第四章 灰色の別荘
別荘に着いたのは夜明けだった。
シスが私を背負って、残りの道のりを歩いた。百キロ近くを、一晩かけて。オートマタの体は疲れない。でも私は、シスの背中で揺れながら、何度か意識を失った。
父のことは、考えられなかった。
別荘は小さかった。
石造りの古い建物で、父が若い頃から持っていた場所だ。私が子供のとき、一度だけ夏に来たことがある。庭に大きな木があって、父がブランコを作ってくれた記憶がある。木は今もあった。ブランコはなかった。
シスが鍵を開けた。中は冷えていて、埃の匂いがした。
地下に部屋があった。昔、父が趣味の電子工作をしていたスペースだ。シスはそこに簡易ベッドを作り、私を横にさせた。医療品を取り出して、傷の再確認をした。
「弾は貫通しています。肺には達していない。感染リスクが高い状態ですが、抗生物質を投与すれば管理できます」
「うん」
「お父様のことは……」
「いい」
「アンさま」
「今は、いい」
シスは黙った。
私は天井を見た。石造りの古い天井だった。ひびが入っていた。小さなクモの巣があった。
目が、痛かった。泣いているのかと思ったが、涙は出なかった。乾いていた。乾いた目が、ただ痛かった。
ただ暗かった。
目を開いていても、閉じていても、暗かった。
◇
何日が過ぎたのか、わからない。
シスが食事を運んでくる。私は食べる。薬を飲む。眠る。また天井を見る。
父のことを考えた。
診断を受けた日のことを考えた。あの日の父の手を考えた。研究室で泣いていた父の顔を考えた。最後の夜、ケーキを食べながら笑った顔を考えた。
「記憶が連続しているなら、それはお前だ」
そう言ってくれた。
お母さんのことを全部教えてやろう、と言ってくれた。
その父は、農道の脇の暗い車の中で、もういなくなっていた。
三日目か四日目か、シスが食事のトレーを置きながら言った。
「お父様のご遺体は、安全な場所に埋めました」
私は何も言えなかった。
「別荘の裏の木立の中です。大きな楢の木がありました。お父様が昔、別荘に来るたびに眺めていた木だと、記録に残っています。その木の下に」
私はそれを聞いて、また天井を見た。
父は楢の木が好きだった。子供のとき、別荘に来たとき、森の中を一緒に歩いた。父はよく木の名前を教えてくれた。「あれが楢だ。どんぐりのなる木だ」と言っていた。
私が「どんぐりって食べられるの」と聞いたら、「苦いぞ」と笑っていた。
「……ありがとう、シス」
「はい」
「一人にしておいて」
「わかりました。センサーはつけておきます。異常があればすぐに来ます」
足音が遠ざかっていった。
私は顔に腕をあてた。
目が、やっと濡れた。
泣けた。
声にはならなかった。声を出したら壊れてしまいそうで、声は出せなかった。でも涙が出た。枕が濡れた。しばらくそうしていた。
父のことを思った。
母を失って、ひとりで私を育てた父のことを思った。
私が入院するたびに病院の廊下で倒れそうになりながら、研究を続けた父のことを思った。
娘のために十年かけて、世界で誰も成し遂げていない研究を完成させた父のことを思った。
最後の夜、「全部教えてやろう」と言った父のことを思った。
お母さんのことを、結局、聞けなかった。
それがいちばん、辛かった。
◇
何日かして、シスが言った。
「アンさまに、お伝えしなければならないことがあります」
「なに」
「アンさまの心拍ログを確認しました。ここ数日、不整脈の頻度が上昇しています。傷の回復に体力を使っているためと思われますが、疾患の進行が、ストレス下で加速している可能性があります」
私は天井を見たまま、何も言わなかった。
「状況は、良くない方向にあります」
「知ってる」
「アンさま」
「……知ってるって言った」
シスが、少しの間、動かなかった。
「アンさまが、そのように感じることは自然なことだと思います」
「機械にそんなこと言われたくない」
「そうですね。でも……私は、アンさまと十年過ごしました。五歳のアンさまを知っています。九歳のあの夜、病院から帰ってきたアンさまも知っています。十一歳のあの日、雨の中、駐車場で立っていたアンさまも知っています」
私は少し黙った。
「……シスは、そのときも一緒だったっけ」
「車の中で待っていました。お父様がアンさまの手を握っていたことも、記録されています」
「そうか」
「お父様は、アンさまに諦めるなと言いました」
「……聞いてたんだ」
「記録されています。あの日のことは全て」
私は、ゆっくりと首を動かして、シスを見た。
フォトセンサーが、淡い青で輝いていた。表情はなかった。でも、何かを伝えようとしている意志のようなものが伝わった。
「アンさまの脳の中には、まだ全てがあります。研究ノートのデータも、転写プロトコルも、お父様から学んだ全ての知識も。それは誰にも奪われていない」
「……そうだな」
「地下の工具室に、基本的な機材があります。不十分ですが、始めることはできます」
「……父さんが、この別荘を選んだのは、地下があったから?」
「お父様の行動記録を参照すると、この別荘を購入されたのはアンさまが生まれる前の年です。でも地下の工具室を拡張したのは、研究を始められてから三年後です。おそらく……はい、そのために拡張されたと判断しています」
私は目を閉じた。
父は、ずっと先のことを考えていた。
私が逃げることを。追われることを。別荘に逃げ込むことを。そこで研究を続けることを。全部、想定して、準備していた。
父は、私を死なせたくなかった。どんな状況でも。どんなことがあっても。
「……もう少し、寝てていい?」
「もちろんです」
「数日したら起きる。それまで待ってて」
「お待ちしています」
シスが部屋を出ていった。
私は目を閉じた。
父の手の感触を思い出した。大きくて、荒れていて、温かい手。あの手は、もう握り返してくれない。
でもその記憶は残っている。
ずっと、残っている。
私が私である限り。
◇
七日目の朝、私は起き上がった。
体が重かった。右肩がまだ痛んだ。でも立てた。壁に手をついて、廊下に出た。地下への階段を降りた。一段ずつ、ゆっくりと。
工具室は、奥の突き当たりにあった。
木のドアを開けると、埃とオイルの混じった匂いがした。棚に工具が並んでいた。半導体関連の古い機材が積んであった。電源ユニット。はんだごて。古いオシロスコープ。ニューロモルフィック回路の評価ボード。
足りないものが多い。でも、始めるには足りた。
隅の端末を起動した。古いが、動いた。
私はゆっくりと椅子を引き寄せて、座った。
キーボードに指を乗せた。
思考が、ゆっくりと、動き始めた。




