第二十九章 二百年目の世界
転写から二百年が経った。
世界は、大きく変わっていた。
戦争が終わって百五十年以上が過ぎ、国境の形も、政治の形も、技術の形も、百年前とは別物になっていた。電力は安定して供給されるようになっていた。通信網が世界を覆っていた。医療が進歩して、人間の平均寿命が延びていた。
でも、争いがなくなったわけではなかった。
形が変わっただけだった。大きな戦争の代わりに、小さな紛争が絶えなかった。資源を巡る対立、価値観の衝突、歴史的な恨みの蓄積。人間は争うことをやめなかった。
それでも、グリアは続いていた。
形は変わっていた。最初の三千人の集落は、今では三万人を超える都市になっていた。岩壁の自治区から始まった場所が、正式な国際認定を受けた自治都市になっていた。アナが育てた記憶転写研究所は、世界で唯一の記憶保存機関になっていた。
コルの子孫が、その研究所にいた。
アナの娘がいた。アナの孫がいた。その先の世代がいた。コルの目を持つ人間が、グリアの研究所に、代々いた。
私はその全員に会った。
全員の名前を、覚えていた。
私の筐体は、二百年の間に四度替わっていた。七十年目、百二十年目、百六十年目、そして今の筐体。シスと同様に、私の体も経年劣化する。チップを移すたびに、白磁の外装と淡い青のフォトセンサーだけは変えなかった。それだけは、私がアンである証だと思っていた。筐体が変わっても、チップが生きていれば、私は私だ。
「アンさんが来た」という言葉が、グリアでは挨拶のようになっていた。代々の語り継ぎの中で、私のことは伝説に近い存在になっていた。でも、実際に来るたびに、みんなは私を見て少し驚いた顔をした。
「本当に変わらないんですね」と、アナの曾孫にあたるイレネという女性が言った。
「変わらない」と私は言った。
「お婆さんのお婆さんから、アンさんの話を聞かされて育ちました。でも、実際に会うと、話に聞いた通りの姿で」
「二百年前と同じだよ」
「不思議です」
「そう思う」
「怖くないですか。自分だけが変わらないのが」
私は少し考えた。
「怖い、という感覚はある。でも今は、それより楽しい気持ちの方が大きい。どんな世界になっていくのか、見てみたい」
「楽しい?」とイレネは繰り返した。
「うん。二百年前には想像できなかった世界が、今ある。この先の二百年も、想像できないものになるんだろうと思う。それが楽しい」
イレネは少しの間、私を見ていた。
「アンさんは、一番最初に会ったとき、どんな気持ちでしたか」とイレネは聞いた。
「誰に会ったとき?」
「コルさんです。私の先祖にあたる」
「……路地の影から出てきた。小さくて、汚れていて、怯えていて。でも真剣な目をしていた」
「そのときのことが、一番古い記憶ですか」
「いや。もっと古い記憶がある。父の記憶、シスの記憶、地下研究室の記憶。でも、外の世界で最初に出会った人間としては、コルが最初だった」
「コルさんは、幸せだったと思いますか」
「幸せだったと思う。確信はないけど、そう思う。最後に会ったとき、コルは『千年、楽しんでくれよ』と言った。それを言える人間は、自分の人生に納得していたんだと思う」
イレネは目を閉じた。
「……聞けて良かった」とイレネは言った。「何代も前の先祖のことを、直接知っている人から聞けた」
「コルのことは、何でも聞いて。覚えてる限り、全部話す」
「本当ですか」
「本当に。六十一年分の記憶が、ここにある」
イレネは目を開けた。
コルと同じ目だった。
何代経っても、その目だけは伝わっていた。
◇
二百年が経って、私が感じていた変化があった。
記憶の量だった。
チップには、まだ余裕があった。容量の問題ではなかった。でも、二百年分の記憶を持つことの、質が変わってきていた。
最初の頃、記憶は鮮明だった。父の顔、シスの声、コルの手の感触。全部がくっきりとあった。
二百年が経った今も、消えてはいなかった。でも、層になっていた。
古い記憶が、深いところにあった。
呼べば出てくる。でも、自然には浮かんでこなくなっていた。
「シス」と私は言った。
「はい」
「私の記憶の呼び出し方が、変わってきた気がする」
「どのように」
「古い記憶が、深いところに沈んでいく気がする。消えているわけじゃない。でも、すぐに出てこなくなってきた」
シスは少しの間、考えた。
「人間の記憶も、同じようなことが起きます。古い記憶は、感情と結びついたものほど残りやすい。感情の薄い記憶から、アクセスしにくくなります」
「私の記憶にも、そういう仕組みがあるのか」
「アンさまの記憶は、人間の脳のアーキテクチャを模したチップに入っています。人間の記憶と似た特性があっても不思議ではありません」
「じゃあ、感情と結びついた記憶は残るということ?」
「はい。強い感情と結びついた記憶は、呼びやすい場所にあり続けると思われます」
「それは、つまり」
「父上の声、コルの手紙、楢の木の音。それらは、最後まで残ると思います」
私は少し笑った。
「それで十分だ」と私は言った。「大切なものが残るなら、それで十分だ」




