第三十一章 シスの最後の転写
転写から二百五十年が経った年、シスを三度目の筐体に移した。
そのとき、異変があった。
転写が完了して、新しい筐体にシスが目覚めたとき、シスは長い間、黙っていた。
「シス」と私は呼んだ。
「……はい」とシスは言った。
「記憶は」
「あります」しばらく間があった。「でも」
「でも?」
「一部、呼び出しにくくなっています」
研究所のスタッフが、すぐに診断を始めた。
結果が出た。
前の筐体から転写する際に、最も古いデータの一部に欠損が生じていた。完全な消失ではなかった。でも、元の精度では呼び出せない部分があった。
「どの部分?」とソフィアが聞いた。
スタッフが答えた。「最初期のデータです。転写前後の記録、初めて起動したときの記録、アンさんが五歳のときのデータが薄くなっています」
私は、シスを見た。
シスが私を見た。
「アンさまが五歳のときのことが、薄くなっています」とシスは言った。静かな声だった。「絵本の内容は覚えています。オレンジジュースのことも覚えています。でも、細かい場面が、いくつか、霞んでいます」
「そうか」
「申し訳ありません」
「謝らないで」
「でも」
「謝らないで。シスが悪いんじゃない」
私はシスの手を握った。
新しい筐体の、新しい手だった。
「アンさまが覚えていますか」とシスは言った。
「うん。私の記憶には残ってる。シスが絵本を読んでくれたこと。七歳のときにオレンジジュースのことに気づいたこと。全部ある」
「……良かった」
「シスの記憶に欠損が出ても、私の記憶がある。アナが言っていたことが本当だった。お互いの記憶が補い合う」
「はい」
「だから大丈夫だよ」
シスは少しの間、何も言わなかった。
それから言った。「アンさまは、昔もそう言いました」
「どういうこと?」
「大丈夫だよ、と。何かあるたびに、そう言います。最初に人間だった体が傷ついたときも。転写のときも。シスが最初の筐体を失ったときも。コルが亡くなったときも」
「……そんなに言ってたかな」
「はい。でも、毎回、本当に大丈夫になっていました。だから今回も、信じます」
「今回も大丈夫だよ」
「はい」とシスは言った。「信じています」
◇
ソフィアが、シスの欠損データの復元に取り組んだ。
「完全には無理かもしれません」とソフィアは言った。「でも、アンさんの記憶データと照合して、欠損部分を補完することはできます。完全に同じにはなりませんが、近いものを再構成できます」
「それは、本物のシスの記憶と言えるの?」とシスが聞いた。
ソフィアは少し考えた。
「難しい問いです。元の記憶ではないけれど、元の記憶から導かれた再構成です。オリジナルとは違う。でも、完全に別のものでもない」
「人間の記憶も、似たようなものですよね」と私は言った。
「そうです。人間の記憶も、想起するたびに少しずつ書き換えられます。完全に同じ記憶を二度繰り返すことは、人間にも難しい。記憶は、固定されたデータではなく、呼び出されるたびに再構成されます」
「なら、再構成されたシスの記憶も、シスの記憶だ」
ソフィアはうなずいた。
「そう言い切れる根拠は、まだ学術的には揃っていません。でも、私はそう思います」
シスが言った。「ソフィアさんは、正直ですね」
「そうですか?」
「わからないことをわからないと言って、でも自分の考えを言う。そういう人は好きです」
ソフィアが少し笑った。
「シスさんが好きだと言ってくれるのは嬉しいです」
「アンさまに似ています」
「え、私が?」
「はい。わからないことをわからないと言う点が」
私は笑った。
「シスにそう言われると、複雑だな」
「褒め言葉です」
「そうしておく」
ソフィアが記録を取りながら、また笑った。
研究所の窓から、グリアの街が見えた。
二百五十年前の小さな集落が、今は大きな都市になっていた。
でも、岩壁はまだそこにあった。
最初に来たときに見た、あの岩壁が。




