1 アンジェリカの闇
――アンジェリカ・ハザリー。
最近、ルシルの頭は、彼女のことで占められている。
この体の持ち主。闇纏いの少女。ロイスダールの娘。そして、甘いものが好き。
ルシルが彼女について知っていることは、それくらいだ。
だけど、ジークと接するうちに少しずつ、影に覆われていた彼女の一面が露わになってきた。
(ジークは『芯が強くて、正義感が強い』って言っていたけど……)
朝日が室内を照らし出している。
――出勤前の早朝だ。
3人で遊園地に行った翌日である。
ルシルは昨日のことを思い出す。観覧車から降りた後、ジークは少し様子がおかしかった。レナードと合流できたのに、心ここにあらずといった感じで、急に『用事を思い出した』と帰ってしまった。その間、彼はルシルのことを見ようとしなかった。
――どうしたのだろう。
――彼は何かに気付いてしまったのか。
そのことがずっと気にかかって、朝から気だるい。
アンジェリカのことを考えると、胃のあたりがずっしりと重くなった。
ルシルはダイニングテーブルに頬をつけ、物思いにふけっていた。
ずっとザカイアの側近をしていたから、闇纏いについては誰よりも詳しい。
闇纏いには2種類の人間がいる。
自身の欲望のままに生きるタイプと、内に狂気を抱えつつも巧妙に隠すタイプだ。後者の場合、魅力的な仮面で自身を偽り、社会に自然と溶けこんでいる。
ロイスダールとザカイアはそちら側の人間だった。
もしアンジェリカもそのタイプであったのなら……ジークがその正体に気付かなかったのも、無理はないだろう。
アンジェリカがザカイアに忠誠を誓っていたのは、間違いない。彼女は自分の命を犠牲にしてまで、ザカイアのためにルシルを蘇らせたのだ。
だから、今、ルシルはこうして生を得ることができた。
闇魔法には、いくつかのルールがある。
そのうちの1つ――生贄として使ったものは、いかなる方法でも、とり戻すことはできない。アンジェリカはルシルのために生贄となった。その命はもう二度と戻ってこない。そのことをアンジェリカも知っていたはずだ。
(その覚悟をもってしてまで……彼女は私を復活させたのよね。すべてはザカイアのために……)
つまり、彼女は狂信的なザカイア信者であり、生粋の闇纏いだった。
ルシルはテーブルの上でぐったりとしながら、視線を瓶に寄せる。きらきら。朝日を浴びて、瓶の中は輝いていた。
それはアンジェリカが遺した物の1つだった。
ルシルがアンジェリカとして蘇った時、驚いたのは冷蔵庫の中身だった。
甘い飲み物や、お菓子ばっかり入っていたからだ。食べ物を粗末にするのは主義に反するので、ルシルは顔をしかめながら、ほとんどを消費した。
そして、残ったのは、この1瓶――琥珀糖だけだった。
初めて見た時、まるで宝石みたいだと思った。
瓶の中には、小さなゼリーのような物がたくさん詰まっている。淡い水色や、琥珀色、黄金色……様々な色が、光を透かして揺れる。
一口食べ、その甘さにルシルはげんなりとした。調べてみると、これが琥珀糖という異国のお菓子であること、長期保存が可能であることが判明した。
だから、今もまだ、冷蔵庫の中に置いたままになっている。アンジェリカのことを考えていた時、この瓶のことも同時に思い出したので、ルシルはテーブルへと持ってきた。
――このキラキラとした色を、眺めるのは好き。
しばらく瓶を見つめていると、透明感のあるきらめきが、ジークの笑顔と重なった。
ジークは純粋だ。
アンジェリカのことを善と信じて、慕っている。
(ジークに私の正体がバレることはもちろん……アンジェリカが闇纏いだったって、彼に知られてしまうことも、つらいわね)
そうなれば、彼の笑顔は一気に曇るだろう。
その時のことを想像して、ルシルは目を伏せた。
◇
ジークの様子がおかしいことに気付いたのは、出勤後すぐのことだった。いつもであれば、彼は用事がなくてもルシルのそばによってきて、あれこれ話しかけてくる。
しかし、今日はこちらを一目窺ったきり、ルシルからは顔を逸らしてしまった。
昼休みの時間になり、違和感は更に強くなった。
