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第十六章  楢の木のもとへ

ルカの村を出て、私とシスはしばらく南へ歩き続けた。


新しい街を通った。新しい人に会った。


ある街では、廃墟の中に診療所を作っていた医師に会った。グリアの地図を渡した。


ある村では、農作物の種を守るために地下に隠れている家族に会った。ヴァスタに向かう道を教えた。


ある峠では、難民の一団と行き合った。三十人ほどで歩いていた。行く先が決まっていないと言った。グリアのことを話した。セリアの名前を出した。この円盤を見せれば、受け入れてもらえると言った。


老人に地図を渡すたびに、子供に道を教えるたびに、私は父のことを思った。


父は、私に千年の時間を与えてくれた。


その千年を、私はこうして使っている。


それでいい。


それがいい、と思っていた。





南へ、また南へ歩いて、一ヶ月が過ぎた頃、シスが言った。


「アンさま」


「うん」


「少し、確認したいことがあります」


「なに」


「アンさまは、今どこへ向かいたいですか」


私は足を止めた。


「どういう意味?」


「方角として南へ向かっていますが、具体的な目的地が定まっていません。旅を続けるために、少し整理したいと思いました」


私は空を見た。


「……行きたいところが、ひとつある」


「どこですか」


「父の別荘」


シスが、少しだけ静止した。


「……別荘へ、ですか」


「うん。ずっと行きたかった。でも、なかなか言い出せなかった。楢の木のところへ、もう一度行きたい」


シスはしばらく何も言わなかった。


「……わかりました」とシスは言った。「方角を修正します。別荘は北東の方向になります」


「うん」


「歩いて、十日ほどかかります」


「うん」


私はまた歩き始めた。


今度は向きを変えて。





十一日後、別荘が見えた。


石造りの古い建物。屋根が少し傾いていた。窓が一枚割れていた。でも、まだ立っていた。


庭に、木があった。


大きな楢の木が、春の光の中に立っていた。


葉が出ていた。青くて、やわらかい葉が、枝いっぱいに茂っていた。


私は庭に入った。


ゆっくりと歩いた。


楢の木に近づいた。


根元に、二つの盛り土があった。


冬を越えて、草が生えていた。小さな草が、盛り土の上をやわらかく覆っていた。


私はその前に立った。


「……来た」と私は言った。


風が吹いた。楢の木の葉が、さわさわと鳴った。


「南へ行ってきた。ダンさんに会った。コルに会った。ミア先生に会った。ルカさんに会った。いろんな人に会った。グリアのことを伝えてきた。みんな、生きていた」


葉が鳴り続けた。


「父さんの研究は、ちゃんと役に立ってる。私が動けることで、誰かが動いた。それって、父さんの研究がそうさせてくれてる」


私は、盛り土のそれぞれを見た。


「……お母さんのことは、まだ知らない。父さんに聞けなかったから。でも、父さんが覚えていた人のことを、私はずっと考え続ける。それだけは、できる」


風が止んだ。


それから、また吹いた。


今度は少し強い風で、葉が大きく揺れた。木全体が、ゆっくりと揺れた。


「父さん、私は元気だよ」


声が、少し震えた。機械の声が、震えた。


「体が変わって、景色が変わって、会う人が変わって。でも、私はずっとアンだよ。父さんの娘だよ。それだけは変わらない。千年たっても、変わらない」


楢の木が揺れていた。


葉の音が、長く続いた。


まるで何かを言っているようだった。言葉ではなかった。でも、何かを言っているようだった。


私はしばらく、その音を聞いていた。


シスが、私の隣に立っていた。


「シス」


「はい」


「ここに来てよかった」


「はい」


「また来よう。次に旅から帰ってきたときも」


「はい。必ず来ましょう」


「父さんに、話すことができる。旅の話を、ここへ来て話せる」


「はい」


「そうしよう。帰るたびに、ここへ来よう」


「わかりました」


私は、もう一度、二つの盛り土を見た。


父と、人間だった私と。


並んで眠っていた。


「また来る」と私は言った。「今度は、もっとたくさん話す。会った人の話を、全部話す」


楢の木が、最後にもう一度、大きく揺れた。


葉の音が、広がって、消えた。


風が、静かになった。





別荘を出発したのは、翌朝だった。


地下の工具室を開けた。機材はまだあった。父の研究ノートも、棚にあった。


私は研究ノートを一冊手に取った。


父の字だった。


几帳面だが、急いで書いた跡のある字だった。数式と、図と、走り書きのメモが混じっていた。


ページをめくった。


ある頁に、こう書いてあった。


「記憶が連続しているなら、それは本人だ。

 体が変わっても、時間が経っても、場所が変わっても。

 記憶が繋がっている限り、同じ人間だ。

 アンへ。」


私はそのページを、しばらく見ていた。


研究ノートの端に、父がそう書いていた。


論文の文体ではなかった。誰かに説明する文体でもなかった。


娘に向けて書いた言葉だった。


「シス」


「はい」


「父さんが、ここに書いてくれていた」


「……はい」


「知ってた?」


「いいえ。私も今初めて見ました」


私はそのページを、そっと閉じた。


研究ノートを持っていくことにした。荷物になっても、持っていくことにした。


別荘の外に出た。


楢の木が見えた。


朝の光が、葉の間から差していた。光が、草の上に点々と落ちていた。


美しかった。


この体で見る光は、人間の目よりも広い波長で見えた。でも、美しいと感じるのは、記憶の中にある感覚と同じだった。


美しいと感じる記憶が、ここにある。


だから美しかった。


「行こう、シス」


「はい」


「どこへ行く?」


「アンさまが決めてください」


「じゃあ、まだ行ったことのない場所へ」


「わかりました」


私たちは歩き出した。


楢の木が、後ろで揺れていた。


道が続いていた。


どこまでも続いていた。


世界はまだ戦争の中にあった。でも、グリアがあった。ダンがいた。コルがいた。ミア先生がいた。ルカがいた。ヘレナがいた。名前も知らない難民の一団がいた。


世界は、燃えてばかりじゃなかった。


私の名前はアン・クレイグ。


記憶転写の研究者の娘で、先天性ミトコンドリア機能不全症候群を持って生まれた人間で、今はオートマタの体に宿っている。


十五年間を生きて、その記憶を抱えて、千年の旅を続けている。


父の娘で、シスの友で、コルの友で、ダンの友で、ミアの友で、ルカの友で、この先に出会う全ての人の、まだ何者でもない。


歩いていく。


記憶を抱えて。


父が書いてくれた言葉を、胸に持って。


光の中へ。


どこまでも、光の中へ。


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