7 本当に守りたかったもの
◆ ◇ ◆
ハザリー家の闇に……あの地下室の存在に気付いたのは、たまたまのことだった。
その日、ジークはアンジェリカを遊びに誘おうと家を訪ねた。
けれど、何度扉を叩いても返事はない。
不安になって中に入ると、中は無人だった。しかし、戸棚がわずかにずれて、その奥から何かが覗いていることに気付いた。棚を横にずらしてみると、そこには隠された扉が現れた。
ドアを開けてみる。その先は階段となっていて、下へと続いていた。
ジークが深い闇を見下ろした、その瞬間。
恐ろしいほどの音が響き渡った。
――キエエエアア!!
それが何の音であるかを理解する前に、激震が体全体に走った。恐怖で心臓がしぼられ、動けなくなる。
甲高い声はやがて、闇の中に溶けていくように消えて行った。次に訪れたのは、不気味なほどの静寂。
余韻すら残さない沈黙が、先ほどの悲鳴よりも恐ろしく思えた。まるで地下そのものが、息を潜めて彼を待ち構えているかのように。
ジークは震える体を抱え込むようにしながら、今の声を反芻していた。
――今のは……鳥の声……!?
その考えに辿りついた瞬間、昔の記憶が弾ける。
アンジェリカは、鳥の羽ばたく音に怯えていた……。
(アンジェリカ……!)
恐怖はまだ骨身に染みついている。
それでも、足は止められなかった。
あの日、アンジェリカがうずくまっていた光景。それがこの先の闇にもあるような――そんな思いにとりつかれる。それならば、進むしかない。
息を殺し、一段、一段と階段を踏みしめていく。
そして、その先の扉を開けた。
部屋を覗きこんだ瞬間――ジークは息を呑んだ。
「ああ、素晴らしい! また新しい呪いの発動に成功しましたね」
初めに目に飛び込んできたのは、ロイスダールの姿。頬を紅潮させ、恍惚とした様子を見せている。
彼の前にアンジェリカが立っていた。彼女は無機質な目で、床を見つめていた。
その先には――絶命した鳥が横たわっている。羽毛が飛び散り、床にはまだ新しい血がこびりついていた。その鳥がいかに苦しんだのか、それは死に顔が物語っている。
おぞましい光景を前にしても、アンジェリカは何も感じていない様子で棒立ちしていた。
「アンジェリカ……?」
思わず声が漏れる。
その声に反応したのはロイスダールだ。まずい、見つかった……と、ジークの全身からは冷や汗が吹き出す。
しかし、次の瞬間、ロイスダールは、ほがらかに口角を上げた。
まるで庭先で隣人に声をかける時のような笑みだった。しかし、この異様な光景の中で、その“日常の笑顔”こそがもっとも異常に見えた。
「やあ、ジークさん、いらっしゃい。しかし、家人に無断で中に入るとはずいぶんと無作法ですね」
アンジェリカがジークのことをじっと見つめている。
友人に会った時の気安さも、この異様な光景を友人に見られた気まずさも、彼女は持ち合わせていない。虚ろな視線で、何もない壁を見つめるように――彼女はただ、ジークを見ているだけだった。
ジークは思わず、彼女から視線を逸らす。
すると、鳥の死体を直視してしまい、吐き気がこみあげた。
「その鳥……死んでる……」
「これはね、魔法の練習ですよ」
「そんな魔法……! 違法じゃないですか!?」
「とんでもない。これは美しい魔法です。なぜなら、この魔法を作り出したのはこの世でもっとも偉大なるお方――ザカイア様なのですから」
高ぶった声が告げる。その熱気で、地下室の空気がくもりそうなほどだった。
ロイスダールが興奮した様子を見せるほど、ジークの頭は逆に冷静になっていく。
「アンジェリカに……そんな魔法を使わせているのか?」
「それが彼女の使命なのです。彼のお方にお仕えすることは、至高にして唯一の栄誉。その恩寵を授かれる私と彼女は、選ばれし者なのですよ」
「意味がわからない! アンジェリカは嫌がってるじゃないか!」
「嫌がる……? そんな凡俗な感情を、わが娘が持つとは信じがたいですね」
「アンジェリカは優しい子なんだ! だから、その音を聞きたくなかった。その可哀想な鳥たちが苦しむ音を……! 何で自分の娘のことなのに、そんなこともわかってあげられないんだよ!? あんた、それでも父親か!?」
