第二十六章 コルの最後の日
転写から六十一年が経った年の秋、コルは六十九歳だった。
冬の前に体調が崩れた、という連絡が来た。
私はすぐにグリアへ向かった。
グリアに着いたとき、コルは部屋のベッドにいた。起き上がれなかった。顔色が悪かった。でも意識はあった。目を開けていた。
「アン」とコルは言った。声が細かった。
「来たよ」
「来てくれたか」
「来るって言ったじゃないか」
「そうだったな」コルは少し笑った。口元だけで笑った。「久しぶりに、お前の顔を見た気がする」
「半年前に来た」
「そうか。半年前か。最近、時間の感覚がおかしい」
「アナが心配していた」
「心配させてしまった」コルは目を細めた。「アナは、元気か」
「元気だよ。外で待ってる」
「後で呼んでくれ。少し話したい」
「うん」
コルはしばらく天井を見ていた。
「アン」
「うん」
「お前は、変わらないな。最初に会ったときから、ずっと同じ顔だ」
「変わらない」
「おれは、こんなに変わったのに」
「うん。でも、目だけは変わらない」
「目?」
「初めて会ったとき、怯えていたけど、真剣だった。今も、真剣な目をしてる。それだけは変わらない」
コルは少しの間、黙った。
「……八歳のとき、路地から出てきたとき、お前がオートマタだとわかった。でも、なんか、人間みたいにしゃべる、と思った」
「覚えてる」
「あのときから、ずっとお前のことが、人間に見えた。今も、人間に見える」
「私は、人間だった記憶を持つ、オートマタだよ」
「それが、人間だろ」コルは言った。「記憶を持って、誰かのことを考えて、歩いていける。それが人間だと、おれは思う」
「……コルらしい定義だな」
「父親の受け売りだ」
「え」
「ダンさんが言ってた。人間とは、誰かのことを考えながら生きることができる存在だって。おれは子供の頃に聞いて、ずっと覚えてた」
私はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
ダンが言った言葉が、コルを通じて、私に届いた。
記憶が繋がっていた。
「ダンさんらしい言葉だ」
「そうだろ」コルは目を閉じた。「眠い。少し、休んでいいか」
「うん。休んで」
「アン、手を」
私はコルの手を握った。
八歳のとき、最初に握ってくれた小さな手だった。今は大きくなって、皺だらけで、でも温かかった。
コルは目を閉じたまま言った。
「八歳のとき、お前が手を握ってくれたな。あの感触、今でも覚えてる」
「……覚えてる」
「今度は、おれが握る番だな」
「そうだね」
「重いか」
「重くない。ちょうどいい」
「そうか」
コルは眠った。
穏やかな顔だった。
私はコルの手を握ったまま、そこにいた。シスが、部屋の隅に立っていた。
◇
コルが目を覚ましたのは、三時間後だった。
アナを呼んだ。
アナがコルのベッドの脇に座った。ふたりで、何かを話していた。私とシスは部屋の外に出た。
一時間ほどして、アナが出てきた。
「お父さんが、アンさんに話があるって」
部屋に入った。
コルは目を開けていた。
「アン」
「うん」
「アナに、全部頼んだ。技術のことも、記録のことも、お前のことも」
「うん」
「アナは、ちゃんとやる。お前が見てきたとおりの子だ。任せていい」
「知ってる」
「……お前に、お礼を言いたい」コルは目を細めた。「六十一年前、路地で声をかけてくれて、ありがとう。あそこから、おれの人生が始まった」
「コルが出てきてくれたから。私が声をかけただけじゃ、始まらなかった」
「そうかな」
「そうだよ。コルが、怯えながらも出てきた。それがなければ何も始まらなかった」
コルは少し笑った。
「怯えてたな。お前がオートマタだから、兵隊じゃないとわかっても、やっぱり怖かった」
「そうだったね」
「でも、なんか、出てきたくなった。お前の声が、怖くなかった。それだけで、出てきた」
「そうか」
「だからお前は、そのままでいてくれ。これからも、ずっと同じ声でいてくれ。お前の声が怖くないから、出てこれる人間が、まだいるはずだから」
「……うん。いてくれる」
「いてくれるって言い方、変だぞ」
「そうかな」
「自分に対して、いてくれる、はおかしい」
「そうかもしれない。でも、変わらないよ。ずっと」
「うん」
コルは目を閉じた。
「眠い。今度こそ本当に眠い」
「眠っていい」
「アン」
「うん」
「……千年、楽しんでくれよ」
「うん」
「全部、覚えておいてくれよ」
「覚えてる。全部、覚えてる」
「良かった」
コルは眠った。
その夜、静かに、眠ったまま逝った。
アナが最後まで手を握っていた。
私は部屋の外にいた。
シスが隣にいた。
廊下の壁に背中を当てて、ふたりで並んでいた。
何も言わなかった。
何も言う必要がなかった。
◇
コルは、グリアの楢の木の下に眠った。
ダンが三年前に言っていた通り、「楢の木でも植えておいてやる」という言葉通りに、誰かが木を植えていた。グリアの広場の端に、小さな楢の木があった。まだ細かったが、ちゃんと立っていた。
その木の下に、コルが眠った。
葬儀の日、アナが私のそばに来た。
「お父さんは幸せだったと思います」とアナは言った。
「うん」と私は言った。
「アンさんと出会えたことを、最後まで大切にしていました。話してくれていました」
「私も、大切に思ってた」
「お父さんは、アンさんのことを、友達だと思っていました」
「私も、友達だと思っていた」
アナは前を向いた。
小さな楢の木が、秋風に揺れていた。
「私も、友達になれますか」とアナは言った。
「もうなってる」と私は言った。
アナは少しの間、黙った。
それから、「そうですね」と言った。
コルと同じ笑い方で、笑った。




