4 盾の妄執
「タナト・フェロウ――!」
落ちながら唱えた呪文が、手元に箒を出現させる。空中でくるりと姿勢を変えると、次の瞬間、ルシルは箒に横向きで座っていた。
まるで落下など初めから存在しなかったかのように――。
髪先がふわりと広がってから、柔らかく落ちる。落下によって生じた風すらも、彼女を飾り立てるドレスのように。優雅で余裕めいた飛行だった。
ジークの箒がルシルを追ってきて、正面に浮かぶ。
「本当にお前は、アンジェリカじゃないんだな」
「……そうよ」
ルシルは暗い感情を湛えて、そっと笑った。
「私は、あなたをずっと騙していたの」
言いながら、ルシルはレナードに目くばせする。レナードは何か言いたそうな表情をしていたが、ぐっと言葉を呑みこんだ。すぐさま箒を翻して、小屋へと向かう。
それを確認すると、ルシルはジークを見ながら冷笑した。
「騙されていた気分はどう?」
彼の心を揺さぶるために、敢えて挑発してみる。前世時代の悪女を思わせる態度だった。
しかし、それでもジークは反応しない。
その目は未だに、何の感情も映していなかった。
ルシルは『自分がアンジェリカでない』ということを彼に告げなかった。そうしなければいけない事情があったとしても、彼に嘘をついていたことは事実だ。
騙されていたことを知れば誰だって、怒り、悲しむはず。もしくは、ルシルを強く憎むかもしれない。
だが、今のジークはどの感情も宿していない。
彼の瞳の奥にたぎるもの――それは、鎖のような使命感だった。がんじがらめになって、身動きがとれない。他のものが入りこむ隙間がなくなってしまっている。
「あの地下室に入って、思い出したことがある」
感情をそぎ落とした、とても彼とは思えない声でジークは話した。
「レナードの言っていた通りだ。アンジェリカは自分で闇魔法を使って、お前を蘇らせた」
「ジーク……?」
「ロイスダールがそうするようにアンジェリカに命じたんだ。あの男は初めからそのつもりだった。そのために、自分の娘を育てていた」
「あなた……知っていたの?」
「あの時、ロイスダールに聞かされたんだ」
「“あの時”? それって、あの地下室で……?」
ジークは何も言わずに、剣の切っ先をルシルへと向ける。
冷徹な銀光に押され、ルシルは後ずさった。
「……剣を下ろして、ジーク。私、あなたとは戦いたくない」
「それはできない。俺はアンジェリカを守る。アンジェリカを守るために、俺はお前を殺す」
「私を殺したら、アンジェリカの体まで失われてしまうわ」
「お前はアンジェリカの中に入った“悪い奴”だ。だから、俺はお前を殺して、アンジェリカを守る」
彼のセリフは、論理が破綻している。
アンジェリカの体が壊れたら、アンジェリカを守ることはできない。
更に、こんな状況にも関わらず、ジークの理解は正確だった。『アンジェリカが自らの意志でルシルを蘇らせた』ことも把握している。
その事実を認められずに否定するというのならわかる。だが、ジークはそれを受け入れた上で、『アンジェリカを守るために』ルシルを敵と認定している。
(ジークは……アンジェリカを守ることに固執している。まるで、誰かにそう命令を下されたロボットのように……)
その守る対象がいなくても、命令を忠実に遂行する。エラーを見逃して、命令だけが最優先事項として実行されているような状態だ。
(ジークはさっき、地下室で言っていた。俺はあの時、『盾』になった……って)
その時、嫌な想像がルシルの頭に閃いた。
「――アンジェリカは昔から、私の『器』となることが決まっていたみたいね。そして、ジーク。あなたはアンジェリカの『盾』だった」
「そうだ。俺はアンジェリカの盾となり、彼女を守る」
彼の言葉の意味を、ルシルはようやく理解した。
(盾……それは比喩じゃなくて、実際の話なのね。ロイスダールはアンジェリカの盾となるように、ジークに呪いをかけたんだわ)
おそらく、ジークがアンジェリカを守りたいという気持ちは、元から彼の中にあったものだ。その気持ちが増幅させられて、歪んでいるのだろう。
アンジェリカを守る。いざとなれば、自分の身を犠牲にしてでも彼女を守る。その呪縛が常に最優先され、それ以外はどうでもよくなる。アンジェリカ本人がいなくなった今でも、その思いがジークを支配している。
ルシルはジークから目を離さないようにしながら、ゆっくりと箒を後退させる。
「ジーク……、あなたは呪われてる」
「呪いだって……? この気持ちは本物だ。俺はアンジェリカを守りたかった……。彼女を傷つける、“悪い奴”から」
「“悪い奴”って……!?」
「今は、お前のことだ!」
ジークの箒が、弾みをつけるようにわずかに下がる。
次の瞬間、弾丸のような早さでルシルの下へと迫った。彼は迷いなく剣を振りかぶる。ルシルは箒を上昇させ、回避を試みた。
剣筋は完全に見切っていた――はずなのに、こちらの想像を超えて、剣閃が大きくうなる。ルシルの目には、彼の剣が突然、ぐんと伸びたかのように見えた。
刃がルシルの腹部をとらえそうになった、直前で。
「タナト・フェロウ!」
間一髪、ルシルは防御魔法を詠唱した。
きん……! 防御癖に剣が弾かれる。
その隙にルシルは箒を飛ばして、ジークから距離をとる。
彼を視界にとらえると、なぜジークの剣筋を見誤ったのか、その理由がわかった。
(箒の上で立ってる……!? どんな運動神経よ!!)
ルシルに接近したその一瞬、ジークはまるで肉食獣のように跳ねたのだ。箒にまたがっている姿勢では、腕の可動域はたかが知れている。その目算があだとなった。
箒の上という不安定な場所でジャンプし、均衡を崩さぬまま着地できるなんて。サーカスの空中ショーも真っ青の曲芸だ。
(ジークは自分のことを、魔導士として、落ちこぼれすれすれって言ってたけど……とんでもないわ)
むしろ、下手な魔導士を相手にするより厄介だ。
通常、魔法は遠距離から撃つものだ。そのため、魔導士の身体能力はそれほど高くないのが一般的だ。
だが、ジークには他の魔導士とは異なる、大きな武器がある。達人に匹敵するほどの剣さばき、空中であろうと自在に動ける身体能力。
魔法ではないためにルシルの知識は役に立たず、動きの予測がつかない。少しでも判断が遅れれば、詠唱をする前に剣で斬られてしまう。
(……空中で戦うのは、不利。かといって、私が箒から降りれば、一方的に空中から襲われるだけだわ)
ルシルは素早く周囲に視線を走らせる。視界の下が、ちょうどいい隠れ蓑を捕らえる。
その間にジークの箒が旋回し、またルシルへと接近してきた。
――考えている余裕はない!
ルシルは箒の高度を一気に下げる。
崖の壁に沿って、垂直に近い角度で落ちていった。





