#2
駅から自転車に乗って10分ほどで、家に着いた。自転車を停めて、鞄からスマートフォンを取り出す。メッセージアプリのアイコンが出ていた。吟子にメッセージを送るのは兄ぐらいのものだ。だが、今日は違った。送り主はさやかだ。緊張しながら、アプリを開く。
『今日はありがと。それと、よろしくね』
他愛ないメッセージ。だが、自然と頬が緩んだ。
『よろしくお願いします』
そう返しておく。そのままポケットに入れて、自宅の玄関を開けた。
「ただいま」
吟子は兄との二人暮らし。家事は基本的に吟子がやっているが、兄のシフトによっては、彼がやってくれている。今日は早番とのことなので、帰ってきていたらやってくれているかもしれない。
「おかえり。遅かったな」
兄は帰ってきていた。彼の名前は欽一。5つ上の21歳。高卒で近所の大きな工場に就職-いわゆる地元枠-し、交替勤務に就いている。
「ちょっと先生の手伝いしてて」
「ああ、ミスターは人使い荒いからな」
同じ高校の出身である。彼も普通科の出身であるが、成績が振るわなかったためか、大学に行くつもりはさらさらなかったようで、高卒で働くことを選んだ。両親からはさんざん反対されたのだが、今となっては助かっている。
「飯できてるぞ。着替えてこいよ」
「うん。ありがと」
どうやら食事の支度もしてくれたようだ。こういうときは助かる。2階の自室で部屋着のスウェットに着替え、リビングに戻る。
夕飯は輪切りにしたネギと中華だしの入ったオムレツ。兄の得意料理。
「いただきます」
欽一の料理の腕は悪くない。なかなかの味付け。二人でテーブルを囲み、しばらくの間、無言で食事。二人だけの食卓にもすっかり慣れた。
「ああ、そういや明日、飲み会入ったから飯いらねぇわ」
「飲み会ってまた急だね。 送別会か何か?」
この時期に飲み会となると、異動による歓送会しか浮かばない。
「いや、俺の危険物合格祝い」
そういえば、欽一は少し前に危険物取扱者の試験を受けていた気がする。結果が出るとしたらそろそろだろう。というか、結果は出たのだろうか。
「え、やっと合格したの?」
欽一が危険物取扱者乙種四類を受けるのは三度目だった。
「やっと言うな。明日結果発表だから、落ちてたら落ちてたで残念会」
「……飲み会の口実だね……。どこでやるの?」
「やき丸」
「お好みかー」
ここから徒歩十分ほどのお好み焼き屋だ。何度か行ったことがある。
「どうせ3時コースでしょ。読めるから」
「5時コースかもしれんぞ」
「余計タチ悪いって」
スマートフォンの通知音が鳴った。欽一は机に置いていたスマートフォンに目をやるが、すぐに戻した。
「お前じゃねぇか。珍しい」
ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージアプリのアイコンが出ていた。ひょっとして。
「……ごちそうさま。食器は後で私が洗っとくから」
「おー、なら頼むわ」
食器を台所に持って行くと、そのまま二階に上がった。メッセージアプリを開くと、さやかからのメッセージが届いていた。
本棚を背景に自撮りしている写真。そして、その本棚はさやかの背丈よりも大きくて、漫画の単行本に、小説の文庫本。新書やハードカバーの本もある。読んだことのある本、知っている本、そして知らない本。
『お母さんとの共用だけど、だいたい読んだんだ』
どうやらさやかの母親も読書家のようだ。読んだことのある本を確認してみると、好きな小説があった。
『その『放たれた天使』って小説は面白かったです』
仕事一筋のキャリアウーマンが運命の男性と出会って、といった筋書き。ありふれた話であるが、キャラクターが非常に魅力的で、引き込まれるように読んだ。読んだのは中学生の頃で、夏休みが一日潰れてしまったのだが。
『それ、お母さんも面白いって言ってた。次に読んでみるね』
本の話をしていると、時間はあっという間に過ぎていった。
「お吟、皿洗うって言ってなかったかー?」
階下からの兄の声で時計を確認すると、1時間が過ぎていた。調子に乗ってメッセージを送りすぎたようだ。これだから日頃から友達とやり取りしない奴は。さやかも対応してくれていたが、迷惑ではなかっただろうか。
「ごめん、今からやるよ」
吟子はスマートフォンを机に置くと、台所へと向かった。
翌日の朝。昨日のことは夢かと思っていたが、メッセージアプリには昨日のやり取りが残っていた。少し浮ついた気持ちで、学校に向かう。
駐輪場に自転車を停めて、教室に向かっていると、誰かから肩を叩かれた。
振り向いた先には、さやかがいた。
「榊さん、おはよう」
「あ、え、え、えっと、お、おはようございます……」
急なことで口が回らなかった。情けないったらない。
さやかからはほんのりといい匂いがした。
「あ。汗臭くない? 大丈夫?」
「い、いえ! そんなことないです!」
「朝練だったからスプレーしたからねー。臭くないならよかった」
そういえば、さやかは部活をやっていたんだった。
「さーや、おはよー」
「あ、おはよー!」
さやかの別の友達が声をかけてきたので、彼女はそちらに向かった。ちょっと寂しくなる。
いやいや、それでいいのだ。自分なんかと親しくしているところを見られたら、さやかのためにもならないだろう。
