2 アンジェリカの遺志
――数日後の夜。
ルシルは、静かな上空を箒で飛んでいた。少し離れたところを、レナードとジークが飛んでいる。退勤時間が重なったので、一緒に帰路についたのだ。
騎士団本部から飛び立って、ルシルたちは川沿いの上を進んでいた。
街の灯りが、川面に揺らめいている。
ランドゥ・シティの川を挟んで北側は、高層ビルが林立するエリアだ。大小様々なビルが並んでいる。そのビル群を超えた先に、鮮やかな屋根の群れが見えてきた。
都市部に位置する遊園地、『ランドゥ・ファンタジア』だ。
色鮮やかな屋根がパッチワークのように広がる。
ジェットコースターのレールが敷地をぐるりと囲って、ダイナミックにうねっている。時折、車両が通過すると、楽しそうな歓声が響いた。
キラキラと回っているのは、メリーゴーランドだ。鮮やかな光が回転する馬たちを包みこみ、幻想的な世界を紡いでいた。
遊園地の中でも、一際目立つアトラクションがある。
それが観覧車だ。
夜空を背にゆっくりと輪が回っている。その堂々たる巨影は、地上にいる人はもちろん、空を飛んでいるルシルたちの視線も惹きつけていた。
「『ランドゥ・ファンタジア』の観覧車……」
ジークが感慨深そうな声で、ぽつりと漏らした。箒のスピードを上げると、ルシルの隣に並ぶ。
「そういえば、前にアンジェリカ、あれに乗りたいって言ってたよな」
「そうなの?」
「夜になると、光魔法のイルミネーションをやってるだろ」
そう言って、ジークは観覧車を指さす。
観覧車の周囲には、光が浮かんでいた。ペガサスの形となって、観覧車の周囲を軽やかに駆けていく。ペガサスが通った跡には星が生まれ、まるでミルキーウェイのような幻想的な光景だった。
光魔法によって作られるイルミネーションだ。毎年、異なったテーマで凝った演出がされるので、話題になっていた。
「あれを間近で見たいって、学生時代に言ってたよ」
「……そっか」
ルシルはその光を見つめながら、生前のアンジェリカに思いを馳せた。
アンジェリカの正体は闇纏いだ。しかし、そんな彼女にも、遊園地の観覧車に憧れるような可愛らしい時期があったのかもしれない。
そう思うと、アンジェリカにぐっと親近感が湧いた。
「なあ、次の休み、一緒に見に行かないか?」
「え……? それって、2人で?」
「…………だめ?」
ジークの子犬のような懇願の目に、ルシルは答えに詰まった。
すると、レナードの箒がすっと2人の間に割りこんできた。
「2人きりは反対だ」
「ちょ……何なんだよ、あんた。アンジェリカの保護者か?」
「保護者ではないが、彼女は俺のパートナーだ」
「仕事のね!?」
ルシルは慌ててツッコんだ。それに構わず、レナードは冷静に続ける。
「どうしても行きたいのなら、俺も一緒に行く」
「ふーん? ま、いいけどさ」
ジークは一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに表情を切り替えた。
弾けんばかりの笑顔を浮かべ、
「じゃ、3人で一緒に行こうぜ」
ルシルは思わず目を見開く。
(え……えええ……?)
その後、ルシルが駆けこんだのはベラのカフェだった。
「どうしよう!?」
閉店後のカフェ・ローワンはとても居心地がいい。
このままここに住み着きたいくらいだ。いつも長時間、居座ろうとした挙句、ベラに「早く帰りなさい! 明日も朝、早いんでしょう!?」と、母親のごとく怒られてしまうのがお決まりとなっていた。
ルシルはベラのコーヒーを片手に、さっそく相談をしていた。ベラは真剣にうんうんと聞いてくれる。その隣で、娘のマリサが両手で、ホットミルクをこくこくと飲んでいた。
すべてを聞き終えると、ベラは訳知り顔で頷いた。
「……三角関係も大変ね」
「ちょ、ちょっとベラ!!」
――そういう話じゃない!!
