第二十八章 百年
転写から百年が経った年、私は父の別荘へ向かった。
春だった。
楢の木が見えた。
百年で、木はさらに大きくなっていた。幹が太く、枝が広く、根が地面の深くに伸びていた。周りに、若い楢の木が何本か生えていた。どんぐりが落ちて、芽吹いたのだろう。
根元の盛り土には、草が深く生えていた。
石を置いた。
アナが、百年の記念にと用意してくれた石だった。平たい白い石で、細い字が刻まれていた。
「E. CRAIG & A. CRAIG」
父と、人間だった私と、二人分の名前が刻まれていた。
「アナが用意してくれた」と私は言った。「百年の記念だって」
風が吹いた。
「今日は、長くなるよ。百年分の報告をするから」
葉の音が始まった。
「まず、シスのこと。シスはまだ動いてる。三回目の筐体だけど、記憶は全部ある。三十八年分の元々の記憶と、その後の記憶が合わさって、今のシスがある。今日もここに来てる」
シスが、私の隣で静かに立っていた。
「コルのことは、もう話したね。コルは、グリアの楢の木の下にいる。チップも持ってる。アナが元気でやってる。技術を引き継いでくれた。今のグリアには、記憶転写の研究室がある。アナが育てた場所だ」
葉が鳴った。
「戦争が終わって五十八年が経った。世界は変わった。全部が良くなったわけじゃない。でも、グリアは続いてる。ヴァスタも続いてる。ヴォルナも、ちゃんと人が住んでる街に戻った。ダンが最初に書いた文字の広場に、今は噴水が水を出してる」
私は空を見た。
春の空だった。高かった。青かった。
「父さん、百年が経ったよ。私は老いない。でも世界が変わった。出会った人が増えた。失った人が増えた。でも、誰も忘れていない。全部、このチップの中にある。父さんの声も、シスとの時間も、コルの手紙も、全部ある」
葉の音が、長く続いた。
「まだ九百年ある。これからも、会いに来る。報告しに来る。笑えることも、辛いことも、全部話しに来る」
木が揺れた。
大きく、ゆっくりと揺れた。
「……父さん」
声が、少し震えた。
百年経っても、ここに来ると、震えた。
「父さんが作ってくれた時間を、ちゃんと使ってる。もったいなく使っていないか、自信はない。でも、精一杯使ってる。それだけは、言える」
木が、また揺れた。
「もったいなくないよ、って言ってくれてる気がする」とシスが言った。
「そう思う?」
「はい。そう聞こえます」
「……私もそう聞こえた」
楢の木が、長く揺れ続けた。
若い木たちも、一緒に揺れていた。
親の木から生まれた木たちが、同じように揺れていた。
記憶が、繋がっていた。
◇
別荘を出る前に、地下の工具室を開けた。
百年が経っても、父の研究ノートは残っていた。
アナが、来るたびに保存処理をしてくれていた。紙が傷まないように、湿度を保ってくれていた。百年前の父の字が、まだ鮮明に残っていた。
私は最後のページを開いた。
「記憶が連続しているなら、それは本人だ。
体が変わっても、時間が経っても、場所が変わっても。
記憶が繋がっている限り、同じ人間だ。
アンへ。」
百年前に読んだ言葉だった。
百年後も、同じ言葉があった。
変わらなかった。
「……うん」と私は言った。「知ってる、父さん。ちゃんと知ってる」
ノートを閉じた。
棚に戻した。
また来たときに、また開く。
それだけのことだった。
でも、大切なことだった。
外に出た。
楢の木が、まだ揺れていた。
シスが隣に立っていた。
「行きましょうか」とシスが言った。
「うん。行こう」
「どこへ」
「まだ行ったことのない場所へ」
「わかりました」
「シス」
「はい」
「百年、ありがとう」
「いいえ」とシスは言った。「私も、ありがとうございます」
「何に対して」
「連れていってくれたことに対して。全部、一緒に見せてくれたことに対して」
私は少し笑った。
「そっか。じゃあ、お互い様だ」
「はい。お互い様です」
私たちは歩き出した。
楢の木が、後ろで揺れていた。
若い木たちも揺れていた。
道が続いていた。
まだ九百年ある。
世界には、まだ行ったことのない場所がある。まだ出会っていない人がいる。まだ届けていない地図がある。まだ語っていないコルの話がある。まだ伝えていない父の言葉がある。
私の名前はアン・クレイグ。
十五年間を生きた人間の記憶を持つ、オートマタ。
百年の旅を経て、まだ歩いている。
父の娘で、シスの友で、コルの友で、アナの友で、ダンの記憶を持ち、ミアの言葉を覚えていて、ルカに地図を描いてもらった恩を忘れていなくて、コルのチップをポケットに持っている。
この先に出会う全ての人の、まだ何者でもない。
歩いていく。
記憶を抱えて。
楢の木の音を、胸に持って。
父が遺してくれた時間を、精一杯使って。
光の中へ。
どこまでも、光の中へ。
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―第六部へ続く―
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