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いつもお読みいただきありがとうございます!

21時の更新で完結です。

「夫人は、何の憂いもなくなったら何がしたいですか?」


 侯爵夫人は息子の月命日に花を自分で選んで部屋に飾る。

 夫人が花を生けている様子を見ながら、その背中に問いかけた。いつもならこの日に夫人に話しかけるのは避けるのだが、どうしても仕事の件で話をしなければいけなかった。


「あの……クズに煩わされない様になったら、ということ?」

「そうです」


 夫人付きの侍女は何も言わない。俺が引き取られた日も夫人の側にいた侍女である。

 夫人は俺に感化されたのか、いつの頃からか侯爵のことを躊躇いつつもクズと呼ぶようになっていた。


「そうね……考えたこともなかったわね……」


 夫人はぼんやりと手を止めて、窓の外を見る。

 この人はとても可哀想な人だ。

 俺のことをどう思っていようと、俺はこの人は幸せになってほしいと勝手に思っている。母さんも可哀想な人だったが、この人も可哀想だ。あのクズに関わってしまった人は全員可哀想なのかもしれない。


「湖の見える別荘で、テラスに座ってお茶を飲みながら、沈んでいく太陽を見たいわね」


 それは、なぜか泣きたくなるほど穏やかな夢だった。


 同時に侯爵夫人であれば簡単に叶えられそうな夢だった。それほど、この人はあのクズに傷つけられて煩わされてきた。


「もうすぐ、それは叶いますよ」

「あなたは?」


 夫人は花を手に持ったまま振り返った。


「早く立派な侯爵になりたいです」

「何の憂いもなくなったら、何がしたいかという話じゃなかった?」


 夫人は鋭かった。言葉は穏やかだが、俺がわざとズレた返答をしたことをしっかり指摘してきた。


 俺は、あのクズが嫌いだからあのクズから侯爵という地位を早く奪いたかった。別に侯爵になりたいわけでも何でもない。でも、デボラにはいい生活をして欲しい。彼女は裕福な家の出身だ。着ているドレスも食べている物もすべて一級品。

 それはハンティントン伯爵が伯爵夫人のために努力したからだ。

 俺が侯爵になったら伯爵の様にそれがデボラのために叶えられる。でも、俺の望みはやっぱり侯爵位ではない。


「デボラと、ずっと一緒にいたいです」


 俺の言葉はなぜかそう滑り落ちた。

 実子を亡くした夫人の前で俺の本音など言わないはずだったのに。だって、それは彼女の息子が亡くなったから言えることだから。


 夫人に申し訳なくて、手足が少し冷たくなった。俺がいる場所は夫人の実子がいたはずの場所だから。

 怖くて夫人の顔が見れなかった。


「私の一番の功績は、あなたを引き取って、婚約者をデボラ嬢にしたことでしょうね」


 夫人の静かな声が落ちてきた。

 怒っているようでも呆れているようでもない。いや、この人の感情を俺は読めたことはない。いつも「子供はそんなこと気にしなくていい」と言うばかりだったから。


 俺はゆっくり視線を上げて夫人を見た。

 夫人も侍女も俺を見て穏やかに微笑んでいる。淑女の微笑み程怖いものはない。デボラの表情以外で俺は安心できない。


「あなたは子供らしくない子でした。あの……クズのせいで。そんなあなたが唯一子供っぽくいられるのがデボラ嬢の前だと気付いたのが、私の一番の功績でしょう」


 俺は何も言えなかった。

 何か言いたいのだが、あれほど勉強したのにこういう時に気の利いた言葉が出てこない。


「私は息子を亡くして、あなたを息子の代わりにしたことは一度もありません。恨んだこともありません。あなたは、あなたですから。でも、あなたはあの……クズとは違って私に罪悪感を持ってくれていたようですね」


 当たり前だ。

 あのクズには恨みしかないが、夫人には罪悪感しかない。夫人の息子が亡くなっていなかったらこの罪悪感はなかったかもしれない。


「その恨みと罪悪感が、あなたを全く子供らしくなくしてしまった。初めてこの屋敷に来たあなたは殺意にまみれていました。私はそんな子を前にどうしていいか分かりませんでした」

「ここまで殺さず育ててくださっただけで十分ではないですか」

「子供を守るのは大人として当たり前のことです。そんな当たり前のことを誇るのは、ただのろくでなしです。子供を守るのに理由など必要ありません」


 夫人は息子を亡くしたばかりだったのだ。そんなこと考えなくて良かった。


「あなたはデボラ嬢を見つけました。私はその時、やっと安心できました。良かった、あなたもちゃんと人間になれるのだと。あのままだと殺意と恨みで化け物になりそうでしたから」

「そんなことはありません」

「いいえ、きっとそうです。でないと、あなたはあの……クズを殺した後で燃え尽きたようになっていたはずですから。生きる意味を見失って」


 夫人は花を花瓶にそっと生けてから俺をしっかりと見た。


「私と私の子供たちをバカにしたあの……クズを、ちゃんと掃除しましょう」


 夫人は最後までクズのことをクズと言うのをためらっていたようだった。

 気品のある丁寧な人だ。この人が母親だったら良かった。一瞬だけそう思った。そうしたら俺はこんな風にひねくれなかったかもしれない。


「湖のある別荘には心当たりがあります。ハンティントン伯爵が夏季休暇に招待してくれる別荘がそうだと聞いています」

「あら、私も行こうかしら」

「いいかもしれません。伯爵に伝えておきます。それに、喪中に別荘を買っていては周囲にいろいろ言われるでしょう」


 夏季休暇終わりにあのクズを殺せば、卒業してデボラと結婚する前には喪も明ける。そうすると、タイミング的にはいいだろう。そのままスムーズに爵位を継げるはずだ。あのクズが死んで忙しくしていれば、あの光の王太子だってうるさく絡んでこないだろう。


 ただ、夫人の別荘の話は喪中に叶えていると他の貴族たちからいろいろ言われそうだ。先に買っておくか、目星をつけておかないと。伯爵はいつでも使っていいと言ってくれそうだが、夫人のために別荘一つくらいあった方が良い。


 母さん。もう少し待っていて。

 もうすぐあのクズをそっちに送ってあげるから。そうしたら、母さんもきっと寂しくないだろう。


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