ルシルは真っ赤になって、喚いた。
しかし、ベラは冷静にルシルを見つめている。一児の母なだけあって、やたらと貫禄と説得力がある雰囲気だった。
「ルシルには、レナードさんがいるじゃない? それなのに、ジークさんと2人きりでデートなんかしたら、浮気よ。浮気。ことの重大さがわかる?」
「私、そんなつもりじゃ……!? というか、デートじゃないでしょ!?」
「うわきだー。いしゃりょう、とられちゃうね」
「マリサちゃんまで何言ってるの!?」
「レナードさんからしたら、ルシルを他の男と2人きりで行かせるわけにはいかないものね。まあ、そうなるんじゃない?」
「えー、2人のおとこを、てだまにとってるの? ルシルちゃん、すごいね!」
「マリサちゃん!? っていうか、こんな話、マリサちゃんに聞かせてよかったの!?」
「5歳児を舐めない方がいいわよ。保育園の先生が合コンに行く日まで見抜いてるから、この子」
「観察眼の発揮と知識がすごい!! って、そうじゃなくて……」
ルシルはコーヒーを口に含んで、一息ついた。
「ジークとのことは、そういう単純な問題じゃないと思うんだけど……。そもそも私はアンジェリカじゃないんだし」
「まあ、そうよねえ。そこは正直、複雑だわ。ジークさんが好きなのはアンジェリカであって、あなたじゃないんだしね。かといって、自分の正体をバラすわけにもいかない……」
「こんなことになるなら……私としては、もういっそのこと、すべてを正直に話した方がいいんじゃないかなって思うんだけど……」
「それは、やめた方がいいんじゃない?」
ベラが静かだが、きっぱりとした口調で言う。
「秘密を明かすタイミングって、決まってるの。最初か、バレた時か――どっちかよ。隠すって決めたなら、最後まで隠し通すの。中途半端なのが一番だめ」
「ううう……ものすごい説得力……。ベラ、すごいね……」
「まあ、5年も母親をやっていればね」
ベラの言葉に納得して、ルシルは頷いた。
「そうね……。私はジークに嘘をついた。それが正しいことだったのか、本当のところはわからない……。でも、一度ついた嘘を自分が楽になりたいからって、やっぱりなかったことにしようだなんて、それは虫のいい話ね」
「そういうこと。あなたが今やることは、うだうだ悩むことじゃない。全力でその嘘を貫き通すことだと、私は思うわ」
ルシルはコーヒーの残りを喉に流しこんだ。
ほんのりとした苦みに、頭の中がすっきりとしたような感覚になる。
「ありがとう、ベラ。私、決心がついたよ」
「そう? なら、よかったわ」
優しくほほ笑んでから、ベラは机の上で頬杖をついた。
「ところで、デートに着ていく服はもう決めたの?」
「で……!? だから、デートじゃないけど! えーっと、こういうのはどうかなって思ってる」
ルシルは鞄からファッション誌をとり出す。そして、ページを開いて見せた。
黒いイブニングドレスだ。やたらと露出が高い。――妖艶な悪女が着たら、それはもう、よく似合うことだろう。
そのページを目にした途端、ベラの感情は抜け落ちて、怖いくらいの真顔になった。
「やめなさい。絶対に」
「え、だめ?」
「むしろ、何でこれで大丈夫だと思えたの? 悪の側近してると、感性まで闇仕様に塗り替えられるの!? 騎士団、制服があってよかったわね!?」
マリサが首を伸ばして、ページを覗きこむ。
そして、少女は笑顔で言った。
「継母が着てるやつ!」
「マリサちゃんまで!?」
◆
――その頃。
レナードとジークは、川辺で箒を下ろしていた。
ルシルと別れた後、ジークが「相談がある」と切り出したのだ。
そして2人は、川沿いの丘に降り立った。
夜風がそっと頬を撫でる。
水面には街灯の明かりが揺れ、流れに合わせてきらめきを変えていた。水音が夜の静けさをよりいっそう際立たせる。
「それで? 話とは何だ」
レナードが不愛想に問いただすと、ジークは人懐こい表情で笑った。
「いや、そんなに深刻な内容でもないんだけどさ。だから、軽い気持ちで聞いてほしいんだけど」
彼は迷うように、川へと視線を移す。
雑談のような調子で、さらりと告げた。
「最近、おかしいと思ってるんだ……アンジェリカの様子が」
レナードは表情1つ変えず、冷静に問いただす。
「――というと?」
「前とちがうっていうか……。アンジェリカは、前はもっと笑わなかったし、部屋の隅で本を読んでいるような子だったし。他の人とも、そんなに関わりを持たない感じで……」
「……記憶をなくして、いろんなしがらみが消えた結果、本来の姿が見えるようになったんじゃないか」
「そうか……そうだな。それもあるかも……?」
ジークは両眼をつむって、何かに思いを馳せるような表情をした。
そして、こくりと頷く。
「アンジェリカ、昔はいろいろと苦労があったからさ……。確かにすべてを忘れているのなら、あんな風に笑えるようになるのかもな」
「……そうか」
ぽつりと呟くレナード。
ジークは彼の方を振り返ると、困ったように笑った。
「でも、アンジェリカは甘党なんだ。最近、あんまり甘いものを食べていない気がして、それもおかしいんだよ。人の味覚は、そう簡単には変わらないだろ?」
レナードは静かな視線でジークを捉える。
「ジーク。彼女を遊園地に誘ったのは、それが理由なのか?」
「え? あ、いや、そうわけじゃないよ! つまり、彼女を試してやろうとか、そういう気持ちは本当にない! 全然ない!」
ジークは慌てたように片手を振った。
「俺はただ……アンジェリカには笑ってほしくて。彼女には、苦しい思いをさせたくないんだ。だから、遊園地に行こうと思ったのは、単純に彼女を楽しませたかったからだよ」
最後に悪戯っぽく付け加えた。
「まあ、過保護な保護者も一緒に来ることになっちゃったけどな」
「俺が邪魔だと言いたそうだな」
「はは、冗談だって。俺はさ、あんたとも仲良くやっていきたいと思ってるよ」
ジークは無邪気な笑顔を浮かべる。
彼が視線を向ける先――川面には、ビル群のきらびやかな光が映りこんでいる。華やかで騒々しい、都会の夜だ。
だが、視線を更に落とせば――川の底は闇を抱きこんで、静かにうねっているように見えた。
「……だから、楽しみだよ。あんたとアンジェリカと一緒に、遊園地に行くのが」
きっと彼の言葉にも、明るく聞こえるその声にも、嘘はないのだろう。
夜風に吹かれて、レナードの胸はそっとざわついていた。





