第十六章 楢の木のもとへ
ルカの村を出て、私とシスはしばらく南へ歩き続けた。
新しい街を通った。新しい人に会った。
ある街では、廃墟の中に診療所を作っていた医師に会った。グリアの地図を渡した。
ある村では、農作物の種を守るために地下に隠れている家族に会った。ヴァスタに向かう道を教えた。
ある峠では、難民の一団と行き合った。三十人ほどで歩いていた。行く先が決まっていないと言った。グリアのことを話した。セリアの名前を出した。この円盤を見せれば、受け入れてもらえると言った。
老人に地図を渡すたびに、子供に道を教えるたびに、私は父のことを思った。
父は、私に千年の時間を与えてくれた。
その千年を、私はこうして使っている。
それでいい。
それがいい、と思っていた。
◇
南へ、また南へ歩いて、一ヶ月が過ぎた頃、シスが言った。
「アンさま」
「うん」
「少し、確認したいことがあります」
「なに」
「アンさまは、今どこへ向かいたいですか」
私は足を止めた。
「どういう意味?」
「方角として南へ向かっていますが、具体的な目的地が定まっていません。旅を続けるために、少し整理したいと思いました」
私は空を見た。
「……行きたいところが、ひとつある」
「どこですか」
「父の別荘」
シスが、少しだけ静止した。
「……別荘へ、ですか」
「うん。ずっと行きたかった。でも、なかなか言い出せなかった。楢の木のところへ、もう一度行きたい」
シスはしばらく何も言わなかった。
「……わかりました」とシスは言った。「方角を修正します。別荘は北東の方向になります」
「うん」
「歩いて、十日ほどかかります」
「うん」
私はまた歩き始めた。
今度は向きを変えて。
◇
十一日後、別荘が見えた。
石造りの古い建物。屋根が少し傾いていた。窓が一枚割れていた。でも、まだ立っていた。
庭に、木があった。
大きな楢の木が、春の光の中に立っていた。
葉が出ていた。青くて、やわらかい葉が、枝いっぱいに茂っていた。
私は庭に入った。
ゆっくりと歩いた。
楢の木に近づいた。
根元に、二つの盛り土があった。
冬を越えて、草が生えていた。小さな草が、盛り土の上をやわらかく覆っていた。
私はその前に立った。
「……来た」と私は言った。
風が吹いた。楢の木の葉が、さわさわと鳴った。
「南へ行ってきた。ダンさんに会った。コルに会った。ミア先生に会った。ルカさんに会った。いろんな人に会った。グリアのことを伝えてきた。みんな、生きていた」
葉が鳴り続けた。
「父さんの研究は、ちゃんと役に立ってる。私が動けることで、誰かが動いた。それって、父さんの研究がそうさせてくれてる」
私は、盛り土のそれぞれを見た。
「……お母さんのことは、まだ知らない。父さんに聞けなかったから。でも、父さんが覚えていた人のことを、私はずっと考え続ける。それだけは、できる」
風が止んだ。
それから、また吹いた。
今度は少し強い風で、葉が大きく揺れた。木全体が、ゆっくりと揺れた。
「父さん、私は元気だよ」
声が、少し震えた。機械の声が、震えた。
「体が変わって、景色が変わって、会う人が変わって。でも、私はずっとアンだよ。父さんの娘だよ。それだけは変わらない。千年たっても、変わらない」
楢の木が揺れていた。
葉の音が、長く続いた。
まるで何かを言っているようだった。言葉ではなかった。でも、何かを言っているようだった。
私はしばらく、その音を聞いていた。
シスが、私の隣に立っていた。
「シス」
「はい」
「ここに来てよかった」
「はい」
「また来よう。次に旅から帰ってきたときも」
「はい。必ず来ましょう」
「父さんに、話すことができる。旅の話を、ここへ来て話せる」
「はい」
「そうしよう。帰るたびに、ここへ来よう」
「わかりました」
私は、もう一度、二つの盛り土を見た。
父と、人間だった私と。
並んで眠っていた。
「また来る」と私は言った。「今度は、もっとたくさん話す。会った人の話を、全部話す」
楢の木が、最後にもう一度、大きく揺れた。
葉の音が、広がって、消えた。
風が、静かになった。
◇
別荘を出発したのは、翌朝だった。
地下の工具室を開けた。機材はまだあった。父の研究ノートも、棚にあった。
私は研究ノートを一冊手に取った。
父の字だった。
几帳面だが、急いで書いた跡のある字だった。数式と、図と、走り書きのメモが混じっていた。
ページをめくった。
ある頁に、こう書いてあった。
「記憶が連続しているなら、それは本人だ。
体が変わっても、時間が経っても、場所が変わっても。
記憶が繋がっている限り、同じ人間だ。
アンへ。」
私はそのページを、しばらく見ていた。
研究ノートの端に、父がそう書いていた。
論文の文体ではなかった。誰かに説明する文体でもなかった。
娘に向けて書いた言葉だった。
「シス」
「はい」
「父さんが、ここに書いてくれていた」
「……はい」
「知ってた?」
「いいえ。私も今初めて見ました」
私はそのページを、そっと閉じた。
研究ノートを持っていくことにした。荷物になっても、持っていくことにした。
別荘の外に出た。
楢の木が見えた。
朝の光が、葉の間から差していた。光が、草の上に点々と落ちていた。
美しかった。
この体で見る光は、人間の目よりも広い波長で見えた。でも、美しいと感じるのは、記憶の中にある感覚と同じだった。
美しいと感じる記憶が、ここにある。
だから美しかった。
「行こう、シス」
「はい」
「どこへ行く?」
「アンさまが決めてください」
「じゃあ、まだ行ったことのない場所へ」
「わかりました」
私たちは歩き出した。
楢の木が、後ろで揺れていた。
道が続いていた。
どこまでも続いていた。
世界はまだ戦争の中にあった。でも、グリアがあった。ダンがいた。コルがいた。ミア先生がいた。ルカがいた。ヘレナがいた。名前も知らない難民の一団がいた。
世界は、燃えてばかりじゃなかった。
私の名前はアン・クレイグ。
記憶転写の研究者の娘で、先天性ミトコンドリア機能不全症候群を持って生まれた人間で、今はオートマタの体に宿っている。
十五年間を生きて、その記憶を抱えて、千年の旅を続けている。
父の娘で、シスの友で、コルの友で、ダンの友で、ミアの友で、ルカの友で、この先に出会う全ての人の、まだ何者でもない。
歩いていく。
記憶を抱えて。
父が書いてくれた言葉を、胸に持って。
光の中へ。
どこまでも、光の中へ。