ロイスダールの目を見て、ジークはぞっとした。ロイスダールは奇妙な生き物を見る眼差しで――どこか憐れみすら抱いた様子で、ジークを見つめている。
一瞬、正常なのは彼で、おかしいのは自分なのだろうか、と思ってしまったほどだった。
「いずれ命を落とすことが決まっている者のために、心を砕くのは無駄というものです」
「何言ってるんだよ……あんた……」
「アンジェリカはいずれ、ルシル様の代わりになる器です。そのために生き、そのために死ぬ」
それがさも当然のことのように、彼は語る。
ジークは愕然として、その場に立ち尽くした。彼にはきっと何を言っても無駄なのだろう、それがわかっていても、ジークの心は悲鳴のように異を唱えていた。
死ぬために生きるなんて――そんな価値観は、絶対に認められない。
「あんた……狂ってるよ……」
途端、ロイスダールの目元が暗くなる。やれやれと彼は首を振った。
「やはり、ザカイア様は正しかった……。世間はこのような愚民であふれている……今の世にこそ、世界を統べる真の支配者が必要なのです……」
ぶつぶつとわけのわからないことばかり言う彼に、ジークは恐怖で凍りつきそうになる。しかし、今は怖がっている場合じゃない。
――この薄暗い場所から一刻も早く、アンジェリカを連れ出さなくては。
「アンジェリカ!」
ジークは彼女の下に駆け寄って、手を差し出した。
「逃げよう! 俺と一緒にここから出るんだ!」
しかし、アンジェリカの反応は薄い。
彼女は空虚な瞳で、ジークを見返した。
「逃げる……? 何で……?」
「こんなのおかしいよ! 君だって死にたくないだろ!?」
「……私は、ルシル様のために死ぬの。それが私の役目だから」
ロイスダールと同様、それが当然のことだと信じて疑わない様子だった。
「ジーク、邪魔……。お願いだから、帰って……」
彼女の顔は変わらない。ずっと無表情のままだ。
その様子にジークは衝撃を受けた。
初めて会った時から、彼女のことを少し変わった子だと思っていた。
笑わない。悲しまない。怒らない。
彼女の心には何もないのだ。
その理由が今――初めてわかった気がする。
これは抗うことをやめて、すべてを諦めた虚無の顔だ。
感情も願いも欲求も、すべてが閉ざされている。
それに気付いた時、ジークの胸は痛んだ。鈍い刃が心を抉るように。
◆ ◇ ◆
それが10年前の出来事――地下室でジークが遭遇した、狂気だった。
なぜ、このことを忘れていたのだろう。
あの日の回想を経て、ジークの胸には熱いものがこみ上げた。
アンジェリカの『無』が、胸を締め付けるほどに痛ましかった。自分の命を捨てることが『正しい』と信じこまされている、そんな彼女の環境が悲しかった。
あの時、ジークはこう思ったのだ。
(ああ、そうだ……。俺はあの男から……! 悪い奴から、アンジェリカを守りたかったんだ……)
彼が敵視していたのは、たったの1人だけだった。
すべての元凶――ロイスダール。アンジェリカを苦しめていた張本人。
それなのに、敵が誰であったのかも忘れて、ただ闇雲にアンジェリカを守ろうとしていた。
もっと早く……地下室でのことを思い出していれば、アンジェリカが死ぬ前に、彼女を救い出せていたかもしれないのに。あの薄暗い空間から光の当たる場所に、彼女を連れ出していたかもしれないのに。
そんな自分が情けなくて、ふがいなくて、涙があふれてくる。自分の無能さに打ちのめされながら、ジークは泣いた。
◆
ジークが腕で顔を覆って、嗚咽を噛み殺している。
「ジーク……」
ルシルが何かを言おうとすると、それよりも早くレナードがルシルの肩を抱いた。強引に向きをかえさせて、ジークの姿をルシルに見せまいとする。
「……今はそっとしておいてやろう」
「うん……」
彼のことが心配だけど、確かに今はその方がいい。ルシルは頷いて、ジークに背を向けた。
少し離れた場所に移動すると、レナードが古びたノートをとり出した。
「地下室にあった日誌だ」
「それに、アンジェリカとジークのことが書かれていたのね」
「ああ。それと、君に関しても気になることが……」
レナードが何かを言いかけた瞬間。
日誌が突然、燃え上がった。
黒い炎――自然発生したものじゃない。
(魔法……!? どこから……!?)
