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あの日、東京タワーの前にいたのは私です。

作者: 岸尾 ねね

 長い人生、普通に生きてきたとしても、死ぬまでに秘密の一つや二つくらいあるはず。今はすでに鬼籍に入られた人たちの、人生最後の告白。それを送り届けるのが告白代行業者の仕事だ。

 最後の告白が国民の一つの権利として国に認められてからもう十年になる。この法案を通した国会議員や公官庁の官僚には、きっと誰かに話したくても話せない重要な秘密があったのだろう。国を揺るがすほどの大きな秘密であればあるほど、それを知る自分は特別な人間なのだと自信を深めることができる。誰かに話して自分の偉大さを誇示したい、という思いも当然高まるだろう。だが、秘密の暴露には様々な法律上の制約がかかる。内容にもよるが、うっかり誰かに話せばたちまち特大スキャンダル。自分の立場どころか、時の政権さえ危うくなる。

 そんな政財界のお偉いさんたちの欲求を救済するために作られたのがこの法律だと言われている。墓場まで持って行ってくれたら、どんな重大な秘密も一つだけ、たった一人にこっそり打ち明けることが許されたのだ。希望者は生きているうちに、法務省にある告白申請センターへ、秘密の内容と誰に打ち明けるかを伝えておく。本人の死亡届が受理されたら、告白代行の依頼が登録のある各代行業者へ振り分けられる、という仕組みだ。

 法案設立の経緯はある意味国防のためともいえるご立派なものだったが、蓋を開けてみれば、よせられる最後の告白の内容は大したものではなかった。

 過去の浮気に対する懺悔。痴漢や万引きなど軽犯罪の自首。十代のときに伝えられなかった初恋の人への想い。などなど。生前に伝えていたとて、対して問題にならないような内容ばかり。だが、それも仕方ない。大多数の一般国民には、大それた秘密などあるはずがないのだから。

 それでも与えられた権利は最大限行使したくなるのが一般庶民というものなのだろう。本業の調査業の片手間に始めた仕事だったが、告白代行の依頼は後を絶たず、今や本業よりもこちらのほうが売上が多くなってしまった。今日もまた一件。告白代行のために、東京都下、八王子以西にあるかつてニュータウンだった街を目指して、中央道を走っていた。

 今回の依頼は、ふた月ほど前にガンで亡くなられた六十代の男性から、一人娘に宛てた最後の告白だ。秘密の告白が行われるのは、大体四十九日の法要が終わってからというのが相場となっている。身近な人間が死んだばかりでは冷静に告白を聞く気にもなれない、という配慮からだろうか。それとも、葬式も終わらぬうちにかつての浮気を暴露されては、まともにあの世へ送り出してもらえないからだろうか。

 窓の外を流れていく、防音壁の灰色を横目に見ながら溜め息をつく。告白の代行は基本的に気が重い仕事だ。今月に入ってまだ十日しか経っていないが、こなした告白代行はもうすでに五件ほど。そのすべてが依頼人のかつての浮気を配偶者へ伝えるものだった。冷静に受け止めてくれる人も多いが、依頼者の代わりに代行業者へ怒りを向けてくる人も少なくない。そういうわけで、配偶者宛ての最後の告白代行は特に気が滅入る。

 今日の依頼は親から子への告白だが、これも実に難易度が高い。配偶者に先立たれている依頼者の場合、かつての罪の告白を娘や息子に行うケースが多い。中でも一番多いのは、お前は私の本当の子供ではない、というものだ。まったく、自分の心を慰めるためだけの酷い告白だと思う。すでに自身が親になっている娘、息子たちは、それをどう受け止めたらいいのか。墓場まで守り通した秘密なら、そのまま冥界まで持っていってほしいものだ。

 また一つ溜め息をついて、アクセルペダルを踏み込む。今日、イマイチ気乗りがしないのは、告白内容が『お前は私の本当の子供ではない』だったからというわけではない。今回の告白内容はいつもとまるで違う。託された言葉は明瞭簡潔。たった一文。


