初恋、卒業
むしゃくしゃしたので、叩いてやった。
人ではなく、ドラムの話だ。
努力すれば届くと思っていたが、今となっては何に届きたかったのかわからない。
小さな頃から白と黒の鍵盤の前にいた。
短い爪。暗くなるまでいたピアノ教室。合格に安堵した音大――努力する事が才能だと思っていた。たった一音聞いただけで、その全てが無駄だったのだと気づくまでは。
同じピアノが、全く違う音を出しているのを偶然聞いてしまったのだ。
気ままに弾いているその音は、分厚く、それでいて繊細で、そして自分を曝け出すことを厭わない恐ろしい音だった。
男は目を伏せて弾いている。
私は一人、廊下に立ち尽くしていた。
持っていた楽譜はもう読めなかった。
〇
ジャズバー「アシンメトリー」には、誕生日を祝うピアノの音が優しく響いている。
この音が私を絶望に突き落としたのだが、あれから五年、音は深く、濃密に――だというのにさらりとしたそれに変わっていた。
あの時に現実を知って諦めてよかった、と心から思う。
同時に、あの時むしゃくしゃして近くの教室にあったドラムを殴ってよかった、とも。
隣に座る令司が、小さく笑った。
肩につく長い金髪にピアス、シャツにジーンズ。バーに似合わない風貌をしているが、中身は恐ろしく純粋な男だ。
ピアノを弾く男を指さすので、私も頷く。
轟は、十年前と同じようにピアノの前に座っている。
あの日、ドラムに八つ当たりしていたら、通りかかった令司に声をかけられ、ジャズバンドの誘いを受けた。ピアノはあの男が弾くと知った十年前の私が無謀にも頷いた結果、今の私がここにいる。
「轟、そろそろだな。いいの?」
令司から聞かれる。
轟が誰の為に誕生日を祝うピアノを弾いているのか、私も令司も知っている。
カウンター席に座っている私の妹は、初めて会わせてから五年、積極的に轟を口説いていた。それがじわじわとあの冷めた男に届こうとしているのだ。
「いいよ。初恋って実るんだなって、ちょっと感動してる」
「そっちの初恋は?」
令司がぼそりと言う。
初恋ならよかった。醜い妬ましい気持ちと、羨望。いつからかそれと同居することに慣れて見えなくなっていたが、不思議と今なら手放せるような気がした。
令司は何も言わない私をじっと見ていたかと思うと、静かに立ち上がる。
歌ってくれるらしい。
繊細に歌い上げる少し掠れた甘い令司の声を、目を閉じて想像する。
私の奥から、濁った初恋が優しく消えていく予感がした。
読んでくださり、ありがとうございます。
去年のなろうラジオ大賞に書いた「初恋、5年」を別角度から書いた話となっています。
間違えて長編で載せていたので、短編で載せなおしています。