第十章 向こう側
グリアに、六週間いた。
その間に、いくつかのことをした。
まず、シスと一緒に集落の医療状況を調べた。簡単な診察と、シスの知識を使った処置が、多くの人の助けになった。特に子供の発熱と、農作業中の怪我が多かった。衛生状態の改善について、セリアと話し合った。
次に、ダンへ通信を送った。ヴァスタの場所、グリアの場所、道のりを伝えた。
ダンから返信が来た。
「ヴォルナには今、十九人がいる。少しずつ、動けるようになってきた。コルに連絡してくれ」
私はその返信を読んで、しばらく通信機器を握ったままでいた。
十九人。
まだここにいる。
コルへは別の周波数で連絡した。ヴァスタの集落が通信機器を持っていたからだ。
「ダンさんから連絡が来た。元気だって。もうすぐヴァスタに行けるって」
コルの声が、通信機器越しに聞こえた。
「ほんとに?」
「本当に」
「よかった……」コルの声が少し震えた。「ミア先生に話す。みんなに話す」
「うん。話して」
「アンは、まだグリアにいる?」
「あと少しで出発する」
「どこへ行くの」
「南へ戻る。ヴァスタへ、ヴォルナへ。グリアのことを伝えながら歩く」
「またヴォルナに来る?」
「来る」
「ダンさんに会える?」
「会いに行く。約束する」
「……うん」コルはまた少し間を置いた。「アン、ありがとう」
「コルが元気でいてくれてよかった」
「ぼくも、元気でいる。ちゃんと地図、読めるようになってきた」
「そうか。上手くなったら、自分で地図を書いて送ってくれよ」
「うん」とコルは笑って言った。声に笑いが混じっていた。「書く」
◇
出発の前日、セリアが私を呼んだ。
集落の奥、岩壁を背にした場所に、小さな部屋があった。セリアの部屋だった。
「お前がここに来て、変わったことがある」とセリアは言った。
「何でしょうか」
「人々が、南の話をするようになった。南に残っている人々のことを、もっと考えるようになった。お前が話す人物の話を、みんな聞いていた」
「……気づきませんでした」
「気づかなくていい。そういうものだ」
セリアは机の上から、小さなものを取り出した。
金属製の円盤だった。直径三センチほど。表面に、細かい模様が刻まれていた。
「グリアの証」とセリアは言った。「これを持つ者は、グリアの友人だ。道に迷ったとき、危険なとき、これを見せれば、グリアの人間は助ける」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。これを持つのに相応しい存在かどうか、私が判断した。それだけだ」
私は円盤を受け取った。
手のひらの上に、冷たい金属の感触があった。センサーが温度を計測した。この体になってから、受け取ったものの中で、初めて重さを感じるものだった。
物理的な重さではなかった。
「ひとつだけ、聞いていいか」とセリアが言った。
「はい」
「お前は、怖いか」
「何が、ですか」
「千年という時間を、生きていくことが」
私は少しの間、考えた。
「……はい。怖い部分があります」
「どういうところが」
「出会う人が、どんどんいなくなっていくことが、怖い。一緒にいた人が死んで、でも私だけ残り続けることが。今はシスがいるから大丈夫だけど、シスもいつかは」
「そうだな」とセリアは言った。「それは確かに、辛いことだろう」
「でも」と私は続けた。「怖いことと、やらないこととは別だと思っています。父が私に、諦めるなと言いました。今日を諦めるな、と。だから諦めない」
セリアはしばらく私を見ていた。
「いい父親だったようだな」
「はい」
「……いくつだ」と急にセリアが言った。
「え」
「お前は、いくつだ。人間だったときの年齢を聞いている」
「十五歳です」
セリアの目が、初めて、やわらかくなった。
「十五歳か」
「はい」
「十五歳で、よく戦ってきた」とセリアは言った。「研究を、逃亡を、父親の死を。そして旅を。よく、ここまで来た」
私は何も言えなかった。
「お前の父親が見ていたら、誇りに思うはずだ」
その言葉を聞いたとき、喉の奥で何かが詰まった気がした。この体に喉はない。でも詰まった気がした。声が出なかった。
「……ありがとうございます」
やっとそれだけ言った。
声が、わずかに震えていた。
◇