――あの日、東京タワーの前にいたのは私です。


 一人娘に残す言葉にしては、なかなか謎めいている。本人同士にだけ伝わる言葉なのだろうか。たいして重要な告白とも思えないが、この言葉を伝えたとき、現場がどういった雰囲気になるのかまったく見当がつかず、それが私の心に暗い影を落としていた。


 告白の受け取り手が住む家は、ニュータウンの中にある特に変わり映えのない一戸建てだった。かつて大々的に売り出された建売住宅の一つなのだろう。隣も向かいもその裏も、同じようなつくりで色違いの二階建て住宅がいくつも並んでいる。一台分の駐車スペースと、猫の額ほどの庭。そんなところまでぴったりお揃いだ。

 表札に書かれた苗字を確認して呼び鈴を鳴らす。依頼内容通りなら、告白を受け取る娘のリサは、この家に一人で住んでいる。依頼者がガンの治療のために入院するまでは、父一人子一人、この家に暮らしていたらしい。今では父子家庭など珍しくもないが、数十年前は母子家庭よりも社会保障が行き届いていなかった。男手一つで子供を育てるのは、さぞ苦労も多かったことだろう。

「はい……。どちらさま、でしょうか?」

 インターフォンから不信感が滲むか細い声が聞こえてくる。旧時代的なインターフォンにはカメラがついていない。それでも営業用の笑顔を浮かべて喋りだす。どこから家主に見られているかわからない。相手を不安にさせないよう行動するのは探偵の基本だ。

「法務省より告白代行業務を請け負っております、長谷川探偵事務所の長谷川と申します。田中太蔵様の最後の告白をお届けに上がりました」

「えっ……、父から?」

「はい、そうです」

 笑顔のまま答える。インターフォンの向こうはしばらく無言のままだった。日曜日の昼下がり。近くの公園で遊んでいるのだろう子供のはしゃいだ声に混じって、耳鳴りのようなジーッという音が聞こえてくる。やがて「少しお待ちください」という答えのあと、ガチャリとインターフォンを置く音が響いた。


 散らかっておりますが。という言葉と共に通されたリビングは、生活感はあるものの、先の言葉が嫌味に聞こえるほど綺麗に片付いていた。家の前で待たされていた、五分、十分で片付けたとは思えない。きっと普段から整理が行き届いている家なのだろう。

 部屋を眺めるフリをして、台所に立つ依頼人の娘、リサを観察する。父親の死から二か月ほど経っているからか、憔悴しきったようすは見られないものの、化粧けのない顔はどこか疲れている。四十手前くらいだろうか。すっと通った鼻梁と、大きな瞳。きちんと化粧をすれば相当な美人に映るだろう。下がり気味の眉毛がどことなく頼りない雰囲気を醸し出だしていて、どちらかと言えば男好きのする顔に思える。

「どうぞ。そちらにお座りください」

 勧められるままにソファーへ座り込む。リサはティーセットの乗ったお盆を掲げたまま静々と歩み寄り、テーブルの上にそれぞれを並べると、テーブルを挟んだ向かいの座布団の上へ腰を下ろした。

「先ほどもお伝えしましたが、私、長谷川探偵事務所の長谷川と申します」

 名刺を差し出すと、リサは「はぁ」と言いながらそれを受け取り、名刺の表面とこちらを交互に数回確かめてからテーブルの上に置いた。

「あの、父からの最後の告白だと伺いましたが……」

 忙しなく指先を弄りながらリサが切り出す。早速か。口元で傾けていたティーカップを元に戻し、ソファーの上で居住いを正す。

 告白の代行に訪れたとき、受取人の反応は大抵二パターンに別れる。早々に告白内容を聞き出すタイプと、いつまでも世間話ばかりで本題を切り出させないタイプだ。前者は生前依頼人と関係がよかったパターンで、後者はその逆。一体どんな告白を切り出されるのか。なるべくなら聞きたくないという心理が影響するようだ。今までのケースを考えたら、今回の告白はそう悪いものではないかもしれない。

