第十九章 コルの手紙
転写から二十年が経った。
コルは二十八歳になっていた。
グリアで農業をしながら、ルカの村との連絡役もしていた。ルカの妹エレナの家族が、数年前にグリアへ移ってきた。ルカ自身は、父親を看取った後、故郷の村に残ることを選んだ。年に一度、グリアへ来た。
コルは結婚していた。
グリアで出会った女性だった。ベアという名前で、南の国の出身だった。二年前に子供が生まれていた。女の子で、アナという名前だった。
私がグリアを訪ねたとき、コルはアナを抱いて出てきた。
「アン、見て。アナだ」
赤ん坊だった。丸い顔で、眠っていた。
「かわいいね」
「かわいいだろ。ベアに似てよかった」
「コルに似てても、かわいいよ」
「どうかな」コルは笑った。「アナにも、いつかアンの話をする。おれが八歳のとき助けてくれたオートマタの話を」
「覚えていてくれてるんだね」
「ずっと覚えてる。コルは、そういう記憶の持ち方をする人間だ」
自分のことを三人称で言った。
「珍しい言い方をするね」
「ダンさんがそう言ってた。おれのことを」
「ダンさん、元気?」
コルの顔が、少し曇った。
「……昨年から、体が悪い。心臓が弱くなってきたって」
「そうか」
「本人は、大丈夫だって言ってる。でも、歩くのが遅くなった」
「会いに行こうと思う」
「行ってやってくれ。ダンさん、アンのことをよく話してる。最近また話してた」
「何を」
「コルをヴァスタへ連れていったオートマタの話を、また聞かせてくれって、アナに言ってた。アナはまだ赤ん坊だから、わかるはずないのに」
私はアナを見た。
眠っていた。静かに、眠っていた。
「……伝えに行く。アナが大きくなったら、直接話せるように」
「うん。そうしてくれ」
コルは、アナの頭に頬を寄せた。
小さな命を、大切に抱えていた。
私はその姿を見て、何かが胸の演算の深いところで、長く揺れた。
コルが父親になっていた。
あの八歳の、怯えた目の子供が、今は子供を抱えていた。
「アン」とコルは言った。
「うん」
「アンがいてくれてよかった」
「……私も、コルがいてくれてよかった」
「おれは、普通の人間だよ。旅もしないし、千年も生きない」
「うん」
「でも、アンのことは、ずっと覚えてる。アナにも、アナの子供にも、話し続ける。アンがいたことを、伝え続ける」
私は何も言えなかった。
記憶が続く限り、人は続く。
父が言っていた言葉が、違う形で返ってきた気がした。
◇
その旅から帰った後、コルから手紙が来た。
通信ではなく、紙の手紙だった。封筒に入れて、連絡網を通じて届けてもらったらしかった。
開けると、便箋が三枚入っていた。コルの字だった。丁寧な字だった。ミア先生に習ったのだろう。
「アンへ
久しぶりに手紙を書く。通信だと、言いたいことがうまく言えないから。
アンに、おれの気持ちをちゃんと伝えたかった。
八歳のとき、おれはほとんど終わりかけていた。親とはぐれて、ダンさんと地下室にいて、毎日何も感じなかった。ダンさんは助けてくれていたけど、おれには先が見えなかった。
そこへアンが来た。
アンは、おれに先を見せてくれた。行く場所があると教えてくれた。おれのことを置いていかなかった。
その後、ヴァスタで地図を習って、グリアのことを聞いて、ダンさんと再会して、ベアと出会って、アナが生まれた。
全部、繋がっている。
アンがあの廃墟の路地で声をかけてくれたことから、全部始まった。
おれは普通の人間だから、いつか死ぬ。アンほど長くは生きられない。でも、おれが生きている間に会えた人たちのことを、アナに伝える。アナもいつか、自分の子供に伝えるだろう。
だから、アンのことは消えない。
おれが死んでも、アンのことは残る。
これは、おれからアンへの約束だ。
コルより」
私は手紙を三回読んだ。
四回目を読もうとして、読めなかった。
声にならなかった。涙も出なかった。この体には涙腺がない。
でも、演算が、完全に止まった。
何かを処理しようとして、処理できなかった。
「アンさま」とシスが言った。
「……うん」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
「はい」
「でも、大丈夫じゃないことが、大切なことだと思う」
「はい」
私は手紙を、丁寧に折りたたんだ。
封筒に戻した。
研究ノートの隣に、しまった。
父の「アンへ」という言葉の横に、コルの手紙を置いた。
どちらも、大切なものだった。




