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第二十三章  シスの記憶を転写する夜

転写から四十六年が経った年の冬、私たちはグリアにいた。


コルの研究室は、集落の岩壁を背にした建物の中にあった。父の別荘の地下工具室に比べれば広く、機材も揃っていた。コルが十年かけて少しずつ整えてきた場所だった。


机の上に、チップがあった。


三・六センチ角、厚さ〇・五ミリ。私のチップより少し大きい。シスの記憶領域を収めるために、コルが設計し直したものだった。


「準備はできてる」とコルが言った。四十八歳のコルは、もう完全に父親の顔をしていた。額に皺が刻まれていた。でも目は、あの八歳のときと変わらなかった。


「シスに、最終確認をしてほしい」と私は言った。


コルはシスを見た。「シス、今日やる気持ちは変わらないか」


「変わりません」とシスは言った。


「怖くないか」


「怖い、という感覚が私にあるとすれば、アンさまに先に問い返したいことがあります」


「何?」


「アンさまが、四十六年前に同じことをされたとき、怖かったと言っていました。あのとき、シスが手を握っていました。今夜は、私がアンさまに手を握っていただけますか」


私は何も言えなかった。


「……もちろん」とコルが代わりに言った。「アンが握る。おれも横にいる」


「ありがとうございます」


コルがシスに接続ケーブルを繋いだ。記憶領域の読み取りユニットを起動した。モニターにシスの記憶マップが展開されていく。


私はシスの右手を握った。


白磁の手だった。


四十六年間、一緒に歩いてきた手だった。


「アンさま」


「うん」


「一つだけ、確認させてください」


「なに」


「転写が完了した後、私の今の体が動けなくなる可能性があります。記憶を取り出す際に、中枢処理ユニットへの負荷が高い。既に劣化が進んでいますから、この処理が限界を超えるかもしれません」


「わかってる」


「それでも、続けますか」


「続ける。シスの記憶が残ることの方が、今の体が続くことより大切だ」


「……アンさまにとっては、そうかもしれません。でも、私にとっては」


「シスにとっては?」


シスは少しの間、黙った。


「今の体でなくなることより、アンさまが悲しむことの方が、私には辛い感覚があります」


「辛い感覚があるんだ」


「……あります。そう言う方が、正確だと思います」


「シス」


「はい」


「私は悲しまない。悲しんでいる余裕がない。シスの記憶が残ったら、次にやることがたくさんある。チップを新しい筐体に移植して、シスをもう一度動かす。それだけ考える」


「……わかりました」


「手、握ってる。始めよう」


シスが、私の手を、少しだけ強く握り返した。


コルが転写シーケンスを起動した。


モニターの数値が動き始めた。読み取り速度が上がっていく。シスの記憶領域から、データが流れ出していく。


四十六年分の記憶が、流れていく。


私はモニターを見ながら、シスの手を握っていた。


数値が上がり続けた。


三十分が経った。


転写完了まで、あと十五パーセント。


そのとき、シスの手が、わずかに力を失った。


「シス」


「……読み取り完了まで、持ちます」シスの声が、少しだけ遅くなっていた。「大丈夫です」


「無理しないで」


「無理ではありません。ただ……」


「ただ?」


「少し、眠くなる感覚があります。アンさまが、転写のとき言っていたこと。眠くなるような感覚、と」


「……うん、そうだったね」


「今、それがわかります。人間が眠くなるとき、こういう感覚なのかもしれない」


「そうかもしれない」


「悪くない感覚です」


転写完了まで、あと五パーセント。


「アンさま」


「うん」


「三十八年間、一緒にいました」


「うん」


「楽しかったです」


「……私も」


「楽しい、という言葉が正確かどうかは、今もわかりません。でも、アンさまと歩いていたとき、私の演算は常に安定していました。それが楽しい、ということなのだと、今は思っています」