「この度はご愁傷さまでした。告白のお届けが遅くなりまして、申し訳ございません。市役所のほうでお父様の死亡届が受理されてから、生前に最後の告白の申請がなされていたかどうかの調査が入りますので、どうしても亡くなられてから相応のお時間を頂戴しております」

「はぁ……」

 いつも通りの口上を述べると、いつも通りの何ともいえない反応が返ってきた。こちらは実務上何度となく人様の最後の告白に付き合っているが、告白を受け取る側は、せいぜい人生に一度か二度あるくらいのイベントだ。まったく告白を受けることがないという人だって多い。面食らうのも無理はない。

「本当にあるんですね、最後の告白って。もっと……国会議員とか、大企業の社長とか、そういう人がやるものだと思ってました」

「最後の告白は国民の権利ですから。一般の方も広く行っていますよ。やはり死期を悟ると、最後に一つくらい、打ち明けておきたい秘密が思い浮かぶのでしょうね」

「はぁ、そんなものでしょうか……」

 リサが訝し気な目を向けてくる。若輩者が何を言っているのか、とでも思っているのだろう。リサはきっと、私より五歳くらい年上だ。

「お父様はガンで亡くなられたとお伺いしましたが」

「はい、肺ガンでした。長く建設現場で働いていたものですから」

「そうでしたか。入院も長かったのでしょうか?」

「いいえ。三か月ほどで……呆気なく……」

 震える声だった。気丈に振舞っていても、やはりたった一人の身内がなくなった苦痛は耐え難いものなのだろう。リサはテーブルの上にあるボックスに手を伸ばして、抜き取ったティッシュを目頭に当てる。

「辛い出来事を思い出させてしまい、申し訳ございません。最後の告白を利用される方は、余命宣告をされていた方が多いので、お父様ももしかしたらと思ったものですから」

「ええ、父もそうでした。お医者様からもう長くないと言われていました」

 ティッシュの向こうからズズッと鼻をかむ音が聞こえてくる。

「でも、告白だなんて……父は隠しごとができない性格なんです。うちは私が二歳のときに母が他界していて、それからずっと父と二人きりだったんです。父はなんでも私に話してくれていました。秘密なんて、あるはずないのに……」

 リサは丸めたティッシュを潰すような勢いで右手を握り締める。父子家庭というのは国からの書類に書かれていたが、母親と死別していたとは初耳だった。勝手に離婚によるひとり親世帯なのだと勘違いしていたことを反省する。先入観は探偵業務にとって、一番排除しなくてはいけないものだ。自分の落ち度を誤魔化すように、私は優しくリサに話しかけた。

「仲が良いからこそ、打ち明けられないこともあるものですよ」

「はぁ……。そういう、ものでしょうか?」

 ティーカップに口をつけながら訊ねるリサに、満面の笑みで頷く。ちょっとわざとらしいだろうか。そう心配したが、リサは納得したらしい。ティーカップをソーサーに戻すと、長い溜め息をついてから顔を上げた。

「それで、告白の内容はどんなものなんでしょう?」

 私は小さく頷いて、尻の位置を直す。いよいよ仕事の始まりだ。

「最後の告白をお伝えするにあたって、二、三、注意事項がございます。まず、これからお伝えする告白の内容は、あくまでご依頼主、田中太蔵様ご自身が考えられた内容です。告白内容に対する異議申し立て、質問には一切お答えできませんのでご了承ください」

 形式的に頭を下げると、リサは神妙な面持ちで頷く。

「それから、お伝えする告白の内容については、記録を取ることが一切禁じられております。メモはもちろん、ボイスレコーダー等の使用も禁止されております。もしスマートフォンをお持ちでしたら、電源を切っていただけますか?」

