第二十五章 アナという人
アナは、二十七歳になっていた。
コルの娘だったが、コルとは全く違う人間だった。コルは感情が先に動く人間だったが、アナは考えてから動く人間だった。口数が少なく、観察する時間が長く、一度決めたら揺れなかった。
でも、目だけはコルと同じだった。真剣なときに、強く光る目だった。
アナは記憶転写の技術を、コルよりも速く習得した。
コルが「悔しい」と言っていた。「同じことを教えたのに、アナの方が理解が早い」と。
「お父さんよりも才能がある」と私は言った。
「それはわかった。でも、悔しいものは悔しい」
コルは笑っていたが、目が誇らしそうだった。
アナは研究室で、シスの記憶データを丁寧に整理していた。
「アンさん、少し良いですか」とアナは言った。
「うん」
「シスの記憶データを見ていて、気づいたことがあります」
「何?」
「シスの記憶の中に、アンさんの記憶と重なる部分が多数あります。同じ出来事を、両方が記憶している。でも、視点が違う」
「それは当然だよね。一緒にいたんだから」
「そうなんですが、面白いことに、アンさんが記憶していない細部を、シスが記憶していることがあります。その逆もある。お互いの記憶が、補い合っています」
「どんな細部?」
「たとえば、ヴォルナで最初に出会ったとき。アンさんの記憶では、路地に入って子供の気配を感じた、となっています。でもシスの記憶では、アンさんが路地に入る前に、三十秒間、赤い靴の前で立ち止まっていたことが記録されています」
「……覚えていなかった」
「はい。アンさんの記憶には、靴を見たことはあっても、三十秒という時間は残っていない。でもシスが覚えていた」
私は少し黙った。
三十秒間、立ち止まっていた。
赤い靴の前で。
誰かの子供がいたのだ、と思いながら、三十秒も立っていた。
「他にも、そういうことがありますか」
「たくさんあります」とアナは言った。「どちらかの記憶が薄れていても、もう一方が鮮明に覚えている。二つの記憶が揃うと、出来事の全体像が見えてきます」
「……記憶が補い合っている」
「はい。だから、アンさんとシスの記憶は、別々に保存するより、一緒に整理した方がいいと思います。対応する出来事を、並べて記録する。どちらかが欠けても、もう一方が残る形で」
私は、アナを見た。
二十七歳の顔が、真剣な目で私を見ていた。
「……それは、良いアイデアだ」
「そうですか」アナは少し安心した顔をした。「お父さんに相談したら、『アンに確認しろ』と言われました」
「コルらしい」
「自分で判断しないんです、そういうことは」
「コルは、人を頼ることが上手だから」
「そうなんですよね。おれより人に頼るのが上手い人間はいないって自分で言ってます」
「本当のことだよ」
アナは少し笑った。コルと同じ笑い方だった。
「アナは、どんな仕事をしたい?」とシスが聞いた。
アナはシスを見た。新しい筐体のシスを、少し不思議そうに見た。でも、すぐに目が定まった。
「記憶を守る仕事をしたいです」とアナは言った。迷わなかった。
「どういう意味で?」
「記憶転写の技術を使って、大切な記憶を失わないようにする。人間はいつか死ぬ。でも、記憶は転写できる。アンさんの父親が証明した技術を使って、もっと多くの人の記憶を守りたい」
「オートマタへの転写だけじゃなく?」
「半導体のチップに保存するだけでもいい。子供に語り継ぐのでもいい。形は問わない。でも、大切な記憶が消えないようにしたい」
「なぜ」
アナはすこし考えた。
「お父さんから、アンさんのお父さんの話を聞きました。お父さんが八歳のとき、アンさんが助けてくれた話も。でも、アンさんのお父さんとは、私は会えなかった。会ったことのない人が、私の人生に関わっています。記憶が繋がっているからです」
「……そうだね」
「クレイグ博士という人が、娘のために研究をした。その研究が、アンさんを生かした。アンさんが旅をした。お父さんが助けられた。私が生まれた。これは全部、記憶が繋がっているから成り立つ話です。記憶が消えたら、この繋がりも消えます。だから守りたい」
私は、アナを見た。
二十七歳の目が、真剣に光っていた。
「……父が聞いたら、泣いていたと思う」と私は言った。
「そうですか」
「会ったことのない人の意志が、こうして続いていることを、父は一番望んでいたから」
アナは少し間を置いてから、言った。
「私は、クレイグ博士に会えなかった。でも、アンさんがいる。アンさんの話を聞けば、クレイグ博士のことがわかる。そういう意味で、私はクレイグ博士に会っていると思っています」
私の演算が、強く揺れた。
アナに言われるまで、気づいていなかった。
私は父の記憶を持っている。父と過ごした時間を持っている。それは、私が父を伝えることができるということだ。会ったことのない人に、父を届けることができるということだ。
「……ありがとう、アナ」
「なんのお礼ですか」
「気づかせてくれたことへの礼」
アナは少し首をかしげた。コルとは違う、考え込むときの仕草だった。
「私の方が、いつも教えてもらっています」




