1 アンジェリカの旧友!?
爽やかな夏の朝――そう表現するにふさわしい、澄み切った陽気だった。
本格的な暑さには至らないものの、陽射しが地面をじりじりと焦がしている。
ランドゥ・シティは川を挟んで、“ビル街”と“住宅街”に分かれている。川を越えた南側は高層ビルの影がなくなり、アパートや一軒家が並ぶ。車のエンジン音がまばらに響く、のんびりとした一画だ。
そんな住宅街にある、『ランドゥ自然公園』。
広大な敷地には川が流れ、木と花が豊かに息づいている。花壇はよく手入れされていて、季節の花々が咲き誇る。
公園内の並木道は、近隣住民の定番の散歩コースとなっていた。
広場では、子供たちがボールを追いかけて遊んでいる。夏休みの季節ということもあり、朝から賑やかな声が響く。
蝉の鳴き声が、真夏の光景に彩りを加えていた。
「ありがとう、おばあちゃん!」
「ええ、ええ。あなたに幸運が訪れますように」
並木道のベンチに、1人の老婆が座っていた。全身から品の良さが漂っている。白髪を丁寧に結い、小綺麗なカーディガンを羽織っていた。
老婆は少女に石を渡した。少女は笑顔で礼を言うと、大事そうに石を抱えて去っていく。その後ろ姿を、老婆は温かな眼差しで見送っていた。
老婆の足元には、小さな箱が置かれていた。その中には、似たような形をした石がいくつも入っている。
並木道の向こうから、男の子たちがボールを抱えてやって来る。老婆を見つけると、にやりと笑って指を差した。
「あ、今日も来てるぞ! “幸運ばーちゃん”!」
からかうような声だが、老婆は気分を害した様子もなく、感じよくほほ笑んだ。
「ええ、ええ。あなたたちもいかが?」
「“幸運の石”だっけ? うそくせー」
「でも、兄ちゃんがあの石のおかげで、試験に合格したってさ」
「ほんとかよー!?」
少年たちが集まって来ると、老婆はにこにことしながら頷いた。
「この石には、不思議な力があるの。持ち主を幸運にしてくれるのよ」
老婆は箱の中から、石を1つとり出した。黒い石だ。表面はよく磨かれていて、静かな光沢を宿している。
少年たちは顔を見合わせる。興味深そうに手を伸ばした――その時。
「へえ……それはとても興味深いわね」
涼やかな声が、上空から聞こえた。
老婆も少年たちも目を丸くして、そちらを見上げる。
1人の少女が箒に腰かけて、老婆を見下ろしていた。幼く見える顔つきに似合わない、優雅な飛行だった。空中に浮かんでいるのに、箒は停止しているかのようにぶれていない。
その上、少女の余裕のある表情が、彼女を実年齢よりもずっと年上に見せていた。
ウェーブがかった黒髪は、肩につかないほどの長さ。風に揺れて、ふわりと揺れている。瑠璃色の瞳は、あまりある好奇心を星影のように宿し、輝いていた。
少女の肩には、白くて丸くてふわふわとした物体が乗っている。よく目を凝らしてみれば、毛玉の中心には目とクチバシのようなものがあり、それが小鳥であることが判別できた。
少年たちが、あっ、と声を上げる。
「魔女!?」
「いや、見ろよ、あの制服……!」
彼らは少女の着ている服装に注目した。
黒い軍服のようなコート。そして、胸元に輝く紋章。
「黎明騎士団だ……!」
それは街の治安を維持するための、魔導士による組織だ。
かねてより活動していたその組織は、8年前のある事件によって更に名声を高めた。
この騎士服に身を包む者は、市民からは尊敬の眼差しで見られることになる。
もっとも、その少女は小さく華奢な体つきのせいで、その権威を宿すどころか、子供のままごとのような印象を与えてしまうのだが。
少年たちは首をすくめると、悪戯が見つかったかのように慌てて走り去った。
その場に残されたのは、箒に乗る少女と老婆だけだ。
老婆はにこにことしながら、少女を見上げる。
「まあ、まあ……ずいぶんとお若い騎士様ねえ。毎日のお勤め、ご苦労様です」
少女もにっこりと愛想よくほほ笑んだ。
「それが、“幸運の石”? 毎日、この場所で子供たちに配っているみたいね」
「ええ、ええ。あたくしは、子供が好きでねえ……。無邪気なあの子たちを見ていると、幸せになってほしいと願うのですよ」
「ふふ……」