出発の朝、集落の人々が見送りに来た。
三千人全員ではなかったが、百人ほどが集まっていた。
私は正直に言えば、驚いた。六週間、この場所にいたが、これほど多くの人と話した覚えはなかった。でも、みんなの顔に見覚えがあった。診察した人、話をした人、食事を一緒にした人。
一人の子供が、私のところに来た。
八歳くらいの女の子だった。手に花を持っていた。山に生えている野花を摘んできたらしかった。小さな白い花だった。
「これ」と女の子は言った。「持っていって」
「ありがとう」
「南に行くんでしょ。お花を持ってたら、きっといいことがある気がする」
「そうかな」
「うん」と女の子は言った。真剣な顔で。「お守りみたいなもの。南は怖いところがいっぱいあるから」
「ありがとう」と私は言った。「大切にする」
花を受け取った。
白い花だった。
この体で見ると、花の反射光に微妙な紫外線の成分が含まれていた。人間の目には見えない模様が、花びらに浮かんでいた。虫を引き寄せるための模様だと、記憶の中の知識が教えた。
美しかった。
「行ってらっしゃい」とセリアが言った。
「行ってきます」と私は答えた。
見送りの人たちに、もう一度頭を下げた。
それから、シスと並んで歩き始めた。
◇
峠を越えて、南に向かう道を歩きながら、私はずっと考えていた。
父のことを。
父が私に教えてくれたことを。
記憶が連続しているなら、それはお前だ。
その言葉は正しかった。私は今でも私だ。十五歳で、先天性ミトコンドリア機能不全症候群を持って生まれた、エリック・クレイグの娘だ。それは変わらない。
でも、父が想定していなかったことも、起きた。
旅をすること。人と出会うこと。コルを見つけること。ダンの文字を見ること。ミア先生の声を聞くこと。ルカに道を教えてもらうこと。グリアで六週間過ごすこと。セリアに「よく戦ってきた」と言ってもらうこと。
父は私を生かすために研究した。でも私がどう生きるかは、私が決めた。
それでよかった、と思う。
「シス」
「はい」
「今、どんな計算をしてる?」
「南への最適ルートの算出と、アンさまの現在の状態モニタリングと、周辺の電波信号の確認です」
「そんなに同時に」
「並列処理です。問題ありません」
「私のことを心配してる計算も入ってる?」
シスが、少しだけ首をかしげた。
「……アンさまのモニタリングは、心配とは違います。でも、アンさまに何かあったとき対応するための、事前処理は走っています。それを心配と呼ぶなら、そうです」
「シスらしい答えだ」
「そうですか」
「うん」
私は前を向いた。
南の空が、明るかった。
まだ戦争はあった。まだ世界は燃えていた。でも、グリアが存在した。ダンが書いた文字が存在した。ミア先生の夜の学校が存在した。コルが笑顔になっていた。
世界は、燃えてばかりじゃなかった。
「シス、ひとつ聞いていい」
「はい」
「戦争は、いつか終わると思う?」
シスは少しの間、考えた。
「終わると思います」とシスは言った。「なぜなら、終わらない戦争は存在しないからです。歴史上、全ての戦争は終わっています。この戦争も、いつか終わります」
「それは、何年後?」
「わかりません。でも、終わります」
「私たちが生きているうちに?」
「……その可能性はあります」
「アンさまには千年あります」とシスは続けた。「終わる確率は、高いと思います」
私はその言葉を聞いて、少し笑った。
「論理的だね」
「はい」
「でも、なんか、安心した」
「それはよかったです」
道が、続いていた。
南へ向かう道が、長く続いていた。
私は歩いた。
シスが隣を歩いた。
白い花を、手の中に持ったまま歩いた。
父が作ってくれた体が、世界の道を踏んでいた。
どこかで鳥が鳴いていた。
空が、高かった。
私の名前はアン・クレイグ。十五歳。
記憶転写の研究者の娘で、先天性ミトコンドリア機能不全症候群を持って生まれた人間で、今はオートマタの体に宿っている。
父の娘で、シスの友で、コルのことを忘れない人間で、ダンとミア先生とルカとセリアと、名前も知らない赤い靴の子供のことを、ずっと考え続ける人間で。
この先、出会う全ての人の、まだ何者でもない。
歩いていく。
千年かけて。
記憶を抱えて。
光の中へ。




