第十一章 南への道
グリアを出て三日が過ぎた。
峠を越えると、空気が変わった。山の清潔な冷たさが薄れて、平野特有の重さが戻ってきた。焦げた土の匂いが、センサーに混じりはじめた。戦争の匂いだった。
「アンさま」とシスが言った。「前方二キロに、電波信号を検出しています」
「軍?」
「判断中です。周波数が不規則です。軍用の通信プロトコルとは異なります」
「民間人か」
「可能性が高い」
私たちは慎重に近づいた。
信号の発信源は、街道から外れた森の中にある、小さな小屋だった。木の壁が傾いていた。屋根の一部が抜けていた。でも煙突から、細く煙が出ていた。
シスが先行した。小屋の前で止まり、声をかけた。
「敵ではありません。通りすがりの者です」
しばらく沈黙があった。
それからドアが、ほんのわずかだけ開いた。
「オートマタか」と中から声がした。女の声だった。年配だった。
「はい。民間のオートマタです。軍とは無関係です」
「何人いる」
「二体です」
「人間は」
「いません」
またしばらく沈黙があった。それから、ドアがゆっくりと開いた。
老女だった。七十代か、もう少し上か。白髪を後ろでまとめていた。片手に、古い猟銃を持っていた。目が鋭かったが、怯えていた。
「どこから来た」とその老女は言った。
「北から。グリアという場所を知っていますか」
老女の目が、わずかに変わった。
「……知っている。噂で聞いたことがある。山の中の自治区だろう」
「そこから来ました。今は南へ向かっています」
「なぜ南へ戻る。北の方が安全だろう」
「南に残っている人に、北の話を届けたい。グリアのことを知らせたい」
老女は私をしばらく見た。猟銃の先が、少しずつ下がっていった。
「……中に入れ」と老女は言った。「茶くらいは出せる」
◇
老女の名前はヘレナといった。
戦前は、この街道沿いで宿屋を営んでいたらしい。戦争が始まって、客が来なくなった。息子は徴兵された。連絡が途絶えた。夫は二年前に病で亡くなった。今は一人でこの小屋にいた。
「宿屋は」と私は聞いた。
「焼けた」とヘレナは短く言った。
「そうですか」
「軍が来たわけじゃない。隣の建物が燃えて、もらい火だ。誰も悪くない。ただ、燃えた」
茶を飲みながら、ヘレナはそう言った。
「息子さんは」
「わからん。生きているかどうかも」ヘレナは茶を一口飲んだ。「わからんことは考えないようにしている。考えると夜に眠れない。だからわからんことはわからんままにしておく」
私はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
「グリアには、避難民を受け入れている」と私は言った。「山の中の集落で、三千人ほどが暮らしています。軍は来ていない。畑があって、水がある。安全な場所です」
「それは本当か」
「はい。私は六週間、そこにいました」
ヘレナは私を見た。
「オートマタが、六週間も一箇所にいたのか」
「医療の手伝いをしていました」
「お前は変わったオートマタだな」とヘレナは言った。
「よく言われます」
「……グリアへの道を、教えてもらえるか」
「はい」
私はシスに頼んで、紙に地図を書いてもらった。グリアへの道順、峠の場所、注意すべき軍の検問の位置、途中のヴァスタのこと。
ヘレナはその地図を、皺だらけの手で受け取った。
しばらく見ていた。
「息子が帰ってきたら」とヘレナは言った。「一緒にここを離れる」
「そうしてください」
「帰ってこなかったら」
「……それでも、行くことができます。ヴァスタに、ミアという先生がいます。その人を頼ってください」
「ミア」
「はい」
ヘレナは地図を折りたたんで、胸のポケットにしまった。
「茶のお代わりはいるか」と言った。
「いただきます」
◇
ヘレナの小屋を出てから、私はしばらく黙って歩いた。
シスも黙っていた。
一時間ほど歩いたところで、シスが言った。
「アンさま」
「うん」
「ヘレナさんの息子さんは、生存の可能性が低いと思われます」
「……知ってる」
「それでも、帰ってきたら一緒に行くと言っていた」
「知ってる」
「アンさまは、それについて何も言いませんでした」
「言えなかった」と私は言った。「言える言葉がなかった。帰ってこないかもしれないと言うことも、きっと帰ってきますと嘘をつくことも、どちらもできなかった」
「だから地図を渡した」
「……そう。地図を渡すことしかできなかった」
シスは少しの間、黙った。
「それで、十分だと思います」とシスは言った。
「そうかな」
「はい。できることをやりました。それ以上のことは、誰にもできません」
私は空を見た。
曇っていた。灰色の雲が広がっていた。
「父さんも、そうだったのかな」と私は言った。「私の病気に対して。できることをやって、でもできないことがあって。それでも、諦めなかった」
「そうだと思います」
「できないことがあっても、できることをやり続けた。それが父さんだった」
「はい」
「……私もそうしよう」
雲の切れ間から、薄い光が差した。
一瞬だけ、地面が白く輝いた。




