9 光の下へ
アンジェリカのメモを見つけた、翌日。
夜の間、ルシルはずっとアンジェリカについて考えていた。
それはジークも同じようだった。朝、騎士団に出勤すると、ジークが神妙な顔で近付いてきた。
「少し話せないかな?」
ルシルは頷いて、席を立った。
ジークが向かったのは、騎士団本部の最上階――屋上だ。
ルシルにとっても覚えがある場所だった。この場でケイリーがザカイアを蘇らせようとして、ルシルたちは彼と対決した。
あの時は、不気味な闇が辺りを覆い尽くしていた。だけど、今は朝日が差しこみ、澄んだ空気が辺りを満たしている。
ジークは柵際まで歩み寄ると、ランドゥ・シティの街並みを見渡した。
「あれからアンジェリカのことを考えていた」
「私もよ。でも、ごめんなさい。どうしてもわからないの。アンジェリカがどうして私を選んだのか……」
ルシルは少し迷ってから、彼の隣に立つ。
「アンジェリカが君を蘇らせたのは、ロイスダールに命令されたからじゃない。アンジェリカの意志だった」
その声に力強い感情が宿っていることに気付いて、ルシルは横を向いた。
ジークはじっとルシルを見つめていた。
「アンジェリカは君を信じていた。そして、君にすべてを託したんだ」
「でも、私は稀代の悪女と呼ばれていたのに……」
「アンジェリカのメモに書いてあっただろ。君は、アンジェリカにとっての『希望』だった。君はきっと、アンジェリカに希望を見せてあげることができたんだろう。……俺にはできなかったことだ」
彼の瞳には、悔いるような色が浮かぶ。
「……俺はアンジェリカを笑顔にさせることは、一度もできなかった」
ジークは柵を強く握りしめた。
「俺は……アンジェリカを苦しめたロイスダールを許せない。あいつがまだ何か悪事を企んでいるのなら、それを食い止めたい。アンジェリカも同じことを願っていた。君にロイスダールとザカイアを止めてほしいと」
「私……わからないの……。私がこうして生きていられるのは、アンジェリカが自分の命を犠牲にしたから……。それが本当に正しいことだったのか……。私はアンジェリカの代わりに、こうして生きていてもいいの?」
「それなら、俺からお願いするよ。――君には、アンジェリカの代わりに生きてほしい。そして、彼女の最期の願いを叶えてあげてほしいんだ」
「ジーク……」
「俺もそのために生きたいと思う。これからはこの剣で君を守る。アンジェリカが希望を託した、君のことを」
「あなたはそれでいいの? だって、ジークはアンジェリカのことが……」
ジークはルシルから目を逸らし、遠い空を見上げる。
思いをこめた声で呟いた。
「――彼女のことは、大事に思っていたよ。家族のように」
ルシルは息を呑む。
咄嗟にごめんなさいと言おうとして、やめる。その言葉は、彼の決意を踏みにじることになる。
だから、代わりにこう言った。
「私も、アンジェリカの期待に応えたい。これからは私たち、戦友ね。『アンジェリカの願い』という旗を一緒に掲げるの」
「戦友か……。いいな、それ」
ジークはほほえんで、ルシルに手を差し出した。
「よろしく――ルシル」
その手をルシルは迷わず握りしめた。
(アンジェリカ……なぜ、あなたが私を選んだのかはわからない……。ロイスダールがどうして、私のことを『黄昏の子』と呼んでいたのかも……)
視線の先に、日の光が差しこむ。
輝くほどの陽射しは、街並みを柔らかく染め上げている。
(でも、アンジェリカが決死の思いで託してくれた、希望……。必ず、繋いでみせるわ)
『任せて』とルシルは胸中で呟いた。
――たった1人で父に抗い、巨悪へ挑んだ、勇気ある少女へ向けて。
その時、背後で物音がした。
振り返ると、レナードが立っていた。
「こんなところにいたのか」
「リオ」
「レナード」
ジークは茶目っ気をにじませ、肩をすくめる。
「彼女とは、ちょっと話していただけだよ。過保護な保護者さん」
