1 お昼のお弁当戦争
重い沈黙が、部屋の空気を締めつけていく。
相対する2人の間には、張り詰めた緊張が漂っていた。
男の目がじっとこちらを射抜く。その無言の威圧は、刃物のように鋭かった。
ルシルは前世――闇纏いとして生きていた頃に、学んだことを思い出す。
『敵と相対している時は、目を逸らした方が負け』
眼力には自信がある。
……もっとも、それは前世の姿での話だ。
今のルシルは小柄で細身、童顔気味のせいで、どれだけ睨みを利かせても迫力に欠ける。こうして目に力をこめて相手を睨みつけても、背伸びした子供が粋がっているようにしか見えなかった。
だけど、目は逸らさない。睨み返す。その意志だけは前世と変わらず、自分の中にある。
無言のまま、互いに視線をぶつけ合う。
両者共に言葉にはしないが、この場に妥協の余地がないことは、すでに理解していた。
ルシルは慎重に口を開く。
「リオ……お願い」
「断る」
なるべく低姿勢で頼んだのに、レナードの返事はにべもなかった。
――よろしい、ならば戦争ね。
内心で闘志を燃やしながら、ルシルは拳を握る。
「あなたは私の立場、わかってくれているのよね」
「理解している」
「ジークに私の正体がバレるわけにはいかない」
「ああ」
「だったら、もうやめなきゃ」
こんなことを告げるのは、ルシルだってつらい。
しかし――もうこうするしか、道はないのだ。
ルシルは断腸の思いで、目の端に涙を浮かべた。
「あなたの手作り弁当をこれ以上、受けとるわけにはいかないの!」
レナードは冷静にルシルを見つめている。そして、鞄から、すっ……と弁当箱をとり出した。
「ピリ辛なチリ風味ソーセージ。マスタードが効いたポテトサラダ。ジンジャーで香ばしく味付けしたロースト野菜も入ってる」
「ああ……っ」
「バターロールのパン付きだ。ソーセージやポテサラを挟んで、食べることもできる」
「ううう……っ」
ルシルの目が潤む。すぐに手を伸ばしたが、レナードはひょいと弁当を上げてしまう。
届かない。
ぴょんぴょん跳ねても、届かない。
「どうして、今日に限ってそんな美味しそうなメニューを……! ううん、今日だけじゃなくて、いつも美味しいけど!」
「いらないのか?」
――どうする?
まるで、挑むようにお弁当箱を、ルシルの目の前に戻す。
――ごくり。
喉が鳴る。
もうその反応で、敗北を喫していた。
ルシルは弁当を受けとると、呪文を唱えた。
「……仕方ないわね。タナト・フェロウ(※意味:苦しんで死ね)」
レナードは温かな眼差しでこちらを眺めている。
ルシルは頬をわずかに赤くして、そっぽを向いた。
「保存魔法よ。これは、夕飯に食べるわ」
「結局、受けとるんだな」
「勘違いしないでほしいんだけど、食べ物に罪はないんだから。残したらもったいないってだけよ」
ココが呆れたようにため息をつく。
「食いしん坊な闇魔女」
「食いしん坊な使い魔に言われたくないわ」
今回は敗北したが、主張を変えるつもりはない。ルシルはお弁当をそそくさと自分の鞄にしまって、賄賂の証拠を即座に隠滅。
腰に手を当てると、偉そうな態度を維持したまま、びしっと指を差した。
「いい? アンジェリカは、甘党だったのよ」
「君とは正反対だな」
「そう……そうなの。困ったことに。ジークの前でこんな辛い物だらけのお弁当を食べてたら、一発で見抜かれるわ」
「だから、俺の弁当を拒否していたのか」
「えっと……それもあるけど……」
気恥ずかしさに、目を逸らす。
横髪を指でくるくるといじりながら、小さな声で言った。
「……変に思われるでしょ……。ただの同僚に、手作りのお弁当を渡す人はいない。普通……そういうのは、特別な関係同士がやるものだし……」
レナードが一歩、こちらに近付いてくる。真っすぐな目がルシルを射抜いた。
「俺と君は、特別な関係だろう?」
「り……リオ……」
空気が変わった。
甘やかな気配が2人の間に満ちていく。
距離が近い。視線も熱い。鼓動が、胸の奥で跳ねた。
ルシルが息を詰めた、次の瞬間。
「アンジェリカー! ……と、ついでにレナード」
