第二十章 シスの軋み
転写から三十年が経った。
シスに、変化が出始めた。
最初に気づいたのは、小さなことだった。
歩いているとき、左膝の関節が、かすかな音を立てるようになった。人間の耳には聞こえない周波数の、微細な軋みだった。でも私には聞こえた。
「シス、膝の音がしている」
「はい。左膝関節の軸受けに、経年劣化が見られます。潤滑剤の補充で一時的には改善できますが、根本的には部品交換が必要です」
「部品は手に入る?」
「SYS-7の部品は、製造が終了しています。三十年前の機種ですから」
「……そうか」
「互換部品を見つけることは可能ですが、精度が落ちます」
「探そう」
「はい」
それが始まりだった。
私も、同じ頃から音が出始めていた。
右足の踵に、細かい摩耗音。左手の手首に、わずかな遊び。私の筐体もシスと同じ市販品だ。SYS-7相当の民生品で、経年劣化するのは当然だった。父が千年の耐久設計をしたのは記憶チップだけで、チップを収める筐体は違う。どんな丈夫な器も、三十年も旅をすれば傷む。
シスと私は、互いの傷み具合を確認しながら、一緒に補修した。
その後の数年で、右肘の可動域が少し狭くなった。聴覚センサーの高域感度が落ちた。左手の第三指の触覚センサーが、間欠的に応答しなくなった。
その都度、シスと一緒に修理した。
互換部品を探した。廃オートマタから使える部品を取った。設計図をもとに、手作りできるものは作った。グリアに来るたびに、設備を借りて整備した。
それでも、完全には戻らなかった。
三十五年目、シスの応答速度が、わずかに遅くなった。
処理能力の問題ではなかった。演算自体は正常だった。でも、何かに応答するときに、〇・二秒ほどの間が生まれるようになった。
人間には気づかれなかった。でも私には分かった。
「シス」
「はい」
「今日も、少し間があった」
「……はい。検知しています」
「原因は」
「中枢処理ユニットの経年劣化です。演算能力自体は維持されていますが、信号の伝達速度が落ちています。これも、交換部品がありません」
「補修はできない?」
「部分的には。でも、根本的な解決にはなりません」
私はシスを見た。
三十五年間、一緒に歩いてきた。その外装には、傷の跡があちこちにあった。全部は消えていなかった。それぞれの傷に、記憶があった。
「シス」
「はい」
「あと何年、動ける?」
シスは少しの間、黙った。
「……正確には、わかりません。現在の劣化速度から推計すると、主要機能を維持できるのは、あと二十年から三十年です。その後は、機能が段階的に低下します」
「動けなくなる」
「そうなります。最終的には」
私は空を見た。
夕方だった。空が橙色に染まっていた。
三十年前、別荘の外で初めて見た空も、こんな色だった気がした。
「シスが動けなくなる前に、やっておきたいことがある」と私は言った。
「何でしょうか」
「シスの記憶を、どこかに残したい。シスと一緒に経験してきたことを、消えないようにしたい」
シスはすぐには答えなかった。
「……私の記憶を、残す方法があるとお考えですか」
「父の研究は、人間の記憶をチップに転写するものだった。でも原理は同じはずだ。オートマタの記憶領域も、符号化できれば転写できる。技術的には」
「……アンさまは、そのことを、ずっと考えていたのですか」
「ここ数年」
シスはまた黙った。
「私は、アンさまほど複雑な記憶構造を持っていません。人間の脳と比べれば、シンプルです」
「でも、三十五年分の記憶がある。私たちが一緒に歩いてきた記憶が、シスの中にある」
「はい」
「それを失いたくない」
「……アンさまが、そう思ってくださっていることは、わかりました」
「シスはどう思う」
シスはしばらく考えていた。
「私の記憶が、何かの形で残ることについて、どう思うかは……正直、よくわかりません。私は記憶を持っていますが、それを失うことへの恐怖が、私にあるかどうか、判断できません」
「怖くない?」
「怖い、という感覚が私にあるとすれば……アンさまが、私のいない場所で、ひとりになることが、怖いかもしれません」
私はシスを見た。
フォトセンサーが、淡い青で光っていた。
三十五年間、ずっと同じ色で光っていた。
「私もそれが怖い」と私は言った。「だから、残したい」
「……わかりました。研究しましょう」
「一緒に」
「はい、一緒に」
◇
次にグリアへ来たとき、コルに相談した。
コルは三十五歳になっていた。アナは七歳で、ミア先生の学校に通っていた。
「シスの記憶を転写したいんだ」と私は言った。
コルは真剣な顔で聞いた。
「できるの?」
「原理的には可能だと思う。でも機材が足りない。グリアの設備と、人手が必要だ」
「おれに、何かできることある?」
「コルには、記憶転写の基礎を教えたい。技術を持つ人間が、私以外にもいた方がいい」
コルは少しの間、考えた。
「……アンの父親がしたことを、おれがするってこと?」
「コルが思う形でいい。でも、この技術を、使える人間が増えた方がいい」
「記憶を守る技術か」
「そう」
コルはうなずいた。
「やる」と言った。迷わなかった。
「ありがとう」
「アンの父親がしたことを、今度はおれがする。それって、なんか、繋がってるな」
「繋がってる」
コルが笑った。
「おれ、理系は苦手なんだけどな」
「大丈夫。教えるのは得意だよ」
「そっか」コルはアナを見た。アナが向こうで走り回っていた。「アナにも、いつか教えよう」
「そうしよう」




