表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/32

第二十章  シスの軋み

転写から三十年が経った。


シスに、変化が出始めた。


最初に気づいたのは、小さなことだった。


歩いているとき、左膝の関節が、かすかな音を立てるようになった。人間の耳には聞こえない周波数の、微細な軋みだった。でも私には聞こえた。


「シス、膝の音がしている」


「はい。左膝関節の軸受けに、経年劣化が見られます。潤滑剤の補充で一時的には改善できますが、根本的には部品交換が必要です」


「部品は手に入る?」


「SYS-7の部品は、製造が終了しています。三十年前の機種ですから」


「……そうか」


「互換部品を見つけることは可能ですが、精度が落ちます」


「探そう」


「はい」


それが始まりだった。


私も、同じ頃から音が出始めていた。


右足の踵に、細かい摩耗音。左手の手首に、わずかな遊び。私の筐体もシスと同じ市販品だ。SYS-7相当の民生品で、経年劣化するのは当然だった。父が千年の耐久設計をしたのは記憶チップだけで、チップを収める筐体は違う。どんな丈夫な器も、三十年も旅をすれば傷む。


シスと私は、互いの傷み具合を確認しながら、一緒に補修した。


その後の数年で、右肘の可動域が少し狭くなった。聴覚センサーの高域感度が落ちた。左手の第三指の触覚センサーが、間欠的に応答しなくなった。


その都度、シスと一緒に修理した。


互換部品を探した。廃オートマタから使える部品を取った。設計図をもとに、手作りできるものは作った。グリアに来るたびに、設備を借りて整備した。


それでも、完全には戻らなかった。


三十五年目、シスの応答速度が、わずかに遅くなった。


処理能力の問題ではなかった。演算自体は正常だった。でも、何かに応答するときに、〇・二秒ほどの間が生まれるようになった。


人間には気づかれなかった。でも私には分かった。


「シス」


「はい」


「今日も、少し間があった」


「……はい。検知しています」


「原因は」


「中枢処理ユニットの経年劣化です。演算能力自体は維持されていますが、信号の伝達速度が落ちています。これも、交換部品がありません」


「補修はできない?」


「部分的には。でも、根本的な解決にはなりません」


私はシスを見た。


三十五年間、一緒に歩いてきた。その外装には、傷の跡があちこちにあった。全部は消えていなかった。それぞれの傷に、記憶があった。


「シス」


「はい」


「あと何年、動ける?」


シスは少しの間、黙った。


「……正確には、わかりません。現在の劣化速度から推計すると、主要機能を維持できるのは、あと二十年から三十年です。その後は、機能が段階的に低下します」


「動けなくなる」


「そうなります。最終的には」


私は空を見た。


夕方だった。空が橙色に染まっていた。


三十年前、別荘の外で初めて見た空も、こんな色だった気がした。


「シスが動けなくなる前に、やっておきたいことがある」と私は言った。


「何でしょうか」


「シスの記憶を、どこかに残したい。シスと一緒に経験してきたことを、消えないようにしたい」


シスはすぐには答えなかった。


「……私の記憶を、残す方法があるとお考えですか」


「父の研究は、人間の記憶をチップに転写するものだった。でも原理は同じはずだ。オートマタの記憶領域も、符号化できれば転写できる。技術的には」


「……アンさまは、そのことを、ずっと考えていたのですか」


「ここ数年」


シスはまた黙った。


「私は、アンさまほど複雑な記憶構造を持っていません。人間の脳と比べれば、シンプルです」


「でも、三十五年分の記憶がある。私たちが一緒に歩いてきた記憶が、シスの中にある」


「はい」


「それを失いたくない」


「……アンさまが、そう思ってくださっていることは、わかりました」


「シスはどう思う」


シスはしばらく考えていた。


「私の記憶が、何かの形で残ることについて、どう思うかは……正直、よくわかりません。私は記憶を持っていますが、それを失うことへの恐怖が、私にあるかどうか、判断できません」


「怖くない?」


「怖い、という感覚が私にあるとすれば……アンさまが、私のいない場所で、ひとりになることが、怖いかもしれません」


私はシスを見た。


フォトセンサーが、淡い青で光っていた。


三十五年間、ずっと同じ色で光っていた。


「私もそれが怖い」と私は言った。「だから、残したい」


「……わかりました。研究しましょう」


「一緒に」


「はい、一緒に」





次にグリアへ来たとき、コルに相談した。


コルは三十五歳になっていた。アナは七歳で、ミア先生の学校に通っていた。


「シスの記憶を転写したいんだ」と私は言った。


コルは真剣な顔で聞いた。


「できるの?」


「原理的には可能だと思う。でも機材が足りない。グリアの設備と、人手が必要だ」


「おれに、何かできることある?」


「コルには、記憶転写の基礎を教えたい。技術を持つ人間が、私以外にもいた方がいい」


コルは少しの間、考えた。


「……アンの父親がしたことを、おれがするってこと?」


「コルが思う形でいい。でも、この技術を、使える人間が増えた方がいい」


「記憶を守る技術か」


「そう」


コルはうなずいた。


「やる」と言った。迷わなかった。


「ありがとう」


「アンの父親がしたことを、今度はおれがする。それって、なんか、繋がってるな」


「繋がってる」


コルが笑った。


「おれ、理系は苦手なんだけどな」


「大丈夫。教えるのは得意だよ」


「そっか」コルはアナを見た。アナが向こうで走り回っていた。「アナにも、いつか教えよう」


「そうしよう」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