10 茨の少女
マリサの部屋に足を踏み入れた瞬間、異変はすぐに目に飛び込んできた。
室内は薄暗い。
カーテンの隙間から差しこむ光を遮るように、部屋の一角――ベッドの周囲で何かが蠢いている。それは茨だった。マリサの周囲から生えて、壁や天井にまで這い上がり、まるでこの部屋を呑みこもうとしているかのようだった。
マリサには意識がない。ベッドの上で固く目を閉じている。
小さな体は茨に囲まれ、檻に閉じこめられているようだった。
「マリサ!」
ベラがマリサに近づこうとするが、茨に阻まれている。しかし、彼女は構わず娘の下へと向かおうとしていた。ベラの手には茨の棘が鋭く食いこんでいた。
「ベラ、危ないわ!」
ルシルは後ろからベラに抱き着いて、彼女を下がらせようとした。
「離して! あの子が! マリサが!」
「ダメよ、近付いちゃ!」
「でも! でも!!」
ベラは半狂乱になり、ルシルの腕を振り払おうとする。ルシルは彼女の肩をつかんで、強引にこちらを振り向かせた。
「ベラ、大丈夫」
不安に満ちた目を正面から見つめながら、ルシルは力強く言う。
「あの子のことは、私たちが必ず助ける」
「……アンジェリカさん……?」
ベラは目を瞬かせ、呆然と呟く。そして、全身の力が抜けたようにふらふらと膝をついた。彼女の手も、腕も、棘が食いこんでいて、傷だらけだった。その痛ましい傷を目にして、ルシルの胸も苦しくなった。
「ベラさん、つらいだろうけど、状況を教えてくれますか? マリサちゃんに何があったんですか?」
「……マリサの胸元に、突然、ペンダントが現れて……。その直後です。茨がたくさん生えて、こんな状態に……」
「それじゃあ、呪具は今、あの中に?」
呪いを解除するには、呪具を破壊するしかない。そのためには、この無数の茨を突破する必要がある。
(……ベラとジークが見てる……。これじゃ、固有呪文を唱えられない……)
正体がバレたとしても、ここは呪文を唱えるしかないのだろうか。
ルシルが頭を悩ませていると、レナードが部屋の入口から顔を覗かせた。
「何があった」
「よかった、レナード……!」
彼は室内を見て、すぐに状況を把握した様子だった。鋭い目付きに変わると、ジークとベラを見る。
「ジーク。彼女を連れて、建物の外で待機だ」
「え!? けど……!」
「民間人を危険にさらすわけにはいかない。彼女を守るのも騎士としての務めだ」
「……わかったよ」
不承不承といった様子だが、ジークは頷いた。
「ベラさん、こちらに」
ベラの腕をつかんで立たせる。しかし、ベラは躊躇した様子で、立ち尽くしている。
彼女の瞳は不安に揺れていた。
「アンジェリカさん……レナードさん……。お願いします。マリサを助けて」
ルシルは力強く、レナードは不愛想だがしっかりと頷いた。
「ええ」
「ああ」
ベラは泣きそうになりながら、胸元で拳を握りしめる。ジークに肩を抱かれて、部屋を出て行く間も、ずっと娘を案じる眼差しを向け続けていた。
2人の気配が遠ざかっていく。ルシルとレナードはマリサへと向かい合った。
「ありがとう、リオ」
マリサから視線を外さないようにしながら、ルシルは言った。
「不思議ね。あなたって、何も言わなくても私の考えをわかってくれるんだもの」
「わかるさ。ずっと君のことを見ていたからな」
レナードが隣で、小さく笑ったような気配がした。それだけで、ルシルの心からは不安がとり除かれていく。
「呪いの解除方法は?」
「呪具の破壊よ。だけど、気を付けて。あの呪具、普通のものとは少しちがうわ。さっきは転移してた」
「問題ない。補佐する」
一呼吸の間――。
そして、同時に腕を振り上げた。
「メリス・ティア!」
「タナト・フェロウ!」
2人の呪文詠唱は、息がぴたりと合っていた。
レナードの炎が茨を焼き払う。道が開いた。その隙でルシルはマリサのベッドへと接近。
「リオ!」
ルシルの呼びかけで、更にレナードが呪文を詠唱する。
ペンダントの周囲に光が走る。光条は四角い檻を形作った。ペンダントが転移できないように囲いこんだのだ。
その瞬間、ルシルは掌から風魔法を撃ち出した。
風刃がペンダントに到達しようかという直前。
マリサがペンダントを守るように両手を置いた。
(この呪具……持ち主を操ってる……!?)
このままでは、マリサに当たってしまう……!