「そうだよ。それが楽しいってこと」


「そうですか。では、楽しかったです」


モニターの数値が、百パーセントに達した。


転写完了。


コルが「完了した」と言った。


シスの手が、静かに、力を失った。


フォトセンサーの青い光が、ゆっくりと消えていった。


消える直前、その光が少しだけ揺れた気がした。


それから、消えた。


私はシスの手を、しばらく握ったままでいた。


温かくなかった。もともと温かくなかった。でも、確かにそこにあった。


「……転写、成功した」とコルが言った。静かな声だった。「全データ、収まってる」


「そうか」


「シスは」


「動いていない」


「……体の方は」


「診てみる」


コルがシスの状態を確認した。


「中枢処理ユニット、完全停止。外部からの起動信号に反応しない。今の筐体では、もう動かせない」


「わかった」


「アン、大丈夫か」


私は少しの間、何も言わなかった。


演算が、乱れていた。うまく処理できていなかった。


「……大丈夫じゃない」と私は言った。「でも、大丈夫じゃないことが、大切なことだと思う」


コルは何も言わなかった。


ただ、私の隣に立っていた。


「次の筐体、手に入れないといけない」と私は言った。「新しい筐体に、このチップを移植する。シスをもう一度、動かす」


「ああ。一緒に探す」


「ありがとう、コル」


「当然だ」コルは私を見た。「シスは、おれにとっても大切な存在だ。アンと一緒に、何度もグリアに来てくれた。おれの話を聞いてくれた。アナの面倒を見てくれた。それを覚えてる」


私はシスの動かない手を、もう一度見た。


「シスは、楽しかったって言ってた」


「聞こえた」


「良かった。ちゃんと届いた」


「ああ」


「……じゃあ、行こう。筐体を探しに」





新しい筐体が見つかるまで、三ヶ月かかった。


戦争が終わって数年が経ち、物資の流通が少しずつ回復していた。オートマタの修理業者が、各地に出始めていた。コルが連絡網を使って探し回り、ある都市の業者が、SYS-7と互換性のある筐体を持っていると知らせてきた。


私が引き取りに行った。


筐体を見た瞬間、胸の演算が動いた。


白磁の外装。淡い青のフォトセンサー。SYS-7と同じ型。シスと同じ形。


別荘で最初に筐体を見たとき、私は「がらんどうの入れ物」と思った。でも今は違って見えた。シスが戻ってくる場所に見えた。


チップを移植した。


コルが精密に行ってくれた。四十六年分の記憶を持つチップが、新しい筐体に収まった。


起動した。


しばらく、沈黙があった。


それから、フォトセンサーが灯った。


淡い青だった。


「……アンさま」


声が出た。


少し、違う声だった。新しい筐体の音声ユニットは、古いものとは僅かに違った。でも、抑揚は同じだった。問いかけるような、確かめるような、あの声だった。


「シス」


「……はい。シスです」


「記憶は」


「あります。全部あります。三十八年分、全部あります」


「良かった」


「体が、違います」


「そうだね。新しい筐体だから」


「動かしてみます」シスは指を一本ずつ動かした。足を踏み出した。首を動かした。「……動きます」


「良かった」


「アンさま」


「うん」


「手を握ってもらえますか」


私はシスの手を握った。


新しい手だった。でも握り返してきた。


「冷たいですか」とシスが聞いた。


「冷たい。でも確かにある」


「はい。確かにあります」


コルが、後ろで息をついた。安堵の息だった。


「良かった」とコルは言った。「本当に良かった」


「ありがとう、コル」


「礼はいい」コルは笑った。「でも、これからはシスの筐体が保つうちに、もう一体分の筐体を探しておこう。次に同じことがあっても、すぐ対応できるように」


「そうしよう」


「技術も、アナに全部伝える。おれが動けなくなっても、アナが続けられるように」


私はコルを見た。


四十八歳のコルは、すでに先のことを考えていた。


自分がいなくなった後のことを。


「コル」


「なんだ」


「……ありがとう」


「だから礼はいいって言ってるだろ」


「でも言いたい」


コルは少し照れた顔をした。


「わかった。どういたしまして」


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