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「リヒトール、今日からお前が我がアシュクロフト侯爵家の跡取りだ」
嬉しそうに言う生物学上の父を見上げて作り笑いを浮かべながら、俺は「うるせぇ、クズ」という言葉を飲み込み吐きそうになるのを堪えた。
リヒトール・アシュクロフト。
なんて御大層で、長いだけの名前。
そんなことはもちろん口にせず、ただ俺はバカみたいにニコニコして猫をかぶった。だって、今の俺には何の力もないから。どうにかこいつに反撃できるその日まで頭を低くして耐えなければいけない。
なぁ、母さん。こんな男のどこが良かったの? ずっと待ってたんだよね、こんなクズみたいな男。
口癖のように言ってたよね。「あの人は私を一番愛してるって言ってくれたから必ず迎えに来てくれる」って。確かに迎えに来たよ、母さんが死んだ後に。嫡男が病気で亡くなったから俺を利用するために。
母さんのことは残念だったってこいつは言ってたけど口先だけだよ。だって、母さんが病気になったのになんで見舞いにもこないの? 大切な女ならどんなに忙しくったって見舞いにくらい来るだろ。母さんは死ぬ間際までずっと待ってたのに。
それで引き取った俺のことはアシュクロフト侯爵夫人に押し付けたんだ。息子を病気で亡くして憔悴する夫人に愛人の息子である俺を。
これだけで十分クズじゃん。愛人は貴族の嗜みだったとしても、クズじゃん。
俺だって可哀想だよ、母さんが死んで急によく分かんないクズ親父に引き取られてさ、なんかわかんないけどお貴族様で侯爵家だしさ。
でも、夫人はもっと可哀想だった。
夫人はさすがお貴族様だからなのか取り乱すこともなければ、喚き散らすこともなかった。ただただ青白い顔で俺の教育をすると頷いたのだった。
ねぇ、母さん。本当にこんなクズ親父のどこが良かったの。母さんにだけは超いい人だったの? 俺、生まれてからこのクズに会ったこともないんだけど息子にも会いにこない親はいい人なの?
分かんないよ。それって本当に愛だったの? 母さんの献身や愛は利用されただけなんじゃないの? それはさ、愛なんかじゃないだろ?
血を分けたこのクズな父親を殺したい。なるべく苦しめて。
母さんがこいつを待っていたのと同じくらい苦しめて。
そんなことを考える俺はきっと誰からも愛されることはないだろう。きっと神様も俺を愛さない。
「侯爵夫人。あの男は貴族としては、侯爵としては優秀なんですか?」
夫人と夫人の侍女しかいなくなった空間で、俺は口を開いた。
俺の見た目は母さんと住んでいた時もかなり褒められるほど美少年だった。母さん似であり、間違ってもあのクズに似ているわけではない。珍しいほど輝く金髪に青い目。俺の見た目は貴族から見ても結構いい線をいっているようだ。
そんな俺が上目遣いで震えながら見つめれば、まぁ、大抵の大人は騙されてくれる。なんたって俺はまだ十歳だ。
見目のいいらしい俺を売らなかったのだから、それは母さんの愛といってもいいだろうか。いや、そうじゃない。いつの頃からか気付いてた。母さんはあの生物学上の父をつなぎとめるためだけに俺を愛していたのだ。母さんが見ていたのは俺じゃない。あのクズだ。だって病床でずっとあのクズのことを呼んでいたのだから。
その事実で心が冷えていく。なんだ、母さんに愛されていると思っていたのに。母さんはあのクズとのつながりのためだけに俺を愛していたのだ。
侯爵夫人の侍女は先ほどまで、つまりクズがいた時は険しい顔をしていたが俺を見て少し表情をやわらげた。なかなかの常識人で助かる。
「えぇ、優秀よ」
夫人は何かを察したのか、こんなガキの俺にも答えてくれた。彼女の目にあるのは深い悲しみ、俺に対する侮蔑はない。
「分かりました。では、俺は頑張って勉強するんで……俺が侯爵になれるくらいになったらあの男を殺しませんか。いえ殺しましょう」
夫人とその侍女の表情を見て、俺の考えは異常なんだなと分かる。思っていてもお貴族様は口に出さないのか。
でも、あんなクズ。生きている意味なんてなくないか? あんなクズよりも生きている価値のある人間、いっぱいいるだろ。なんであんなクズが金にも困らずに生きていけるんだ?
「俺の生みの母に平気で嘘を言い、息子が亡くなったら俺をおもちゃのように連れて来て、悲しんでいるあなたに押し付けるなんてクズでしょう。せめて頭を地面にこすりつけて頼むならともかく。あんな奴が生きている意味、あるんですか」
俺は年齢の割に大人びているとよく言われる。大人に囲まれて育ったし、母さんが働いている間はいろんな大人が面白がって俺にいろんなことを教えてくれた。汚い言葉も、夫婦喧嘩の内容もどうやって奥さんに許してもらうのかも、うまい酒がどんなのかも。
「あの男を殺しませんか。あぁ、ちゃんと俺がやりますから。夫人が手を汚すことはありません」
俺はもう一度、青白い顔色の夫人に聞いた。
本当に人間の顔色ってこうなるんだな。死人だけかと思ってた。母さんが死んだ時もこんな顔色だった。
母さんに重なるせいか、俺は夫人には同情しかなかった。
長い長い時間が経った。俺も緊張していたのかもしれない。
だって、夫人が俺を信じるメリットなんて一つもない。この家に来たばかりで俺の方がお貴族様パワーで殺されるかもしれない。夫人は俺の教育を担当して虐待するかもしれないし、俺を殺すかもしれない。
「……あなたのような子供にだけ背負わせることはしませんよ」
夫人は顔色が悪いままだったが、俺と目を合わせて囁くようにそう言った。
良かった、復讐は何も生みません。なんて綺麗ごとを言う夫人じゃなくて。
その声には、俺への心配と同時に亡くなった息子への愛が多大に滲んでいた。正直ちょっと羨ましかった。俺には向けられないものだから。
でも、俺はない物ねだりはそこでやめたんだ。愛だの結婚だのに夢見るのもやめた。
クズの愛に縋って生きた母さんみたいに俺は人生を無駄にしない。あんな頭にお花の詰まった生き方はしない。愛だの結婚だの本当にどうでもいい。クズは愛しているなんて虚しい嘘の言葉は言わなくていいから、母さんが捧げた人生と命は返してほしい。
まぁ、そんなことできないのは分かっている。だから、母さん。俺があのクズをそっちに送ってあげる。きっと、母さんはあの世でもあのクズを待っているんだろう。