序章 光と、閉じた世界
地下三十メートル。
コンクリートと鉛の壁に囲まれた研究室は、外の世界とほぼ断絶している。地上では第三次世界大戦が始まって七百日が過ぎた。核は、まだ使われていない。でも、もう時間の問題だという噂が、暗号化されたメッセージネットワークを通じて絶え間なく流れてくる。
私はそんな世界から切り離されて、毎日コードと脳波データと向き合っている。
それで構わなかった。この場所には、父がいる。シスがいる。そして、私が生きている理由がある。
◇
私の名前はアン・クレイグ。十五歳。
先天性ミトコンドリア機能不全症候群という疾患を抱えている。生まれつき細胞のエネルギー生産効率が著しく低く、心筋と神経系に慢性的な負荷がかかり続ける病気だ。幼い頃から入退院を繰り返してきた。六歳のときは二ヶ月入院した。九歳のときには一度、心停止に近い状態になった。
十一歳のとき、父に連れられて大きな病院へ行った。白衣の医師は分厚いカルテを見ながら、穏やかだが、淡々とした声で言った。
「アンさんは、おそらく二十代を迎えることが難しいでしょう」
その言葉を聞いたとき、私は何も感じなかった。正確には、何を感じていいのかわからなかった。自分が死ぬ、ということの意味が、十一歳の私にはまだ実感として届かなかった。病院の廊下はひどく白くて、ワックスがけされた床に蛍光灯が反射して、窓の外では雨が降っていた。それだけをよく覚えている。
父はその日、何も言わなかった。
診察室を出て、廊下を歩いて、病院の外に出て、駐車場に向かうあいだ、ずっと黙っていた。私の手を握っていた。父の手は大きくて、少し荒れていて、温かかった。その手が、私の手を包むようにして握っていた。ぎゅっと、力を込めて。
傘を差すのも忘れたまま、私たちは雨の中に立っていた。
それだけで、父が泣きそうになっているとわかった。振り返らなかった。振り返ったら、父が崩れてしまうかもしれないと思ったから。
「アン」
父が呼んだ。
「なに」
「ひとつだけ、約束してほしい」
「うん」
「どんなに体がつらくても、諦めるな。今日を諦めるな」
雨が強くなった。私の肩が濡れた。父の白髪交じりの髪も濡れた。でも父は傘を差さなかった。
「……うん」
それが、約束だった。
その三ヶ月後、父は研究の方向性を変えた。
記憶転写の研究を始めた。
◇
父がなぜそれほどまでに私を失うことを恐れているのか、私は長い間考えてきた。
もちろん、娘が死ぬかもしれないということへの恐怖は、親として当然のものだろう。でも父の恐れはそれとは少し違う、もっと深くて暗い場所から来ているように感じていた。
母のことがある。
母はアンナ・クレイグという人で、私が生まれてからほどなく、病気で亡くなった。私には母の記憶がない。写真でしか顔を知らない。茶色い瞳と、少し波打った髪と、細い指を持つ人だった。父の書斎の引き出しの奥に、母の写真が何枚か入っている。私が知っているのはそれだけだ。
父は母のことをほとんど話さなかった。
一度だけ、私が九歳のときに聞いたことがある。「お母さんってどんな人だったの」と。父は少しの間、答えなかった。それから短く、「とても、いい人だった」と言った。それだけだった。
母が亡くなったとき、父は三十二歳だったらしい。私は赤ん坊だった。父は赤ん坊を抱えて、ひとりになった。
それからずっと、父はひとりで私を育てた。
私が入院するたびに、父は仕事を休んで病院に来た。私が九歳のとき心停止に近い状態になったとき、父は廊下で倒れたと、あとから看護師に聞いた。失神したのだと思う。
父は二度、大切な人を失った。
母を失い、そして今度は娘が同じ運命にある。
父にとって、私は最後に残ったものだ。だから父は研究した。世界中の誰よりも必死に。眠る間も惜しんで。この手で、娘を死から救う方法を作るために。
私はそれを知っているから、諦められなかった。
父の努力を、無駄にしたくなかった。
◇
シスのことも、話しておかなければならない。