ルシルは咄嗟に攻撃を解除した。同時に、レナードの拘束魔法の効果が切れてしまう。
ペンダントから闇の煙が立ち上る。その闇がマリサとペンダントを包みこみ、姿を消していた。
ルシルとレナードは目を見張る。
「やられた……! 今度はマリサちゃんごと連れて行ったわ!」
「何だ、あの呪具……あんなことまでできるのか」
「……こんなの普通じゃないわ」
認識が甘かった。
あれほどの機能を持った呪具とは。
そして――こんな高度な呪具を作り出せる人物と言えば、ルシルの記憶では1人しか存在しない。
(でも、まさか……。ベラがアイツと関わりを持っていたなんて、考えたくないけど……)
ルシルの背中をぞっとしたものが駆けのぼる。しかし、今はそれよりも、マリサの救助を優先するべきだ。
「どこに行った?」
レナードが険しい顔で、辺りを警戒する。すると、窓の外から悲鳴が聞こえた。
「マリサ!!」
ベラの声だ。
ルシルとレナードは顔を見合わせ、同時に駆け出した。
庭へと降りると、空中にマリサが浮かんでいた。依然として意識がなく、眠り続けている。空中で立つような姿勢で浮遊し、その周囲をゆりかごのように無数の茨が包み込んでいた。
ペンダントはマリサの首にかけられている。中央の石が怪しい色を宿して、不気味に輝いていた。
ジークがベラを背に庇いながら、茨と対峙している。剣を抜き放って、構えていた。
「エクスト・シェルツ!」
茨が伸びて、槍のように先端を突き刺そうと襲いかかる。
瞬間、ジークの剣が閃いた。その刃は、まるで風そのもののようにしなやかで、そして鋭い。一分の狂いもなく、襲いかかるツタを数本まとめて、正確に断ち切った。
「メリス・ティア!」
すかさずレナードが援護の呪文を唱える。庭にはびこっていた茨を、まとめて焼き払った。マリサまでの道が開いた。
その瞬間、彼女の下へと駆け出す人物がいた。
「マリサ……!」
ベラだ。彼女はマリサへと飛びついて、娘の体を抱きしめた。
「ダメよ、ベラ……!」
ルシルの声は間に合わない。
ペンダントから、また闇のもやが立ち上る。さっきと同じだ。壊される危険を感知して、逃げるために瞬間移動しようとしているのだ。
ルシルは咄嗟に地面を蹴り上げた。ベラの腕へと手を伸ばす。
彼女の腕をつかんだ――それと同時に、闇がルシルたちを囲いこんだ。
周囲の景色が切り替わる。軽い浮遊感ののちに、弾力のある感触に受け止められた。ベッドの上だ。
辺りを見渡すと、そこは子供部屋だった。
「ここ……?」
「……マリサちゃんの部屋に、戻ってきたのね」
そこでベラがハッと息を呑む。彼女の腕の中では、マリサがぐったりとしていた。先ほどまでは穏やかな寝顔を浮かべていたのに、今は様子がおかしい。苦しそうに呼吸をして、顔色が悪くなっている。
「どうしよう、アンジェリカさん……! マリサが……!」
「マリサちゃんから魔力を吸いとっているんだわ」
これ以上、呪具にマリサの魔力を奪われたら、彼女の身が持たない。
ルシルは覚悟を決めた。
「ベラ……ごめんね」
「え……? アンジェリカさん……?」
「でも、大丈夫。マリサちゃんは、必ず私が助けるわ」
ベラが戸惑ったように目を見張っている。彼女の目を正面から見つめながら、ルシルは力強く力強く頷いた。
手をかざし、空中に魔法陣を描く。そして、ルシルは唱えた。
「タナト・フェロウ」
「…………え……?」
ベラが愕然として、口元を手で押さえる。彼女の反応には構わず、ルシルは魔法を構築していく。
今度はペンダントだけでなく、マリサの行動を阻害する呪文も織りこんだ。マリサの周囲に光が走る。マリサはペンダントを守ろうともがくが、拘束魔法に阻まれて指先1つ動かせない
「今度は逃がさないわよ。タナト・フェロウ――!」
次の詠唱では、光がナイフのような形となる。その切っ先は迷いなく振り下ろされて、ペンダントの石を貫いた。
ぴし――石に亀裂が生まれ、それはあっという間に全体へと波及していく。
次の瞬間、ペンダントは粉々に砕かれた。
「……嘘……」
ベラはじっとルシルのことを凝視している。ルシルがゆっくりと視線を上げて、彼女と目を合わせる。
すると、ベラはマリサの体をより強く抱きしめて、身を引いた。
「その呪文……。だって……」
彼女は震える声で尋ねる。
「あなた――ルシルなの?」