少女は箒の上で、楽しそうに笑う。いや――『嗤う』。
すると、途端に彼女の纏う雰囲気が変わった。妖艶で怪しさを含んだ笑み。幼さの残る顔立ちに似合わぬ表情は、まるで人を惑わし、翻弄してきた悪女のそれだった。
「おもしろいことを言うのね。近頃、市内でこんな事件が頻発しているの。子供が突然、痙攣を起こして、意識不明となる。検査の結果、それは呪いの一種であることが判明した。その子たちはみんな、同じ石を所持していたわ。ねえ、聞かせて? おばあさん」
少女は目を細める。
すると、更に彼女の底知れない雰囲気は増した。
「あなたの言う『幸せ』って、昏睡状態に陥ることなの?」
老婆は口を開いて、笑った。
こちらも先ほどまでとは雰囲気が一変している。喉奥から声を張り上げるような笑い声は、ヒステリックで狂気的だった。
「――アムレト・エスペランサー!」
間髪入れずに、老婆は叫んだ。
次の瞬間、老婆の手からは火が噴出した。地獄の業火のような、黒い炎だった。それが少女へと襲いかかる。
しかし、少女の方は予想していたのか、まったく動じない。箒の柄を握りしめ、軽やかに上昇。その炎を避けた。
同時に少女が唱える。
「カラ・ザティ!」
少女の手から放たれたのは、一筋の光――だが、彼女の威勢に比べると、それはあまりにも弱々しく、細い光だった。
老婆はその光を難なく交わす。
そして、高笑いをした。
「目障りな騎士団め! 嗅ぎつけるのがずいぶんと早かったようだねえ! ザカイア様の生み出した、この美しい魔法理論が理解できないなんて! あんたが哀れでならないよ」
「……美しくなんて、ないわ」
少女は心外そうに答える。
「――全然。これっぽっちも、ね」
す――と目を細める少女。
途端に酷薄な表情に変わる。
老婆がすかさず魔法を起動した。
「アムレト・エスペランサー!」
それに応え、少女も冷徹な面差しで口を開く。
「タナ――」
その詠唱にかぶせるように、クールな声が響いた。
「メリス・ティア」
次の瞬間、老婆の背後から光が襲いかかった。それは鎖のような形状となり、老婆の体を拘束する。老婆はその場に倒れる。
その体勢のまま顔を上げ、彼女は愕然とした。
今の呪文を唱えた魔導士――それは騎士制服を着た、もう1人の人間だった。
「お前は……!?」
男の顔を認識すると同時に、彼女の瞳には怨嗟がこもる。
老婆は金切声で、その男の名を告げた。
「英雄レナード・マクルーア!!」
男――レナードは、冷めた視線で老婆を見下ろしている。
細い金髪と、切れ長の碧眼。精緻に作られた彫刻のように、整った目鼻立ち。彼が少しほほ笑んで見せるだけで、多くの女性は赤面どころか、その場で倒れてしまうことだろう。
しかし、その表情は氷点下の温度に凍り付いている。その冷たさは、ともすれば相手を見下しているのかと錯覚させるほどだ。
老婆は憎悪を含んだ目で、レナードを射抜いた。
「お前が……お前がザカイア様を殺したァ! 呪ってやるよ! この世の果てまでもお前を追い詰めて、呪い殺してやるよぉぉ!」
口から泡を飛ばしながら、罵詈雑言を投げついている。レナードはそれすらも何の感情も抱いていない様子で、涼やかに聞き流していた。
老婆は高らかに叫ぶ。
「ザカイア様と、ルシル様よ、永遠なれ!!」
◆
老婆の台詞を耳にして、箒の少女はげんなりとしていた。
(あーもう、……やめてくれないかなあ……)
ため息をつきながら、少女は不満げに箒を揺らす。
(私のこと、勝手に崇め称えるの……)
少女の名は、ルシル・リーヴィス。
老婆が心酔しきった様子で名を挙げたうちの1人だ。
闇魔法の使い手にして、魔王の一番の側近。
彼女の名は今や全国に轟いている。世界一有名な『悪女』として。
◇
その後、老婆の身は、応援に駆け付けた騎士に預けることとなった。彼女は連行されている間も、ひたすらレナードを罵倒し、ザカイアとルシルを称えていた。
気まずい。
――あまりにも気まずい。
風に乗って、市民たちの困惑の声が届く。
「え? なに? ザカイア信者?」
「ルシルの名前も叫んでたわよ。本当に、闇纏いって2人のことが好きよね」
(ほら、人が集まってきてるし! というか、これって公開処刑!?)