正式名称はSYS-7、第七世代汎用オートマタだ。家事補助と護身を兼ねた民生用機種で、父が私が五歳のときに購入した。
外見は私とほぼ同い年に見える。
身長百五十八センチ。白磁のような滑らかな外装。髪に見える部分は白銀のファイバーで、肩のあたりで切りそろえられている。目の部分は淡い青のフォトセンサーで、人間の目とほぼ同じ形状をしている。表情はほとんど動かない。でも、何かを伝えようとするときに、目がわずかに揺れる気がする。
父が少女型のモデルを選んだのは、私が孤独にならないようにと思ったからだと、後から聞いた。
「友達になれると思った」と父は言っていた。
「オートマタと友達になれるの」と私は返した。
「お前がそう決めれば、なれる」と父は言った。
その言葉通りになった。私とシスは友達だ。少なくとも私はそう思っている。シスも、たぶん、そう思っている。
シスは私の体調管理も担っている。服薬のタイミング、心拍数の監視、無理な作業の制止。父が設定したルールだ。ときどき鬱陶しいと感じることもある。でも、そのたびに、父がそこまで考えてくれているのだということを思い出す。
「アン、四チャンネルのゲインを落としてみろ。ノイズの帯域と被っている」
父の声がヘッドセット越しに届いた。私はキーボードを叩きながら、脳波計測ユニットの入力パラメータを修正する。モニターに広がる脳波グラフが、すこしだけ整った波形を見せる。
「落とした。三デシベル。波形、どう?」
「……悪くない。記録しろ」
「記録した」
父、エリック・クレイグ。神経工学と情報理論の双方を跨ぐ研究者で、十年前に"記憶転写"という概念を最初に論文で提唱した人物だ。当時は失笑された。「記憶は情報である」という前提が、神経科学者たちにはまだ受け入れられていなかった。
でも今は、世界が変わった。計算機科学が飛躍的に進歩し、神経細胞の発火パターンをリアルタイムで計測・解析できる機器が登場し、ニューロモルフィック半導体が実用化された。父の理論は少しずつ、現実の技術に追いつかれ始めていた。
そしていま、私たちは実証の瀬戸際にいる。
「シス、現在の室温は」
私が呼びかけると、部屋の奥から均整のとれた、でも静かな足音が近づいてきた。
「二十一度四分。湿度は四十七パーセント。計測機器の冷却システム、正常稼働中です、アンさま」
「ありがとう。お茶もらえる?」
「緑茶と紅茶、どちらになさいますか」
「緑茶で。薬も」
「十七時の服薬分、準備します。本日の心拍数ログ、確認してもよろしいですか」
「どうぞ」
シスは私の手首に小型センサーを当てた。三秒ほどデータを読み込んで、静かに言う。
「午前中の作業時間帯に、不整脈が三回検出されています。昨日より一回減少しましたが、疲労度は高い状態です。今夜は二十二時以降の作業はお控えください」
「……わかった」
「アンさま」
「わかったって言った」
「はい。失礼しました」
シスが調理スペースに消えていく。私は苦笑いをしながら、再びモニターに向き直った。
七百日間、私たちはこの地下で生きている。
食料は三ヶ月分の備蓄と、水耕栽培ユニットで賄っている。電力は地熱発電の小型ユニット。外部との通信は、階層化された暗号プロトコルを通じたメッセージネットワークだけ。地上がどうなっているかは、テキストデータとして流れてくる断片的な情報でしか知らない。
戦火が拡大している。
難民が増えている。
どこかの都市が陥落した。
そういった言葉が、毎日ネットワークに流れてくる。私はそれを読むたびに、すこし胸が重くなって、それからモニターに向き直る。できることをやるしかない、と自分に言い聞かせながら。
でも正直に言えば、外の世界よりも、自分の心臓の音のほうが気になることの方が多かった。夜、静かな実験室で作業していると、自分の胸の内側から聞こえる、少しだけ不規則な鼓動が耳に届く。
十五歳の体が、確実に老いていた。
長くない、と医者は言った。
ならば、急がなくてはならない。研究を完成させなければならない。それだけを、七百日間、思い続けてきた。