 リサは慌てたようすでポケットからスマートフォンを取り出す。

「こちらに画面を向けたまま、電源を切ってください」

 促された通りに操作し、やがて画面が真っ暗になると、リサはテーブルの上にスマートフォンを寝かせた。

「ボイスレコーダー等、録音機器もお持ちではありませんね?」

「はい」

 余程緊張しているようで、リサはごくりと唾を飲み込んだ。私はリサの返答に満足したとばかりに、笑顔を浮かべて頷く。

「他言も厳禁です。どうかご自身の胸の内だけに留めてください。ですが、今回お伝えする告白の内容を、ご自身の最後の告白として第三者に伝えることは可能です。ご希望の場合は、法務省の告白申請センターまでお申込みをお願い致します」

 そこで一度言葉を区切ると、リサは「はぁ……」と曖昧な返事をした。さっさと告白の内容を教えろと思っているのだろう。

「また、法務省から当事務所に送付されておりますお父様の告白にかかる資料は、法務省からの依頼番号を除いて、一週間以内にすべて破棄されることになっておりますのでご安心ください。当事務所からお父様の秘密が漏洩することは絶対にございません」

 また笑顔を浮かべて頷いたあと、足元に置いていたビジネスバッグを取り上げる。役所の仕事は口頭の説明だけでは終わらない。A4用紙を一枚テーブルの上に置くとリサはそれを覗き込んだ。

「今申し上げました内容に不服がないようでしたら、こちらにサインをお願い致します」

 承諾書の隣にボールペンを置く。リサはまた「はぁ……」と返事をして、書面にペンを走らせた。外見からは想像できないほど、豪快な字だった。きっと、小学生のほうが余程上手に書けるだろう。

「これでよろしいでしょうか?」

 いつの間にかリサはペンを置いていた。慌ててペンと書類を回収する。すべてをカバンの中に収めて向き直ると、リサも座布団の上で正座になった。

「それでは、これよりお父様の最後の告白内容を申し上げます」

 リサが無言で頷く。

「あの日、東京タワーの前にいたのは私です」

 これで果たして通じるのだろうか。依頼を受けたときからずっと不安に思っていたが、リサの表情を見た途端、それが杞憂だったことがわかった。リサは目を大きく見開いて、息を呑んでいた。告白の内容に心当たりがあるのは明白だった。

「お父様からの告白は以上です」

 そう告げると、リサは口に手を当てて笑い出した。その頬には一筋の涙が。一体、どうしたというのだろう。疑問が顔にも出ていたようで、リサは「すみません」と泣き笑いのまま小さく頭を下げた。

「思い当ることがないなんて言っていたのに、一つだけありました」

「はぁ……そうですか。それは、よかったです」

 まったく話が見えず、随分と気の抜けた返事になってしまった。だが、リサは何とも思っていないようで、笑顔を浮かべたまま、目頭にハンカチを当てている。

「あの、異議とか、質問じゃなくて、告白にまつわる話を聞いてもらうことは可能でしょうか? 私、世間話を聞いてくれるような友達もいなくて」

 意外な展開だった。依頼人――、今回は依頼人の娘だが、そう言った人物の込み入った事情を知るのは職業上あまりいいことではない。普段は立ち入らないのだが、今回はどうしても好奇心が勝った。あの不思議な告白の真相は、一体どんなものなのだろうか。

「ええ、どうぞお話しください。ここで知り得た情報は他言しないことに法律で決まっております」

「そんなに堅苦しい話ではないので、どうかちょっとした笑い話として聞いてください」

 ティーカップで唇を湿らせてから、リサは口を開いた。

「東京タワーは、私が初めてできた彼氏と初めてデートで訪れた場所です。あのとき私は十九歳で、大学生になったばかりでした。初めてのお付き合いが大学生だなんて、遅すぎるとお思いでしょう?」

 首を傾げられ、慌てて「いえ」と相槌を返したが、リサはまったく気にしていないようで、クスリと笑っただけだった。

「父はずっと建設現場で働いていたので、仕事を求めて全国を飛び回っていたんですよ。もちろん、私も一緒に。大学に入って寮で暮らし始めて、ようやく一つのところに落ち着けたんです」