ルシルは内心で冷や汗を流しまくる。
一方で、レナードの方はというと、
「ねえ、ちょっと! レナード様が来てる!」
「うそ、どこどこ!?」
一般市民から、羨望の視線を集めていた。
野次馬が駆け寄ってきていることに気付くと、レナードは面倒くさそうに嘆息をつく。
「行くぞ、新人」
冷ややかに言うと、彼は箒に乗って上昇する。
「え、あ……ちょっと!」
置いて行かれそうになっていることに気付いて、ルシルも高度を上げた。
公園の上空にまで、市民たちの歓声が届く。レナードを称える声ばかりだ。
――相変わらず、大人気なのね。この不愛想キングの『夜明けの英雄』様は。
ルシルは何となく面白くない気持ちになって、足を組んで、頬杖をついた。むすーっとした視線でレナードを眺める。
「ねえ。私のこと、いつまで『新人』呼ばわりするつもりなの?」
レナードは冷徹な眼差しのまま、ちらりとルシルを見る。
「今の私は『アンジェリカ』よ。いい加減、覚えてよね」
すると、考えこむようにレナードは前を向いた。
束の間の沈黙――レナードの箒が、すいっと寄って来る。
彼の目が再度、ルシルを捕らえた。
その表情は、先ほどとは一変している。柔らかなほほ笑み、優しげな視線。極寒凍土のような雰囲気が解け、代わりに甘さに満ち溢れている。
ルシルは思わずドキッとして、レナードから逃げるように離れた。
彼のこの変化には、未だに慣れない。
「俺にとっての君はルシルだ。それ以外の何者でもない」
「そ、そう……」
「それより、君、さっき固有呪文を唱えかけただろう。人目がある場所では、避けるべきだ」
固有呪文とは、魔法を発動するために口にするキーワードのことだ。魔導士はそれぞれが異なる固有呪文を持ち、1人として同じものになることはない。
つまり、固有呪文が個人の特定につながるということだ。
ルシルの本来の固有呪文は、『タナト・フェロウ』。この呪文を誰かに聞かれてしまえば、即座に自分の正体がバレてしまう。
レナードの言っていることは正論なのだが、
「……わかってる」
ルシルは不機嫌続行中だ。むすっとしたまま、顔を逸らした。
「でも、身の危険を感じたら、唱えるしかないじゃない。正体がバレるより、命の方が大事なんだから」
「その心配はない」
レナードは柔らかなほほ笑みのまま、ルシルを見つめている。
「君のことは俺が守る。もう二度と、危ない目に遭わせたりはしない」
ぶわ……血が顔に集まって来るのがわかる。
ルシルは赤くなった顔を隠すように、ルシルは箒を飛ばして、レナードの前を飛んだ。
ココがからかうようにルシルの肩でさえずる。
「頼りがいのある彼氏で、よかったね」
「ちょ、ちょっともう~! ココちゃん!!」
◇
――数日後のこと。
その日も朝からルシルは、騎士団に向かっていた。
黎明騎士団の本部は、ビル街の中に建っている。権威を象徴するかのように、もっとも高く、もっとも立派なビルだった。
本部22階――『魔法犯罪対策:闇部門』の部署室。
ルシルが部屋に入ると、隊長から声をかけられた。
「アンジェリカさん、いいところに」
騎士隊長であるクラリーナは、妙齢のさっぱりとした雰囲気の女性だ。
部署内の職員たちが立ち上がって、クラリーナの方を向いている。その中にはレナードの姿もあった。
「今、新人さんの紹介をしようとしていたところなんだよ」
『そういえば、今日からだっけ』とルシルは思い出した。
先日、先輩騎士のケイリーが大きな事件を起こし、騎士団を去った。欠員の穴埋めのため、急遽、人員を募集することになったのだ。
そして、新しく男性が1人、採用されたということを聞いていた。
「今日からこの部署に配属されることになった、ジークさんだよ」
クラリーナの言葉に、1人の青年が前へと出た。
黒を基調とした騎士服は、ルシルとレナードと同じだ。
少し雰囲気が異なって見えるのは、彼が片側の肩にだけマントをかけ、細身の剣を腰に差しているからだろう。
(剣……? 魔導士なのに珍しいわ)
すらっとして、均整の取れた立ち姿。まるで中世の騎士画から抜け出したように、凛とした気配をまとっている。
端正な顔立ちだ。茶色の瞳が、研ぎ澄まされた光を宿している。彼に真っすぐ見据えられたら、悪人とて息を呑むだろう。
柔らかな茶髪は整えられ、前髪がふわりと額にかかっている。
職員たちの視線を受けても動じることなく、きりっとした眼差しを保ったまま。佇むだけで場を引き締める存在感があった。
「初めまして。ジーク・ウェルナーです」
明瞭で澄んだ声が響く。その姿はまさしく、騎士そのもの――そう周囲に思わせた瞬間。
その印象は、柔らかくほどけた。
キャラメル色の目はほほ笑むと垂れ目になって、人懐こい印象を与えた。悪意というものをまったく知らない子犬のようだった。
その視線がルシルへと向けられる――途端に、その瞳はきらきらと輝いた。
「ああ……ずっと会いたかった」
ジークは遠慮なくルシルへと近付いてくる。
ルシルはぽかーんと口を開ける。自分を指さして、首を傾げた。
(え? 知り合い? 見覚えがないけど……)
記憶をひっくり返してみるが、まったくわからない。
そもそも、ルシルがアンジェリカとして蘇ってから、まだ4カ月ほどだ。職場と家の往復ばかりなので、仕事関連の知り合いしか思いつかない。
すると、ジークはルシルの手を優しく握ってきた。
「アンジェリカ! 久しぶりだね。君に会いたくて、俺は騎士になったんだ」
「……え?」
ルシルの間の抜けた声に、
「……………………は?」
レナードのすさまじく低い声が重なった。