気が付けば、ジークが部署内から消えていたのだ。同僚に聞けば、「昼食に行ってきます」と周囲に声をかけ、外に行ったという。
最近は3人でベラの店に行くのがお決まりとなっていたのに……。ルシルにはひと声もかけてくれなかった。
途方に暮れていると、離れた席にいるレナードと目が合う。彼も訝しげに眉をひそめていた。
その後、2人は会議室に場所を移して、顔を合わせる。
「ジークのことだけど……」
「……ああ」
レナードも察したように頷く。
「昨日までは、あれほどまで君に付きまとっていたのに」
「思えば、昨日、観覧車を降りたあたりから、様子がおかしかった……。もしかして、何かに気付いたのかな……」
「君がアンジェリカでないことに? 心当たりは?」
「……わからない」
ルシルはため息をついて、小さく首を振る。
「でも……やっぱり、はじめから無理があったんだと思う。私がアンジェリカから受け継いだのは、この見た目だけよ。私はどうしたって、アンジェリカにはなれないわ」
レナードの冷静な瞳に、わずかな影がかかる。
重苦しい沈黙が両者の間に流れた。
胸の内にざらざらとした不安を宿したまま、その日の仕事を終える。
退勤しようとした2人に、ジークが近付いてきて、こう言った。
「あのさ……少し話したいことがあるんだ。次の休み、俺に付き合ってくれないかな?」
◇
グレイヴンの谷――ランドゥ・シティから、電車で3時間はかかる距離にある。
しかし、箒に乗った3人であれば、1時間もかからなかった。
そこは都会とは異なる、のどかな田舎だった。
背の高い建物は1つもなく、見渡す限り、牧草地や森が広がっている。ジークが箒で向かったのは崖の上だった。
崖の縁に、ぽつんと古びた小屋が佇んでいる。他の民家からは離れた場所に建っているので、物寂しげな雰囲気だった。
小屋のすぐ下は、切り立った断崖絶壁となっている。
ジークは無言で扉に手をかけ、中へと入っていった。
「え、勝手に入っていいの?」
ルシルは彼の背に問いかける。ジークは振り返らずに答えた。
「昔、アンジェリカとロイスダールさんが住んでいた家だよ。今は空き家になってる」
ルシルとレナードは顔を見合わせる。誰に言うでもなく「お邪魔します」と告げながら、中へと入った。
室内は埃だらけで、長い間、手入れされていないことが窺える。まだ家具や生活用品が残っていた。まるで住んでいる人間だけがある日突然、消えてしまったかのような――そんな不気味な雰囲気だ。
入ってすぐのところはリビングとなっている。
中央にリビングテーブル、棚には食器が並んでいた。空気はひんやりと冷たい。
「ロイスダールさんは、家に子供をいれたくなかったみたいで……俺はあまりこの家に入ったことはなかった」
ジークはそう言いながら、懐かしそうに目を細める。
「俺はアンジェリカと遊びたくて、よく彼女を誘いにこの家の前まで来たよ。彼女はいつも、何を考えているかわからなかった。全然笑ってくれなかったし、楽しいとも迷惑だとも言わなかった。ただ黙って、俺の後をついてくるだけだ」
ルシルは静かに目を伏せた。
アンジェリカの子供の頃の話をされると、胸が痛む。彼女を身近に感じてしまうから。そして、彼女はもうこの世にいないのだという事実を突き付けられるからだ。
「一度、俺が川で足を滑らせて、溺れかけたことがあってさ……。その時もアンジェリカは顔色1つ変えなかった。それでも、彼女は俺が川に流されないように、ずっと俺の服をつかんで離さなかった」
静かに聞いていたレナードが、そこで息を呑む。
ルシルも気付いた。
ジークが先ほどから、『アンジェリカ』『彼女』と言っていることに。
『君』という言葉を使わない。つまり、これはルシル――アンジェリカに向かって、思い出話をしているわけではない。
途端、辺りには張り詰めた緊張が走る。
「そういうことを……君は、まったく覚えていないんだろう」
「……ええ」
「そうだよな。わからなくて当然だ」
ジークがゆっくりと振り返った。
彼は悲しそうに笑っていた。
「なあ……本当のことを教えてくれ。あんたは、アンジェリカじゃない。いったい誰なんだ」