 昔を懐かしむ、というよりは、もう懐かしむしかないというような諦めの表情で溜め息をつく。やはり父子家庭には計り知れない苦労があったのだろう。

「そのころ父はちょうど横浜の現場で働いていました。私は父に何でも話していたので、デートに行くこともつい喋ってしまったんです。今度、男の子と二人きりで東京タワーに行くのよ、って。そうしたら、当日、父は東京タワーまで来てしまったんです。物陰からこっそり、私たちのようすを窺ってたんですよ」

「え?」

 つい、声に出た。リサは「親バカですよね」とクスクス笑っていたが、ちょっと過保護すぎるようにも思える。ひとり親というのはそんなものなのだろうか。

「私、デートが終わってから、父に電話して怒ったんです。どうしてようすを見に来たりしたの? って。そうしたら、なんて言ったと思います? 僕は東京タワーになんて行ってないって、言い張ったんですよ」

 遠い目になって、リサは私の後ろへ視線を合わせる。振り向くと、開け放たれた襖の向こうに次の間が見えた。立派な黒塗りの仏壇。その中に遺影が二つ。いつの間にかリサは仏壇の前まで移動していて、若い女性の遺影を手に取った。おそらく、母親のものだろう。

「父と母は、父の一目惚れから始まったそうです。母はクラスのマドンナで、目立たないグループにいた父にとっては、高嶺の花だったと言っていました」

 母親の遺影を胸に抱きながら、リサはこちらに戻ってくる。

「それでも二人は結ばれて、私が生まれました。母は私が二歳のときに亡くなって……そのこともあって、父は私のことを溺愛していました。目に入れても痛くないってよく言いますが、本当にそんな感じで……」

 リサは遺影を自分の顔の横に掲げて、「そっくりでしょう、私は母似なんです」とおどけた笑顔を見せる。写真の中の女性は二十代後半ぐらいだろうか。着ているものが喪服でなければ、リサの若い頃のスナップだと言われても疑わないだろう。

「きっと、心配だったんでしょうね。だけど、過保護だと私に疎まれるのも嫌だったから、父は東京タワーに行かなかったなんて嘘をついたんだと思います」

 呆れたような、それでいて嬉しいような。柔らかい笑顔を浮かべて、リサは溜め息をつく。私もほっと胸をなでおろす。今までにない不思議な告白は、ただ一人娘を思う父親の情けない嘘を打ち明けるものだったのだ。

「でも、初デートが東京タワーなんて、なかなか古風ですね」

 すっかり仕事が終わった気の緩みからか、私はつい興味本位な質問をしてしまった。しかし、リサは不快に思う風でもなく、「そうですか?」と笑顔で首を傾げている。

「あの頃はまだスカイツリーもありませんでしたからね。それに、東京タワーは父との思い出の場所でもあるんです」

「そうなんですか?」

 リサは「ええ」と返事をして、抱えていた遺影をテーブルの上に移す。

「私の覚えている最初の記憶が、父と出かけた東京タワーなんです。たぶん、三歳くらいでしょうね。母はもういませんでしたから」

 テーブルの遺影にちらりと目線を向けて、リサは寂しそうに笑う。

「父におんぶしてもらって、東京タワーから近くのお寺のほうまで歩いていきました。ちょうど桜の季節で、お寺の境内にある桜の花が満開でした」

 桜の木の下。父の背中に縋りついて、空を見上げる子供の姿が頭に浮かぶ。きっと、東京タワーと桜吹雪の共演は、幼心にも印象深く残ったことだろう。

「そうだったんですか。そのころからこちらにお住まいで?」

「いいえ。ここに越してきたのはつい三年前くらいです。父が体を壊して仕事を退職したので、私がローンを組んでこの家を買ったんです。ずっと全国を飛び回っていたから、最後くらい、一つのところでのんびりしてほしかったのに、まさかガンが見つかるなんて……」

