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第四章  灰色の別荘

別荘に着いたのは夜明けだった。


シスが私を背負って、残りの道のりを歩いた。百キロ近くを、一晩かけて。オートマタの体は疲れない。でも私は、シスの背中で揺れながら、何度か意識を失った。


父のことは、考えられなかった。


別荘は小さかった。


石造りの古い建物で、父が若い頃から持っていた場所だ。私が子供のとき、一度だけ夏に来たことがある。庭に大きな木があって、父がブランコを作ってくれた記憶がある。木は今もあった。ブランコはなかった。


シスが鍵を開けた。中は冷えていて、埃の匂いがした。


地下に部屋があった。昔、父が趣味の電子工作をしていたスペースだ。シスはそこに簡易ベッドを作り、私を横にさせた。医療品を取り出して、傷の再確認をした。


「弾は貫通しています。肺には達していない。感染リスクが高い状態ですが、抗生物質を投与すれば管理できます」


「うん」


「お父様のことは……」


「いい」


「アンさま」


「今は、いい」


シスは黙った。


私は天井を見た。石造りの古い天井だった。ひびが入っていた。小さなクモの巣があった。


目が、痛かった。泣いているのかと思ったが、涙は出なかった。乾いていた。乾いた目が、ただ痛かった。


ただ暗かった。


目を開いていても、閉じていても、暗かった。





何日が過ぎたのか、わからない。


シスが食事を運んでくる。私は食べる。薬を飲む。眠る。また天井を見る。


父のことを考えた。


診断を受けた日のことを考えた。あの日の父の手を考えた。研究室で泣いていた父の顔を考えた。最後の夜、ケーキを食べながら笑った顔を考えた。


「記憶が連続しているなら、それはお前だ」


そう言ってくれた。


お母さんのことを全部教えてやろう、と言ってくれた。


その父は、農道の脇の暗い車の中で、もういなくなっていた。


三日目か四日目か、シスが食事のトレーを置きながら言った。


「お父様のご遺体は、安全な場所に埋めました」


私は何も言えなかった。


「別荘の裏の木立の中です。大きな楢の木がありました。お父様が昔、別荘に来るたびに眺めていた木だと、記録に残っています。その木の下に」


私はそれを聞いて、また天井を見た。


父は楢の木が好きだった。子供のとき、別荘に来たとき、森の中を一緒に歩いた。父はよく木の名前を教えてくれた。「あれが楢だ。どんぐりのなる木だ」と言っていた。


私が「どんぐりって食べられるの」と聞いたら、「苦いぞ」と笑っていた。


「……ありがとう、シス」


「はい」


「一人にしておいて」


「わかりました。センサーはつけておきます。異常があればすぐに来ます」


足音が遠ざかっていった。


私は顔に腕をあてた。


目が、やっと濡れた。


泣けた。


声にはならなかった。声を出したら壊れてしまいそうで、声は出せなかった。でも涙が出た。枕が濡れた。しばらくそうしていた。


父のことを思った。


母を失って、ひとりで私を育てた父のことを思った。


私が入院するたびに病院の廊下で倒れそうになりながら、研究を続けた父のことを思った。


娘のために十年かけて、世界で誰も成し遂げていない研究を完成させた父のことを思った。


最後の夜、「全部教えてやろう」と言った父のことを思った。


お母さんのことを、結局、聞けなかった。


それがいちばん、辛かった。





何日かして、シスが言った。


「アンさまに、お伝えしなければならないことがあります」


「なに」


「アンさまの心拍ログを確認しました。ここ数日、不整脈の頻度が上昇しています。傷の回復に体力を使っているためと思われますが、疾患の進行が、ストレス下で加速している可能性があります」


私は天井を見たまま、何も言わなかった。


「状況は、良くない方向にあります」


「知ってる」


「アンさま」


「……知ってるって言った」


シスが、少しの間、動かなかった。


「アンさまが、そのように感じることは自然なことだと思います」


「機械にそんなこと言われたくない」


「そうですね。でも……私は、アンさまと十年過ごしました。五歳のアンさまを知っています。九歳のあの夜、病院から帰ってきたアンさまも知っています。十一歳のあの日、雨の中、駐車場で立っていたアンさまも知っています」


私は少し黙った。


「……シスは、そのときも一緒だったっけ」


「車の中で待っていました。お父様がアンさまの手を握っていたことも、記録されています」


「そうか」


「お父様は、アンさまに諦めるなと言いました」


「……聞いてたんだ」


「記録されています。あの日のことは全て」


私は、ゆっくりと首を動かして、シスを見た。


フォトセンサーが、淡い青で輝いていた。表情はなかった。でも、何かを伝えようとしている意志のようなものが伝わった。


「アンさまの脳の中には、まだ全てがあります。研究ノートのデータも、転写プロトコルも、お父様から学んだ全ての知識も。それは誰にも奪われていない」


「……そうだな」


「地下の工具室に、基本的な機材があります。不十分ですが、始めることはできます」


「……父さんが、この別荘を選んだのは、地下があったから?」


「お父様の行動記録を参照すると、この別荘を購入されたのはアンさまが生まれる前の年です。でも地下の工具室を拡張したのは、研究を始められてから三年後です。おそらく……はい、そのために拡張されたと判断しています」


私は目を閉じた。


父は、ずっと先のことを考えていた。


私が逃げることを。追われることを。別荘に逃げ込むことを。そこで研究を続けることを。全部、想定して、準備していた。


父は、私を死なせたくなかった。どんな状況でも。どんなことがあっても。


「……もう少し、寝てていい?」


「もちろんです」


「数日したら起きる。それまで待ってて」


「お待ちしています」


シスが部屋を出ていった。


私は目を閉じた。


父の手の感触を思い出した。大きくて、荒れていて、温かい手。あの手は、もう握り返してくれない。


でもその記憶は残っている。


ずっと、残っている。


私が私である限り。





七日目の朝、私は起き上がった。


体が重かった。右肩がまだ痛んだ。でも立てた。壁に手をついて、廊下に出た。地下への階段を降りた。一段ずつ、ゆっくりと。


工具室は、奥の突き当たりにあった。


木のドアを開けると、埃とオイルの混じった匂いがした。棚に工具が並んでいた。半導体関連の古い機材が積んであった。電源ユニット。はんだごて。古いオシロスコープ。ニューロモルフィック回路の評価ボード。


足りないものが多い。でも、始めるには足りた。


隅の端末を起動した。古いが、動いた。


私はゆっくりと椅子を引き寄せて、座った。


キーボードに指を乗せた。


思考が、ゆっくりと、動き始めた。


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