空気をぶち壊す、明るい声が響いた。
会議室の扉が無頓着に開けられる。そこから顔を覗かせたのは、ジークだった。
「お昼休みだ、一緒に食べに行かないか?」
ルシルとレナードの反応は素早かった。
伊達に、稀代の悪女、悪を討ちとった英雄をしていない。扉が開く寸前に、音もなく互いに距離をとって、何でもない風を装っている。
「い……行くわ」
ルシルは済ました顔で頷く。
一方、レナードは嫌そうに眉を顰める。
「なぜ俺が君と?」
「へぇ、あんたは来ないのか。じゃあ、アンジェリカ、2人で行こうか」
ジークがルシルの肩を叩こうとしたのを、レナードは素早く手で弾いた。
「俺も行く」
「行かないって言ってたじゃん!」
「言ってない。行くぞ」
どこに行こうと示し合わせたわけではないが、3人が箒を飛ばす先は同じだった。
住宅街の中にひっそりと佇む、『カフェ・ローワン』。
ドアベルを鳴らして、扉を開ける。給仕中だったベラが元気に振り返った。
「あら、お三方、いらっしゃい!」
ルシルはへへと笑う。最近はすっかり、この店の常連になっていた。
ベラと顔を合わせるたびに、勝手に頬がにやけてしまう。
「ベラさん。また来ちゃいました」
「いつでもどうぞ。あなたたちは、娘の恩人だもの」
ベラも、ふふ、と笑いながら、店の奥へと案内してくれた。店内の隅にある席が、ルシルたちの定位置だった。仕切りがついているので、周囲からは見えづらくなっている。
ジークが気さくに片手を上げて、ベラに挨拶をした。
「ベラさんのコーヒーも、ここの料理も絶品ですから! 俺もすっかり気に入りましたよ」
「あら、ありがとう」
ベラはルシルたちの注文を聞いてから、去っていく。
料理が来るのを待っていると、ジークがレナードに話し始める。
「そういえば、さっきはありがとな。書類整理、手伝ってくれて。すげー助かった」
「俺は手を貸していない。やり方を教えただけだ」
「それが助かったんだって! あんなに細かく説明してくれると思わなかったよ」
「細かく……? 普通だろう」
「教え方、わかりやすかったよ。ミスしやすい個所とかも、事前に教えてくれたし」
ジークはにこにこしながら、ルシルと顔を合わせる。
「冷酷大王かと思ったけど、意外と面倒見がいいよな」
「そうね。不愛想魔王だけど」
その点は同意しかないので、ルシルは頷いた。
レナードが嫌そうに言う。
「大王とか、魔王とか、妙なあだ名をつけるな」
「ふふっ」
「あはは」
そこで、飲み物を持ってやって来たベラが、会話に加わる。
「ジークさん、知ってる? レナードさんって、昔はこうじゃなかったんですよ」
「え、そうなの!?」
「いつもにこやかで、親切で。特に好きな女の子の前では、雰囲気がすごく柔らかくなるから、わかりやすかったわ」
「……ベラ」
「べ、ベラ……っ」
レナードは咎めるような声で、ルシルは焦った声で、同時に彼女の名を呼んだ。
ベラは素知らぬ顔で笑っている。
一方、ジークは衝撃を受けたようにのけぞっていた。
「ええー!? レナードの好きな子って!? 誰!? どんな子!?」
「そうねえ。例えるなら、こう……悪い感じの女の子だったかしら」
「悪女系がタイプ!? 意外すぎる!!」
レナードが顔をしかめて、口を開く。
「その話はやめてくれ」
「いいじゃん! もっと聞きたい」
「次に君に仕事のことを聞かれても、教えない」
「ひっど!? それは公私混同だろ!?」
ジークが大げさに騒ぐので、ルシルとベラはぷっと吹き出した。
(なんだかんだで、リオとジークって仲良さそうよね……)
ルシルにとっても、それは意外な点であった。
おそらく、レナードからすれば、自分と対等に接してくれる人というのは貴重なのだろう。8年前の出来事によって、レナードは「巨悪を討ち滅ぼした英雄」として有名になった。
誰もがレナードを特別扱いするようになったが、それ故に対等に話せる相手がいなくなった。
しかし、ジークは誰に対しても壁を作らず、気さくに接する。レナードのことも、ただの同僚のように扱う。そういう人物は、騎士団の中でも希少だった。