 またリサの瞳が潤みだす。謝ろうと口を開いたが、先にリサが「あ、でも……」と話し出した。

「三歳くらいのころまでは東京都内のほうにいたはずです。父は建設現場の仕事に就く前は豊島区の区役所で働いていましたから」

 市役所の職員が建設現場の作業員に転身するなんて意外だ。胸の内が顔にも出ていたのか、リサは苦笑しながら言葉を続ける。

「窓口業務があまり合わなかったみたいで、辞めてしまったらしいんです。あの頃はバブルの真っ只中でしたから、すぐに次の就職先が見つかると思ったんでしょうね……」

 しかし、太蔵氏の予想に反して、バブルは呆気なく弾けてしまった。子供一人を抱えた転職は困難を極めたのだろう。結局、彼は建設現場で働くことになった。リサは小学校に上がるまで、行く先々の現場にある事務所の隅で絵本を読んで過ごしていたという。

「大変なご苦労をされてきたのですね」

「今思うと、そうかもしれませんね。でも、当時は何とも思っていませんでした。父は本当に、私を大切にしてくれたんです」

 リサは遺影の中の母に呼びかけるように、笑顔を浮かべてそっと写真立ての角を撫でた。


 今日の依頼は予想に反して、今までの告白代行の中で一番心温まるものになった。久々にいい気分だった。都内に戻ったその足で、どこかで一杯ひっかけたいくらい。だが、生憎、本業の浮気調査の報告書作成業務が溜まりに溜まっていた。大人しくいつも通りのコンビニで弁当と缶ビールを買い込み、雑居ビルの三階にある事務所へ戻った。

 時刻はもうすでに午後九時。事務作業――という名の雑用を頼んでいるアルバイトの女の子はすでに帰宅しており、事務所は文字通り、私だけの城になっていた。大手事務所から独立して早や五年。古巣や同じく独立した先輩方から仕事を回してもらって、なんとか存続しているような弱小事務所だ。

 執務机の前。応接用ソファーに腰かけ、ビールのプルトップを開ける。いつもは仕事中に飲んだりしないのだが、今日は特別だ。乾ききった喉を潤しながら、目の前のテレビのスイッチを押す。三十二インチの画面に、未解決事件を取り上げた番組が映し出されて、リモコンの一を押そうとしていた指を慌てて引っ込めた。

 仕事柄、過去の重大事件や未解決事件を伝える番組はなるべく見るようにしている。何か今後の調査に活かせる情報がないとも言い切れないからだ。というのは建前で、ただ自分の好奇心を満たすためというのが本音だ。こういう事件への興味関心がなければ、探偵という仕事はまるでやっていられない。

『以上、家出人大規模調査についてお伝えしました。続いては、こちらの誘拐事件です』

 作り物みたいに真面目な顔をしたアナウンサーの言葉で、画面が切り替わる。次の事件は未解決の幼児誘拐事件らしい。すでに犯人が逮捕された過去の誘拐事件の映像がダイジェストのように流れ始める。コンビニで買った弁当の唐揚げを噛み締めながら、そっと溜め息をついた。

 子供の行方不明は特に胸が痛む事件だ。いなくなってまだ数日なら、どこか近所を彷徨っているのかもしれないと希望も持てる。だが、一週間以上が経過してしまったら。言い方は悪いが、無事な姿で再び戻ってくる可能性は低い。川底で沈んでいたり、誘拐犯の毒牙にかかって命を落としたり。

 一度だけ、行方不明になっていた子供が十数年後に誘拐犯の家で発見された、というニュースを見たこともあるが、それは本当に稀なケースだ。誘拐の場合、ほとんどが事件発生直後に犯人によって命を奪われている。

