第三十章 ソフィアという研究者
転写から二百三十年が経った年、グリアの研究所に新しい研究者が来た。
名前をソフィアといった。
三十代の女性で、世界の別の都市で記憶科学を研究していた。グリアの研究所が世界唯一の実地機関だと知り、訪ねてきたのだという。
「アンさん」とソフィアは言った。初めて会った日に、真っ直ぐに私のところへ来た。「会いたかった。あなたは、世界最初の記憶転写を自分に施した人間ですね」
「そうだよ」
「チップを見せてもらえますか」
「頸部のパネルを開ければ見られるけど、何に使うの」
「研究のためです。チップの経年変化を調べたい。二百三十年前に作られた半導体が、今どんな状態かを」
「……どんな状態だと思う?」
ソフィアは少し考えた。
「正直に言います。劣化しているはずです。どんな半導体も、二百年以上は保ちません。でも、あなたは動いている。だから、実際にどうなっているかを見たい」
「劣化していたら、どうなる?」
「記憶の欠損が起きている可能性があります。本人が気づいていない欠損が」
私はソフィアを見た。
三十代の、真剣な顔だった。遠慮がなかった。でも、悪意もなかった。ただ、知りたいのだと伝わった。
「……調べてもいい」と私は言った。
「本当ですか」
「ただし、シスも同席させる。それと、結果は全部教えてくれる」
「もちろんです」
調査は二日かかった。
ソフィアは丁寧だった。急がなかった。一つ一つのデータを確認しながら進めた。
結果が出たとき、ソフィアは少し表情を変えた。
「どう?」と私は聞いた。
「予想より、状態が良いです」とソフィアは言った。「劣化はあります。でも、深刻ではない。記憶の欠損も、現時点では確認できていません。……なぜだろう」
「わからない?」
「推測はあります。アンさんのチップは、父上が設計したものですが、この設計が非常に優れている。通常の半導体とは異なるエラー訂正機構が組み込まれています。損傷が起きても、周囲のセルがカバーする設計です」
「父が、そういう設計にした」
「はい。おそらく意図的に。長期間の使用を想定した設計です」
私は少しの間、黙った。
父は、千年ということを、本当に信じていた。
だから、千年持つように設計した。
娘の記憶が、千年消えないように。
「……父らしい」と私は言った。
「お父様のことを?」
「うん。研究者として、全部計算して作った。私に言わずに、ちゃんと作った」
ソフィアは少し間を置いて、言った。
「アンさんのチップは、世界で最も貴重な記録物のひとつです。二百三十年前の、戦争直後の世界を生きた人間の、完全な記憶が入っている。これは歴史的な資料です」
「そうは思っていなかった」
「そうでしょう。でも、研究者の立場から言えば、そうです。私は、あなたの記憶を解析したい。もちろん、あなたの同意のもとで。強制はしません」
「何のために」
「人間がどのように世界を認識し、記憶を形成するか。そのパターンが、二百年でどう変化するか。それを知ることで、記憶転写の技術を向上させることができる。もっと多くの人の記憶を、もっと長く保存できるようになる」
私はソフィアを見た。
「父と同じことを言う」と私は言った。
「え?」
「父も、記憶を転写することで、人を助けたいと思っていた。形は違うけど、同じことを考えている」
ソフィアは少し驚いた顔をした。
「……光栄です」
「同意する。でも、一つだけ条件がある」
「なんですか」
「コルのチップも調べてくれる。コルは六十九歳のときに転写した。その記憶も、ちゃんと残っているか確かめたい」
ソフィアは真剣な顔でうなずいた。
「必ず調べます」
「ありがとう」
コルのチップを、ポケットから出した。
百三十年以上、ずっと持ち歩いていたチップだった。
「……これが、コルさんのチップですか」とソフィアは言った。
「そう。アナが作ってくれた。コルが望んで、残してくれた」
ソフィアはチップを受け取った。両手で、丁寧に受け取った。
「大切に扱います」
「うん。頼む」
ソフィアがチップを見ながら言った。「コルさんのことを、話してもらえますか。研究の参考になります」
「いくらでも話す」と私は言った。「コルのことは、いくらでも話せる」
ソフィアは記録用のノートを開いた。
ペンを持った。
「最初に会ったとき、何歳でしたか」
「コルが八歳。私が、転写してから一年も経っていない頃だった」
「どんな子供でしたか」
私は、二百三十年前の記憶を呼んだ。
路地の影。小さな影。怯えた目。でも、真剣な目。
「小さくて、怯えていて、でも、真剣な目をしていた」
ソフィアがノートに書き始めた。
私は話し続けた。
コルのことを、全部、話した。
◇
ソフィアはグリアに一年間滞在した。
その一年で、私はソフィアと多くの話をした。記憶の話、技術の話、歴史の話。ソフィアは質問が上手だった。私が気づいていなかった記憶の細部を、引き出すことができた。
「なぜ、あのとき路地に入ったんですか」とソフィアは聞いた。
「誰かがいると思った」
「でも、シスのセンサーには引っかかっていなかった。なぜそう思ったんですか」
「……わからない。でも、入りたかった。何かが、そこにあると思った」
「それは感覚ですか、それとも判断ですか」
「どちらとも言えない」
「オートマタに、感覚はあると思いますか」
「ある、と思う。でも、人間の感覚と同じかどうかはわからない。違う経路で、似たようなものに到達している気がする」
「たとえば?」
「人間は感情から感覚が来る。私は演算から感覚に近いものが来る。経路は違うけど、行き着く場所が似ている、という感じ」
ソフィアは書きながら、うなずいていた。
「それは重要な観察です」
「重要かどうかはわからない」
「重要です。二百年以上の時間をかけて、オートマタが感覚を発達させた可能性がある。これは前例のない事例です」
「父が聞いたら、喜ぶかもしれない」
「そうですね」ソフィアは少し間を置いた。「アンさんは、お父様のことをよく話しますね」
「そう?」
「はい。話の中に、必ず出てくる。意識していますか」
「……していないかもしれない。でも、父のことを考えるのは当たり前になっているから」
「二百三十年経っても?」
「二百三十年経っても」
ソフィアはペンを置いた。
「私には、父がいません」とソフィアは言った。「幼いときに亡くなった。記憶もほとんどない」
「そうか」
「だから、アンさんのことが、少し羨ましいです。二百年以上前に亡くなった父親のことを、今も話せる。それは、普通の人間には絶対にできないことです」
私は少しの間、黙った。
「……父に感謝しないといけないな」と私は言った。「記憶を残してくれた。だから、こうして話せる」
「はい」
「父が転写の技術を作らなければ、私にも父の記憶はなかった。技術が記憶を守った」
「それが、記憶転写の本質だと思います」とソフィアは言った。「人は死ぬ。でも記憶は残せる。それが誰かの支えになる」
「父がそう考えていたかどうかは、わからない。でも、そうなった」
「結果が同じなら、意図は関係ないかもしれません」
「そうかな」
「記憶が、誰かの支えになった事実がある。それで十分じゃないですか」
私はソフィアを見た。
三十代の顔が、真剣に光っていた。
「……ソフィア、あなたは良い研究者だ」と私は言った。
「ありがとうございます」
「父に似ている」
「光栄です」
「でも父は、こんなに聞き上手じゃなかった。しゃべる方が得意だった」
ソフィアが笑った。




