#3
日曜日。待ち合わせ場所である市立図書館の前。吟子はそわそわとスマートフォンを見た。集合時間より20分も早い。早く着きすぎてしまった。
休日に外出するのは久しぶりのことだ。ワンピースの上にジャケットを羽織っているが、変な服装じゃないだろうか。
「あ、榊さん、お待たせ」
さやかがやってきた。彼女はジーンズ履きのラフな服装だ。そして、薄いピンク色をしたセルフレームの眼鏡をかけている。また、髪も下ろしていた。
「白金さん。お、おはようございます」
「榊さんの私服、かわいいね。制服とは結構印象違うよ」
我ながら地味な服装だと思うが、褒めてくれるのは悪い気がしない。たとえそれが社交辞令であったとしても。
「し、白金さんこそ、眼鏡、かけてますね」
「ああ、これ? うん。学校じゃコンタクトなんだけど、プライベートじゃ眼鏡なんだ。剣道してるから、面を被ったときに眼鏡だと邪魔になっちゃうからね」
「そ、そうなんですか。……眼鏡、かわいいですけど」
「やだ、榊さんって眼鏡フェチ?」
「そ、そ、そういうわけじゃ、ないです!!」
否定はしてみたものの、実のところ眼鏡は嫌いではない。眼鏡をかけたさやかは、いつもとは雰囲気が違っていた。この姿もかわいいと思う。
「あはは、冗談だよ。よーし、今日は読書するぞーっ」
さやかと並んで、図書館に入る。
「じゃあ、好きな本探して、そこで読もうか」
さやかが小声で指差したのは、窓際のソファー席。日差しが当たって暖かそうな場所だ。和書コーナーを一回りして、適当な文庫本を一冊手に取った。戻ってみると、さやかも薄めのハードカバーの本を持っていた。隣に座って、一緒に本を読む。
季節は秋だが、ガラス越しの日差しは温かい。ちら、と隣のさやかに目をやってみる。彼女が読書している横顔は、とても綺麗に見えた。
いけない。読書しに来たのに、さやかばかり見ていては。活字に視線を戻す吟子であった。
昼過ぎ。二人とも一冊読み終えたので、図書館の隣にある喫茶店で昼食をとっていた。さやかはカレーライス、吟子はエビピラフだ。
「ふー、読んだ読んだ。榊さんはどんな本読んでた?」
「ミステリーでした。まぁ、それなりには面白かったです」
「私が読んでたのは、家族ものと思ってたら急にホラーになっちゃったからびっくりしたよ。思えば表紙が変な感じだったもんなぁ」
さやかが食後のコーヒーを飲んで、一息つく。
「友達と並んで読書って、なんだか新鮮でよかったなぁ」
「友達……」
やはり慣れない。恥ずかしさを隠すかのように、食後のコーヒーのマグカップを顔の前に持っていく。
「榊さん、友達って単語に弱いね。かわいいリアクションしてくれるよ、ほんと」
今度はかわいいと来た。そうやって褒められるのには慣れていないというのに。
「だ、だって、友達、いませんから……」
「本当に?」
「それは……えっと……」
答えに窮していると、さやかがいたずらっぽく笑った。
「友達なら、ここにいるでしょ?」
少し間が空く。さやかは少し悩んでいるようだったが、思い切ったように口を開いた。
「……ね、シルちゃん?」
少しの沈黙が訪れた。シルちゃんって、ひょっとして。
「え? し、シルちゃんって……」
「榊さんのあだ名。えっと、いつ言おうかな、って悩んでて。榊さん、下の名前、吟子でしょ? ぎんっていうと、シルバーじゃない」
「だから、シルちゃん、ですか?」
「そう。変じゃないかな?」
変どころか、兄以外からあだ名で呼ばれたことが久しぶりだ。兄からは「お吟」と呼ばれているが、それは時代劇っぽくてあまり好きではない。シルちゃん、というのは初めてである。悪い気はしない。というか、さやかからあだ名で呼ばれるのは、なんだか嬉しい。
「変じゃ、ない、です」
「そう? ずっと考えてたんだ。榊さんのこと、なんて呼ぼうかって。せっかく友達になれたんだから、榊さんっていうのはなんだか他人行儀な気がして」
「そ、そうですか? ……ちょっと、嬉しい、です」
「でしょ? だから、シルちゃんも敬語じゃなくてさ、普段通りに話してくれていいよ。……ああいや、普段から敬語っていうんなら、それでいいけど」
「ええ? それは……」
そういえば、ここ最近で敬語を使わずに話しているのは兄ぐらいのものだ。
「無理はしなくていいけど、私はタメ口のほうが気が楽だから」
「……うん。意識、して、みる」
なんだかうまく口が回らない。
「おおー。今の『うん』、凄く良かった」
さやかの笑顔。なんだか余計に恥ずかしくなる。
「さ、さぁ、コーヒー、飲んだら。もう一冊ぐらい、読もっか」
恥ずかしさを隠すかのように、やや早口で喋る。
「そうだね。今日は読書デーにするって、私が言ったもんね」
さやかは微笑んで、コーヒーカップを口に運んだ。
16時頃。二人は図書館を出て、最寄り駅に向かっていた。吟子はついでに本を2冊借りていた。
「ふー。今日は良かった。こういう読書デー、たまには作らないとね」
「……うん。楽しかった」
「シルちゃんとももっと仲良くなれた気がするし」
さやかがこちらを向いて微笑んだ。思わず胸がときめいてしまう。
「わ、私も、その……」
これはチャンスかもしれない。さやかをあだ名で呼ぶ。昼に「シルちゃん」と呼ばれてから、ずっと考えていたのだ。さやかのことをあだ名で呼ぼうと。
「……チナちゃんと、もっと、仲良くなれた、気がします」
慣れないことをするものだから、また敬語になってしまった。
「チナちゃん?」
「は、はい。……あ。……う、うん。白金って、プラチナ、でしょ。だから、チナちゃん、って」
「おー。そのあだ名は初めてだ。ひょっとして、シルちゃんに寄せた?」
その通りである。昼から読書そっちのけで考えていたのだ。
「……ふふ、シルちゃんしか使わないあだ名って、なんだかいいな」
「それは私も、そう思ってます……思ってるよ」
「言い換え、かわいいかよ。なんだか気を遣わせちゃってる?」
「いや、慣れれば大丈夫と思います。……あ」
「あはは、無理しなくていいよ」
駅に着いた。さやかとはここでお別れだ。
「それじゃ、シルちゃん。また明日、学校でね」
「うん。気をつけて、チナちゃん」
さやかは手を振って、改札をくぐった。
その日の夜。
さやかは自分のベッドに横になりつつ、昼間のことを思い返していた。
自分のことをあだ名で呼んでくれた。タメ口で話してくれた。そして、一緒に本を読んでくれた。
吟子の前なら、自分を飾らずにいられるかもしれない。急に話しかけて、一方的に友達になったのに、嫌な顔せずに付き合ってくれてる女の子になら。
寝返りを打つ。4畳ほどの、小さな和室だ。ふすまの向こうにある6畳ほどの居間も、隣のキッチンも、灯りは点いていなかった。
チナちゃんは重い女かもしれない。