『西条あかねちゃん事件を覚えているだろうか?』

 そのナレーションと共に、一人の幼女の写真が画面いっぱいに映し出される。その瞬間、握り締めていたビールの缶を取り落としそうになった。

 画面の向こうからこちらを見つめているあどけない笑顔に見覚えがあった。今日。今さっき会ってきた依頼人の娘。下がり気味の眉、大きな瞳、すっと通った鼻梁。

 いや、まさか。他人の空似だろう。そう切り捨てようとしたが、すぐに誘拐当時のVTRが流れ始めて、食い入るように画面を覗き込んだ。

『一九××年三月。当時二歳八か月だったあかねちゃんは、家族と一緒に旅行で東京に来ていました――』

 ほら、みろ。リサは三歳ごろまで東京に住んでいたと言っていたじゃないか。東京に住んでいる人間が、旅行で東京に来るはずがない。――だが、東京の人間が彼女を誘拐したのだとしたら?

『旅行の二日目。増上寺の桜を空から見ようと家族で訪れた東京タワーで、あかねちゃんの姿が突然見えなくなったのです』

 東京タワー? 今日、何度となくその言葉を耳にした場面が一気に呼び起こされる。目の前のテレビでは、東京タワーの玄関前に設置されていた防犯カメラの映像が流れている。幼子の手を引く、二十代くらいの男。あかねちゃんと、誘拐犯らしき男と書かれたテロップ。

――あの日、東京タワーの前にいたのは私です。

 今日届けたばかりの最後の告白が頭に浮かぶ。同時に、今日リサから聞いた父親のエピソードが頭の中に反響した。

『うちは私が二歳のときに母が他界していて、それからずっと父と二人きりだったんです』

『父はずっと建設現場で働いていたので、仕事を求めて全国を飛び回っていたんですよ』

『母はクラスのマドンナで、目立たないグループにいた父にとっては、高嶺の花だったと言っていました』

『私は母似なんです』

 あかねちゃん――リサを誘拐したのは、きっと田中太蔵なのだろう。どういう経緯で知ったのかはわからないが、リサたち家族が東京へやってくるという情報を得た太蔵は、東京タワーで憧れのマドンナの娘を誘拐し、自宅へ連れ帰った。当然、これまで通り東京にはいられない。区役所の仕事を辞めたのも、きっとそのためだ。足がつかないように、全国各地を転々としてもおかしくない仕事を選んだのだろう。

 田中太蔵の告白は、一人残していく娘を思ってのものではなかった。

 急に背筋が寒くなる。現段階ではあくまで私の妄想の域を出ないが、誰かきちんとした専門家に相談したほうがいい内容だろう。幸い、この事務所が入る雑居ビルには法律事務所もいくつかある。

 思い立ったが吉日。勢いでソファーを立ち上がったが、またすぐに同じところへ腰を落として頭を抱えた。忘れていた。私がこの真相に辿り着いたのは、最後の告白のおかげなのだ。

 最後の告白の代行業者は、告白の内容を受取人以外に話すことが禁じられている。告白の受領が完了した今、告白に関わる資料もすべて、一週間以内に破棄することが義務付けられている。私にできることはもう何もない。

『どんな些細な情報でも構いません。どうか……あかねが私たちの元へ帰ってこられるよう、ご協力ください』

 三十年後のリサと言っても過言ではないくらいそっくりな顔をした女性が、涙ながらにテレビの中で頭を下げる。テロップには『西条あかり』の文字。リサの本当の母親の名前らしい。あかりは頭を上げると、司会者の質問に答えながら目頭にハンカチを当てる。昼間のリサにそっくりで、とても見ていられなかった。

 テレビのスイッチを切り、ソファーから立ち上がる。向かうのは執務机。私にも、まだできることがたった一つだけ残されている。

 電源ボタンを押すと、ノートパソコンはすぐに立ち上がった。マウスを操作し、表示させたのは法務省のホームページ。最後の告白受付と書かれた文字をクリックすると、一瞬で申請フォームへ飛ぶ。

 送り先は、西条あかり。告白内容の記入欄にカーソルを移動させ、キーボードを叩く。

――私は、あなたのお嬢さんを連れ去った人物を知っています。

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