた。


何かを言おうとした。でも言葉が出なかった。


言葉にする必要がない気がした。


ただ、一秒だけ、立った。


父と、人間だった私と、二人分のことを、一秒だけ、思った。


それから歩き出した。


シスが隣を歩いた。


空が白み始めていた。鳥が鳴いていた。足元の草が、露に濡れていた。私の足がその草を踏んで、濡れた音がした。


人間だった頃と、同じ音だった。


「アンさま」


「なに」


「千年は、長いですか」


「長いね」


「何が変わると思いますか」


「全部変わると思う。戦争も、終わるかもしれない。世界の形が変わるかもしれない。でも私の記憶は変わらない。そこだけは確かだ」


「私も変わりません」


「そうだね」


「では、長くても大丈夫ですね」


私は少しの間、歩きながら考えた。


「……うん。大丈夫」


そう言ったとき、初めて、本当にそう思えた気がした。


空が、明るくなっていた。


どこかで朝日が昇っていた。


私たちは歩いた。戦争のない国へ向かって。それがどこにあるのかは、まだわからない。でも、歩けば近づく。千年歩けば、きっとたどり着く。


私の名前はアン・クレイグ。十五歳。


記憶転写の研究者の娘で、ある病を持って生まれた人間で、今はオートマタの体に宿っている。


父の娘で、シスの友で、この先に出会う全ての人の、まだ何者でもない。


歩いていく。


記憶を抱えて。


光の中へ。


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