第8話 ミリィ・ブランシェット
前回までのあらすじ: 独房に幽閉されていたジョージ・ダンヴィルが死んだ。中央警察署は〈マミー〉ことマディソン・モートを最重要捜査対象に指定する。メイベルはある思いを胸に自分も参加することを名乗り出るが、異貌都市を統治する二つの国家の思惑が絡み始め、捜査を取り上げられてしまう。その矢先に、バスターズ・オフィスに助けを求める通信が入った。
ミリィ・ブランシェットは恵まれた十六歳の少女だ――と、自分で思っている。
彼女は、昔から多くのものを恵んでもらってきた。そのことに自覚はあった。自覚を促されたのだ。物心ついたときから、お前には多くのものを与えてきたのだと周囲に言われ続けてきた。
ゆえに、恵まれているという自覚はあった。だが、実感はなかった。つまり、彼女は、まるで歴史上の人物や戦争を覚えるように自分の状態を把握していた。知識として、これが恵まれている状態なのだ、ということを知っていたのだ。
だが「ああ、今、自分は恵まれているな」と感じたことは今まで一度としてなかった。
なぜなら、ミリィはとても狭い世界で生きてきたからだ。必然的に自分と比較する対象も少なかったのである。
恵まれた十六歳の少女、ミリィ・ブランシェットは神を信じていない。
なぜ神を信じていないのか。信じることができなかったのだ。ミリィに最初に恵みを与えた人物の影響だった。私が全てを与えたのだ――その言葉を、ミリィは神の不在を意味していると解釈した。
自分は人間に全てを与えられた。環境を――名前を、知識を、技術を、肉体を、こころを、過去を、幸運を。
神はいない。いるのは人だけ。人は人に恵みを与え、人は人に恵みを与えられる。
ミリィは難しいことを考えない。十六歳には難しいし、必要なかった。彼女には単純な命題だけで充分だった。神はいない、いるのは人だけ。そして、自分は持っている。
チャイムが鳴った。三〇分間の休憩を告げる鐘だった。だが、はじめ、ミリィはその音に気づかなかった。仕切られた周囲のブースで他の研究員たちが立ち上がり、部屋を次々に出ていく音にすら、意識が向かなかった。
無言のまま、目の前の空間に立ち上がる文字列と幾何学的な図形、三次元のグラフを見つめていた。
呼吸をすることすら忘れていた。銀縁眼鏡の奥の瞳は、翡翠色に輝いている。身じろぎ一つせず、瞳を開きっぱなしにして、ただ思考の深海に沈み込んでいた。
ミリィは難しいことを考えない。考えることは苦手だったし、嫌いだった。だが、眼前に展開された膨大な数式と図形的な意味、統計を多面的に結びつけることは、彼女にとって考えるということの内に入っていなかった。こんなものは真っ直ぐに歩くことよりも簡単だった。
端的に言って、ミリィ・ブランシェットは天才だったのである。
(――痛い)
ミリィは両目に痛みを感じ、思考の深海から浮上した。涙が溢れ、視界がぼやけた。
一つのことに集中するあまり瞬きを忘れてしまうのは、ミリィの悪い癖の一つだった。
眼鏡を外して目を擦る。再び思考に沈もうとしたとき、ミリィは後ろに気配を感じた。
「ミリィ、お昼ですよ」
「……リプレーさん」
先輩が声をかけてくれたことで、ミリィはようやく休憩時間に入っていたことに気づいた。
リプレーが慈母のような眼差しを心配そうに細め、ミリィの顔を覗き込む。膝を曲げ、目線の高さをミリィと合わせている。
「また目が赤くなってる。休憩しましょう、今日の献立はあなたの好きなスクランブルエッグですよ」
「うん……。もうちょっとだけ待っててほしい」
「熱心ね。じゃあ、あなたの分のお皿にも盛り付けておくから。こっちに持ってきた方がいい?」
「うん、お願い」
リプレーは立ち上がり、両手でミリィの肩を掴み、もみほぐす。
「定期的に椅子から立つのよ? 女の子も運動しなきゃ……ほら、こんなに凝ってる」
「いたいよぉ」
「うふふ」
リプレーは気品すら感じる笑い声を漏らし、手を離した。それから優雅な足取りで部屋を去っていった。
ミリィはブースエリアを抜け、研究員共用の洗面所に行った。
鏡に顔を近づける。色素の薄い灰の髪に、褪せた翡翠の目。目の下には少し隈ができていた。申し訳程度に指で擦っておく。
成長期にも寝食を忘れて研究に没頭していたせいか、ミリィの背は低い。身体つきに女の子らしさはない。細身で、リプレーからは「抱きしめれば砕ける」と心配されるほどだ。
ミリィには女の子らしさというものがよくわからなかった。女の子らしくする理由も。必要性を感じていなかったのだ。
ブースに戻ろうとしたとき、院内に放送がかかった。
《――ミリィ・ブランシェット、直ちに所長室まで来なさい》
ミリィは踵を返した。
