7話 剛腕(ただし、かなりの無茶があったものとする)
正面からの力に耐えられなくなって、立っていられなくなったとき、俺の目の前に蝶が横切った。
真っ白と金色の満たす世界で、目が覚めるような真っ黒なアゲハチョウ。
『これは!』
「クロアゲハ……?」
その1頭が合図だったように、俺の足元から黒い靄が噴出する。
靄は俺の周囲から動かず、盾になるように取り囲んで離れない。
「なんだこれ、いったいどこから」
次の瞬間、俺は誰かに抱きしめられる。
胴体に回るそれは、よく鍛えられた浅黒い左腕。
真っ白すぎる俺と対照的な、見覚えのある肌。
鎧をつけていないその腕は、細かい傷跡でいっぱいだった。
「あいつかよ。ウソだろ、黒魔法が道理ねじ曲げて干渉すんのかよ」
腕はだんだんと傷が増えて、血が滲んでいく。
この世界になんとか干渉しようとして、腕とあいつ……メイカの力だけが現れたんだろう。
俺は、とんでもなく大声をあげて笑った。
「バカばっかだな!俺のために命燃やす友も、会ったばっかなのにここまで無茶する夫役も!!……俺のこと好きすぎかよ」
俺のために俺を引き留める腕は、だんだんと薄くなっていく。
だけど、俺の軸は確かに固定された。
キツネとの間にあった距離を、ずんずんと詰めていく。さっきまで大きな嵐に立ち向かうくらいに進めなかったのがウソみたいだった。
光魔法は思いと誇りと魂の強さ。
いけ好かないけど、ここまで無茶するほどに俺を求めてくれるのは悪い気はしない。
「悪いな。どうやら、俺にはとんでもなく無茶するくらい俺を離したくない奴がいる。一緒にはいけない」
『さっきのちょうちょう、だね』
「ああ、不本意だが俺のことは大切らしいオウサマなんだよ」
『それならいいんだ。きみがかえれるばしょがあのこなら、よかったじゃないか』
「え?良かったってなにが」
俺の言葉を遮るように、一際強い風が吹く。
目が開けられないほどのそれに目を閉じると、キツネの声が聞こえた。
『かみさまはきまぐれなんだ。れおにすの、たいせつだったものをすこしだけみせてあげる。これでばいばい』
それきり、音は聞こえなくなった。
ゆっくりと目を開く。
世界はまた変わっていた。
「ここ、薬草植物園だ」
俺がいつも立ち寄っていた温室。
生薬に使える草花を年中育てていた、俺にとって思い出深い場所。
空気が湿っていて、緑のムワッとしたにおいがして、物好きな学生しか近寄らなかったこの場所を、キツネは俺に最期に見せたかったらしい。
空間は変わったが、不思議と俺の服はキツネが変えた学生服のまま。
だからこそ、懐かしさが染み込んでいく。
「でも、どうしてここなんだよ。分社の祠が近いからか?」
意図が分からず悩む俺の耳に、足音が近づいてくる。
ぽくん、ぽくんと落ち着いた軽い音を響かせるそのリズムに俺は電流が走るくらいビビった。
クスクス笑う声が、俺の背後から聞こえる。
あのキツネ、知ってやがったんだ。
俺の、忘れられない初恋の人のこと。
ゆっくり、緊張して振り向く。
俺よりも高い身長に、スラリとしたシルエット。いつも上半身がピッタリした黒いワンピース、黒いベールで顔を隠した女の人。
薬草植物園にたまに現れては、本を読み、クロアゲハを愛でていたその人。
「レオニスさん?またいらしたんですね」
彼女からはいつも草の香りがした。
ミントにカモミール、そしてどこか辛い香り。
あのキツネはとても精巧にすべてを再現していた。
視覚だけじゃなく、匂いもなんて。きっと彼女に触れることだってできるだろう。
「どうしましたか?一緒にお茶でもいかがです?」
彼女はいつもベールで顔を隠すので口元しか見えないが、確かに笑っている。
この植物園で本を読んで、たまに薬を煎じていたのがありありと思いだせる。
手を伸ばすけど、彼女に触れるのはやめた。
あのキツネのことだ。触れれば本人の感覚すらわかるだろう。
でも、それはしない。
在学中、俺は彼女に全く触れたことがないからだ。
今触れたところで、それは幻想でしかない。
少しずつ、紙が火にくべられて燃えるように、植物園が白く焼け落ちていく。
キツネの限界が近いんだろう。
だけど、彼女だけは変わらずそこにいた。
黙ったままの俺に首をかしげて、返答を待っている。
在学中なら、すぐに「ぜひご一緒に!」と提案に乗って、たくさんの話をお互いに繰り広げていた。
それだけの関係性だった。
もちろん、国から離れて自分として生きて、好きな勉強をするのはとてつもなく楽しかった。
だけど、その彼女との時間は俺にとっては輝いていて、甘くて、むず痒い。
きっとキツネは、幻想だとしても俺の心残りをなくそうとしてくれたんだと思う。
もう植物園はほとんど白く消えていて、彼女の足元も白に侵食されている。
「レオニスさん?」
記憶の中の彼女にはもう会えない。
そう自覚したとき、勝手に言葉が出ていた。
「好きだった。あなたは、俺の初恋でした」
たった一言だ。
でも、それだけが言えなかったのが悔いだった。
彼女はある日突然現れなくなってしまったから。
国に戻るその日まで、毎日植物園に通って彼女を待った。
おかげで専門外だったのに薬草の知識は人一倍になっていた。
最後に一目会えるなら、伝えたかった。
彼女の体が胸まで白くなり、もうじきに消えてしまう。
何言おうとしている彼女の口元は笑っているように見えた。