「誰が保護者だ」
レナードはこちらへとやって来ると、欄干の向こうに広がる街を眺めた。
「アンジェリカのことを話していたのだろう。……俺も、あれから考えていた。それで、気付いたことがある」
風が流れ、ルシルの黒髪を揺らす。静かな空気が満ちる中、レナードは続けた。
「アンジェリカは、幼い頃からロイスダールに教育されていた。日誌を読む限り、洗脳に近い状態で育ったと見ていいだろう。だが、彼女は闇に染まらなかった。それはなぜだと思う」
そう言って、レナードはジークを見る。その眼差しで、ルシルも彼の意図を悟った。
「……ああ、なるほど。私も、わかる気がするわ」
ただ1人、話を理解できていないジークは戸惑いをにじませる。
「どうしてだ……?」
その問いに――レナードは珍しくほほ笑んだ。
穏やかで優しい笑みが、朝日によって照らされる。
「ジーク、君が彼女のそばにいたからだ」
「……俺が……?」
呆然と呟いてから、ジークは目を伏せた。
悔いるような声で言う。
「俺は、何にもしてないよ。ただの馬鹿で、考えなしで……アンジェリカの事情なんて何も知らず、能天気に遊びに誘ってただけだった」
「それでよかったんだ」
レナードは静かに言う。
「君は彼女を、あの薄暗い地下室から外へ連れ出した」
「そうね。光のあたる場所へ。あなたが彼女を導いたのよ」
3人は街へと視線を向けた。
陽光に包まれる屋根の群れ。大通りを行き交う人影。
爽やかな風が吹く中で――彼らは同じ思いを胸に抱いていた。
「……俺は、アンジェリカの役に立てたのかな」
「ああ」
「もちろんよ」
答えは重なり、揺るぎなく響く。
そのまましばらく、3人は並んで街を見渡していた。
川の向こう側から昇った太陽が、徐々に高度を上げていく。朝日が差しこむと、ビルの合間の濃い影は、ゆっくりとほどけていった。
3人で見下ろしたその光景は――夜の名残を押しのけて、新しい1日の始まりを告げていた。
◆ ◇ ◆
――この世には、何も楽しいことはない。
それをアンジェリカが悟ったのは、物心ついてすぐのことだった。
周囲の家庭を見れば見るほど、自分の家がいかに異質かを知った。
「ザカイア様は素晴らしい」
父は毎日のようにくり返した。
母の名より、アンジェリカの名よりも、父はザカイアの名を呼んだ。
ザカイア・キングストン。
父にとっては絶対にして唯一。
神に等しい存在だった。
彼のために生き、彼のために死ぬことこそ、至上の喜びだと信じこんでいた。
空虚なアンジェリカの心にも、その信条はするりと忍びこむ。
子供にとって、親は絶対だ。親の価値観が世界を構築する。
ザカイア様のために死ぬ――それはアンジェリカにとっても、唯一で絶対であった。
しかし、ある日から流れが変わった。
――こんこん、と扉が叩かれる音。
「こんにちはー! アンジェリカ、いますか?」
アンジェリカが扉を開けると、ジークが笑顔で立っていた。
背後にはきらきらと日差しが広がっている。
「アンジェリカ! 今日はみんなが川に釣りに行こうって! 君も来るだろう?」
長い間、父と2人きりの閉ざされた空間にいたアンジェリカには、その光はあまりにも眩しかった。
「――うん」
小さく答えて、ジークの下へと向かう。
闇に沈んでいた足を、光の中へと踏み出したのだった。
◆ ◇ ◆
見ていただきまして、ありがとうございます。
続きの更新は、来年を予定しています。
【次回予告】
「ルシル様なら、きっと……」
それは闇の中で育った少女の、淡い願いだった。
「アンジェリカ。あんたの固有呪文の意味は何なの?」
「……お砂糖いっぱいのミルク」
「何それ。やっぱり変な子ね、あんた」
悪女は馬鹿にしたように笑う。
そんな彼女の顔を、アンジェリカは静かに見つめていた。
第三部『師弟の絆』
2026年2月頃、更新予定です。





