第二章 四十八時間
翌朝、父は研究者仲間にメッセージを送った。
私が止める前に。
「同じ分野の仲間に伝えたい」と父は前夜から言っていた。「世界中に散らばっている研究者たちに。この成果の意味を、彼らはわかってくれる」
「待って。データの検証がまだ終わっていない」
「わかっている。でも速報だ。概要だけでも共有したい」
「……チャンネルは?」
「研究者コミュニティの内部チャンネルだ。暗号化している。外には漏れない」
私は少し考えた。父の言う内部チャンネルは、セキュリティレベルが高い通信経路だ。参加者は認証済みの研究者に限定されており、軍や政府機関のアクセスは理論上は遮断されている。
理論上は。
「短く、概要だけにして」
「もちろんだ」
父はメッセージを書いた。私は後ろから画面を覗いた。
「記憶転写の安定転写に成功。安定指数〇・九四を確認。確率共鳴機構の応用による成果。詳細データは精査後に共有予定。この分野の仲間たちに最初に伝えたかった。エリック・クレイグ」
二十七人の研究者に送信された。
父は送信完了のログを見て、満足そうに肩を落とした。長い、深い、安堵の息だった。
私はそのとき、嫌な予感をきちんと声にしなかった。
後悔している。でも後悔していても、どうしようもない。
◇
四十八時間後に、軍の接触があった。
メッセージは音声データとして届いた。送信元のアドレスは匿名処理されていたが、通信プロトコルのフィンガープリントが、軍の通信基盤を経由していることを示していた。シスが三分で解析結果を報告した。私は三回、そのメッセージを聞いた。
「貴研究室が記憶転写技術の実証実験に成功したとの情報を得た。本技術は戦略的に重要な価値を持つと判断される。施設への移送と技術の提供に協力されたい。貴研究室の安全は保証する」
声は平坦だった。感情がなかった。命令に慣れた人間の声だった。
安全は保証する。
私はその言葉が、最も信用できない言葉に聞こえた。「安全を保証する」という言葉は、「従わなければ安全でなくなる」という意味を内包している。
「父さん」
「……わかっている」
父の顔が険しくなっていた。先ほどまでの穏やかさは消えていた。
「軍事利用する気だよ。記憶転写を戦争に使う気だ」
「……ああ」
「兵士の戦闘技術を大量転写して即戦力を増やす。捕虜から情報を強制転写する。死んだ指揮官の判断パターンを複製する。どれも、私たちが想定していた使い方じゃない。人を助けるための研究だった」
「わかっている」
「断ろう。断って、逃げよう。北の別荘がある。あそこなら、しばらく隠れられる。機材は最小限持って――」
「アン」
父が私の名前を呼んだ。真剣な、低い声だった。
「なに」
「……お前は、怖くないか」
私は少し黙った。
怖かった。地上に出ることが怖かった。軍と対立することが怖かった。でも、もっと怖いことがある。
「怖い。でも渡したらもっと怖い。この研究が戦争に使われることの方が、ずっと怖い」
父はしばらく目を閉じていた。眉間に深い皺が寄っていた。父がこういう顔をするとき、何かと戦っているのだと私は知っている。
それから目を開いて、うなずいた。
「わかった。逃げよう」
シスはすでに荷物の準備を始めていた。
私が何かを言う前に、シスは動いていた。このオートマタはいつもそうだ。必要な行動を、私が声にする前に予測して動く。
「シス」
「はい、アンさま」
「持っていくものの優先順位は」
「記憶転写プロトコルの実験ログ、転写用チップの試作品、お父様の研究ノート三冊、アンさまの医療品、食料は四日分、緊急電源ユニット。以上を最優先に判断しました。次いで暗号通信機器、予備電池」
「完璧。研究ノートは」
「紙媒体のため、耐衝撃ケースに収納しました。被弾を想定した配置です」
父がそれを聞いて、短く息をついた。「……ありがとう、シス」
シスは一度だけ、頭を下げた。
地下研究室を出たのは、翌朝の四時だった。
七百日間生きた場所だった。
最後に一度振り返った。消えかけた実験機器のランプが、暗い部屋の中でいくつか点滅していた。父の書いたメモが、ホワイトボードに残ったままだった。私たちが七百日間過ごした場所が、そこにあった。
もう戻れないかもしれない、と思った。
地上に出たとき、空は灰色だった。煙のにおいがした。遠くで何かが燃えていた。地平線のどこかが、薄くオレンジに滲んでいた。
私たちは走った。