いつも通り、一人でいればいいのだ。
そう、いつも通り。
それから数日が経った。
吟子は天気がいい日は外で昼食をとっている。教室でも食堂でも一人なら、外でも変わりないからだ。中庭の木陰にあるベンチに腰かけて、コンビニで買ってきたパンを食べて、パックのコーヒー飲料を飲む。ほっと一息ついて、制服のポケットから文庫本を取り出し、昼休みが終わる5分前まで読書をするのが、学校での一番の楽しみだ。
だが、今日は一味違った。目の前に影ができる。
「榊さん、隣、いい?」
さやかだ。思わず目が点になる。
「え、え……?」
「先輩から聞いてたんだ。中庭で本読んでるミステリアスな後輩がいるって」
ここは食堂からは見えないが、上級生の校舎からは見える場所だった。ということは、上級生から見られていたということか。一気に恥ずかしくなる。
「え、え、え!?!? 白金さん、知ってたんですか!?」
「そうだよ? 榊さんかなー、って思ってたんだ。本当だったね」
「い、い、いや、ちょっと待ってください! なんかこう、イタくない、イタくないですか??」
好きでやっていたことだが、他人から認識されていたとなると途端に恥ずかしくなってきた。カッコつけているというか、気取っているというか。
「どうして? 外で読書、いいと思うよ?」
「いや、読書なら図書館ですればいいって話じゃないですか! あいつわざわざ外で読書して、アピールしてるぜって思われてたらなんかこう、あー、あー……」
「もう、気にしすぎだよ。でも、そういうとこ、かわいいと思うけどね」
さやかが頭を撫でてきた。恥ずかしい。なんなのだろう、この状況。
というか、かわいいと聞こえた。
「か゛わ゛っ!?」
それを変な声が出てしまった。
「そうだよー。榊さん、素材いいんだから、お化粧とか髪型とかちゃんとすれば、もっとかわいくなるよ」
顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。そこまで言われたことはなかったので、余計に。
「今の髪型が悪いってことじゃないけどね。私は今の髪型も好きだよ……って、どうかした?」
「いえ、そ、その……」
そわそわして、手持ち無沙汰になったので、自分の髪を指にパスタめいて巻き付ける。
「両親以外に、かわいい、って言われるの、はじ、初めてっていうか……」
「……」
さやかがぽかんとしたのが見えた。ひょっとして引かれたのかも。
「いや、榊さん……」
さやかが手を取ってきた。突然のことにどきりとする。
「今のマジでかわいい。かわいかったよ。もう一回やって!」
「え、え、えええ!?」
そんなことをしていたら、チャイムが鳴るまで気付かず、次の授業には遅刻してしまったのだった。
その日の夜。
『榊さん、かわいいよ。もっと見せて欲しいな』
昼間のことが頭から離れない。というか、なんだか記憶の中で都合よく捏造されている気がする。
「かわいい、かぁ……」
そんなこと、考えたことすらなかった。自分は何の取り得もない陰キャ。ずっとそう思っていた。
「お吟、柿ピー食うか? ……どうした、腑抜けた顔して」
欽一がハイボール缶と柿ピーを持ってきた。テレビでは野球中継をやっているので、それを見ながら晩酌するつもりなのだろう。
「んー、食べる」
「おっ、ジャガース勝ってんな。いいこっちゃ」
欽一の贔屓球団が勝っているからか、彼は上機嫌だ。柿ピーの小袋を吟子に渡してくる。
「そんで、何かいいことあったのか? 嬉しそうな顔して」
「あぁうん、友達から」
「お前友達いたのか?」
「いないけど、最近友達できたの!」
正直なところ、友達はいない。中学生の頃に親しかった友人とは、別の高校になってから疎遠になり、今では全く連絡を取っていない。学校ではそれなりに親しくしていたが、プライベートでの付き合いはほとんどなかったので、無理もないことだろう。
「そいつはめでたい。もう一袋やるわ。それで、友達がどうかしたのか?」
「友達が、かわいい、って言ってくれて」
「ふーん。まぁ女子高生は何でもかわいいって言うからなぁ」
「ちょっと」
まぁ、自分でもかわいいとは微塵も思っていないので、強くは言えない。
スマートフォンの通知が鳴った。さやかからだ。
「……友達に首ったけだな。にやけてるぞ」
欽一の指摘で、頬が緩んでいたのに気付いた。まぁ、顔を戻す必要もないだろう。
『ジャガース、ここで痛恨のエラー! 同点となりました』
「うわっ、しょうもなっ」
これは欽一の機嫌が悪くなるやつだ。柿ピーの小袋を持って、部屋に戻る。ベッドに寝そべり、メッセージを確認する。
『榊さん、今度の日曜日、予定ある?』
『ないです』
何の予定も入っていない。それはいつものことだ。すると、間もなく返信が来た。
『じゃあ、一緒に図書館行かない? 読書デーにしよう』
『喜んで!』
即答。すると、ありがとうといったスタンプが送られてきた。
休日に一緒に図書館。これは友達付き合いのような気がする。それが、クラスの人気者であるさやかと。皆が知らない彼女の一面を知っている。なんだか優越感が出てきた。
日曜まであと何日だろう。カレンダーを見ながら、柿ピーをつまむ吟子であった。
兄のあだ名は「金ちゃん」です。