10話 帰路(ただし、わずかに空気は甘いものとする)
馬の蹄鉄、風が揺らす葉音、沈む太陽。
彼が何をしていなくても、この穏やかな馬車の中で私は十分に満たされている。
行きの馬車でも彼と会話ができた、帰りの今も安らかな寝顔が見られた。
数年前までただ夢だったその光景に、このまま時が止まればと夢想した矢先、腕の中でかすかに声がした。
もぞもぞ動く彼は少し幼く見えて微笑ましい。
「あぁ……?ここどこだ」
寝起きで偽っていない声は少し低く、彼が男だと伝える証拠。
そして魔法を持つものの証である琥珀色の瞳が、私を緩やかに見つめる。
私と同じ色のはずなのに、彼の目にあるだけで宝石のよう。
「気が付きましたか。もうすぐ黒の国の国境です、あと一時間ほどで城ですよ」
「あ、そ。俺が寝て何時間経った」
「四時間程でしょうか。お体は辛くないですか」
「ねーよ。お前、ずっと俺のこと右手で抱いてたわけ?」
「そうですね。起こしたくはなかったので」
「自分の体の心配もしとけやバカ王がよ」
寝ているときはまさしく光の妖精だったが、起きた彼は悪態が全快だ。
彼なりの元気になった証拠だと解釈している。
だけど、その悪態にも少々気づかいが見えるのは勘違いでしょうか。
私からすぐに目をそらし、腕から抜け出して対面に座ったレオニスさん。
華の国に向かう時よりも土埃でドレスやヒールが汚れている。
国の目を気にしないで、彼に男性用の服を与えられたらどれだけよかったか。
「あのさ」とレオニスさんが私に何か言い淀むように口を動かしています。
「はい。なんでしょう」
「そんな畏まって聞くなよ」
「すみません、あなたの言葉が嬉しいのでつい」
「人たらし。いつか刺されるぞ」
「鎧は頑丈ですので、ナイフくらいであれば問題ありません」
「そこじゃねぇ……」
崩れた髪をガシガシ掻いて、彼は私をまっすぐ見つめる。
姿は乙女になるよう育てられていても、目の前にいるレオニスという人は嫋やかとはかけ離れた強い目をしているのです。
「神域で、俺を引き戻してくれただろ。相当無茶して」
「そんなことは」
「あるんだよ。礼が言えてなかったからな」
レオニスさんは私の怪我をした左腕をとり、指先にキスをした。
彼の唇が柔らかくて、自分の顔まで沸騰したように熱を帯びてしまう。
「な、なにを。血で汚れてしまいます、やめてください」
「聖女の国で指先へのキスは、相手を人間として尊敬し感謝する意味を持つ」
私の言葉が聞こえていないように、レオニスさんは丁寧に包帯をほどく。
ゆっくりゆっくりと私の傷をなぞる彼の手は、白く光っている。
「俺を助けてくれた手だ、汚いわけあるか。まだ信用はできねぇが」
「治癒を使っているのですか?やめてください、魔法を使えば消耗してしまう」
「最後まで話聞けよ。お前がこれまで俺にした施しに比べりゃ微々たるもんだ」
「黒魔法を濃く使用する契約の影響で、私は傷が治りやすいんです。そこまでせずとも」
「さっきからガタガタうるせぇな。俺がやりたくてやってるんだ、ケチつけるのか」
彼のまなざしはとても鋭く、剣の切っ先を彷彿とさせる。
王妃のときには見せない、男性として、いえ、人間としての強さが狭い馬車の中を満たす。
白魔法の光は柔らかく傷を覆っていく。
光魔法の唯一目に見えるものに干渉できる『癒す』効果。
傷が時計が進むように盛り上がり、かさぶたになり、そして傷が消えていく。
黒魔法の対極である一番の特徴。
この効果のために白魔法は聖女の魔法と重宝されることになってしまった。
彼の態度はそんな歴史を一切感じさせない。
言葉が荒くとも、心の奥底が誰よりも強く温かい。
また彼の行動で私という個人が大切なものになった感覚が胸の中に広がる。
左腕の痛みはもうなくなっていた。
「黒血王だろうが、俺を助けてくれたメイカの腕だ。おかげで戻れた……ありがとな」
「私の、名を呼んで……!」
「そんだけだ!お前のことは信頼できないけど、『俺にとっては』悪い奴じゃないのがわかったのは収穫だな」
さっきまでの粗雑ながら凛とした雰囲気はどこへやら。
20代のただの若者らしい彼が、また皮肉を含んだ顔で私を見ている。
たくさんの表情を持ち、多くの人に期待されてしまう力を身に宿す、男の王妃。
私の結婚相手は、誰より魅力的なのです。
だからこそ、私が何をしてでも彼の未来を守らなくてはいけない。
「おーい、そろそろ城だ!王妃サマ起きてっか?」
また雑に馬車を蹴って到着を告げるライユ。
窓の外には、松明揺れる城壁が見えてきた。
不安は多かれど、私が統治し、大切な人たちを守るために奪った城。
「また、王妃様だな。俺も」
「そう、ですね。よろしいのですか」
「いいよ。お前に免じてな」
真っ暗な城壁をくぐる。
昼間よりもレオニスさんが近くに来てくれた気がして、左腕が愛おしくなった。