ルシルは咄嗟に鎮火を試みる。しかし、ルシルの呪文よりも早く、黒炎は日誌全体を包みこみ、塵となった。
レナードもルシルも唖然として、日誌の残骸を見つめる。
「侵入者の気配を感じて、来てみれば……まさかあなたとは」
涼やかな声が、空からかけられた。
ルシルはそちらを見上げて、眼差しを鋭く細める。空中で箒にまたがっているのは、ロイスダールだった。
「あなた……生きていたのね」
元から彼にはいい感情を抱いていなかった。ジークとアンジェリカのことを知った今、憎悪の感情は更に燃え上がる。ルシルは刃のような鋭い視線を彼に叩きこんだ。
一方、ロイスダールの方も、瞳に灼けつくような敵意をたぎらせている。
「ああ、未だに信じられない……!」
全身を震わせながら、彼は怨嗟の言葉を吐きつけてきた。
「まさか、あなたたちがザカイア様を裏切っていようとは……!」
「お生憎様。初めからよ。一度だって、私はザカイアもあなたのことも信頼したことなんてないわ」
「なんと愚かで信じがたいことか……! あれだけザカイア様からの寵愛を受けながらも、偉大なる御仁に背を向けるとは。万死に値する愚行だ!!」
その瞬間、疾風のようにロイスダールに人影が突進した。
ジークだ。彼は箒の上で剣を構えている。
「ロイスダール……! お前のせいで、アンジェリカは……!」
渾身の一振りを、ロイスダールは軽やかな箒さばきで避ける。そして、見下したような視線をジークに向けた。
「肉壁の分際で、まだ壊れていないとは……運がよかったようですね、小僧」
彼の意識がジークに集中している。
――チャンスは今しかない。
ルシルとレナードはすかさず構えをとった。だが、それを制するようにロイスダールが呪文を詠唱した。
「――アモル・ノクス」
「ぐっ……!」
彼の手から闇が伸びている。その闇がジークの体に巻きついて、彼を拘束した。
「動かないでくださいよ、愚かな裏切り者」
「汚いわよ、ロイスダール……! 私が憎いんでしょう? 私を殺したいのなら、私を狙いなさい!」
「あなたを粛清したいのはやまやまですが、今はその時ではない」
彼はもう一度、高らかに呪文を唱えた。
ロイスダールの姿は、陽炎のように揺らめていく。
「ルシル・リーヴィス……あのお方を裏切った報いは、必ず受けさせます」
最後にそう言い残して、彼の姿は完全に消えた。
同時にジークを拘束していた闇が溶けていく。ジークは少しだけよろめいたが、すぐに持ち直して、辺りを見渡した。
ルシルとレナードも必死で空を見上げる。
しかし――彼の気配は、もうどこにも見つからなかった。