特段急ぐことはなかった。呼び出しは彼女にとって叱責を意味しない。というより、彼女は今まで誰かに叱られたことがなかった。
研究棟を抜け、渡り廊下へ。本棟のホールに入った。
「あ、ミリィ」
ミリィよりも背の低い集団が人工芝生の上を走り回っていた。ミリィもかつて暮らしていた孤児院〈スイートホーム〉の子どもたちだった。
ミリィは手を振っておく。子どもたちは群がってくることなく手を振り返してくる。彼らは言いつけられているのだ。ミリィを困らせないように、と。
ミリィが研究員たちの中でも抜きん出た才覚を持っていることは、誰でも知っている。彼女は子どもたちからは羨望の眼差しで見つめられ、大人たちからは何時でも嫉妬を浴びている。
ミリィは昇降機に乗り込み、五階へと上がった。
五階は無音だった。誰もおらず、静まり返っていた。長い長い廊下の壁には、肖像画が並べられている。豪奢だがシックな雰囲気で、床には絨毯が敷かれている。
ミリィの靴音も絨毯に吸収される。
真鍮製の板が貼られた木扉の前で立ち止まる。ノックをし、自分の名前を告げた。
「入れ」
ミリィはゆっくりと扉を開いた。
中からハーブの匂いが漂ってくる。暖房の効いた一室に、ミリィは足を踏み入れた。
「今日はいい日だ」
フォークを動かす音が聞こえる。ミリィは部屋の奥の厳めしい机に向かった。緊張はなかった。この施設の最高責任者を前にしても。
アンケミア社屍者技術統合開発研究所所長――ヘリアス・エメルハド。恰幅のいい身体を椅子に沈み込ませ、肉の塊を頬張っている。
彼こそが、ミリィ・ブランシェットに全てを与えた偉大な男だ。
「喜べ、ミリィ。君が理論を構築し、実験を主導し、開発を実現させた|拡張自我式流動粒子炸裂爆弾が、都市軍に実戦配備されることになった」
ヘリアスは頬を緩ませ、酒杯を呷る。勢い余って口元から液体が一筋、顎まで伝った。
「都市軍の、どこの部隊ですか」
ミリィがすかさず聞いた。ヘリアスは酒杯を机に置き、にやりと笑う。
「さすがはミリィ・ブランシェット、我が祖国の陰なる女神。素晴らしい愛国心だ。部隊の名は〈ダンス・マカブル〉。死の舞踏を意味する」
「それで……」
「もちろん、帝国を信奉する屍者によって構成された、精鋭中の精鋭だ」
ヘリアスは再び酒杯を手に取り、立ち上がった。
「我がスロベルク帝国が、憎き神皇国の支配から脱するための足がかりとなるだろう。目障りなレキュロス連邦をおののかせ、神皇国の優越を奪い、最後に我々が世界を引き継ぐのだ」
興奮して高笑いをするヘリアス。ミリィは充実した気持ちだった。自分が帝国の役に立てたのだという事実を、噛みしめていた。自分が今まで与えらてきれたものを返すことができたのだと確信できた。
ミリィ・ブランシェットは帝国派の少女だった。ただし、彼女は自分が生まれた故郷を、国を知らない。だが、行ったことがなくても、彼女にとって帝国は愛すべき母だった。そのように教えられたのだ。
いつの間にかヘリアスの哄笑は止んでいた。
「……所長?」
こちらに背を向けて直立したまま動かなくなったヘリアスに、ミリィが声をかける。
ぱん、とヘリアスの頭が弾けた。
脳漿が勢いよく飛び散った。流血が壁に張り付き、垂れはじめる。床は一瞬で血の海だった。
ミリィは、机に置かれた料理に鮮血が降り注ぐのを見た。ソースのようになったのを見た。
それでも、ヘリアスは直立したままだった。酒杯を片手に、頭を失った状態で立ち尽していた。
「……ひ」
ミリィの喉の奥から奇妙な声が漏れた。一歩後ずさる。まだ逃げようという発想には至っていなかった。ただ脚に力が入らなくなり、体勢が崩れたのだ。
さらにあり得ないことが起こる。ヘリアスの弾け飛んだ頭から、何かが這い出ようとしていた。赤い触手。鮹のような何かが、うねりながら天井に向かって伸びていた。
触手の数は一本ではなかった。次々に這い出てくる。
そして、赤い肉塊と目が合った。
明らかに眼球だった。血走った目が、こちらを見ていた。それに見つめられた瞬間、ミリィは我に返った。
ミリィは絶叫しようとした。だが、できなかった。喉が震え、あらゆる筋肉から力が抜け、何も出てこなかった。
ミリィは床を這って扉まで辿り着く。
その背後では、ヘリアスの肉体から新しい生命が誕生し、動きだしている。
肉塊はもはや生命体と呼ぶしかなかった。全身が瑞々しい赤で覆われ、腕を生やし、脚を生やし、歩き始めている。二叉に分かれた尾を床にたたきつけ、威嚇のような声を上げる。
口は縦に裂けた。左右に短剣のような牙の列が覗く。
四つの眼球を別々に動かす。
ミリィは廊下へ出た。そこでようやく立ち上がれるようになった。何が起こったのかは全くわからなかった。だが、逃げなければならないことだけはわかっていた。
昇降機は使わない。待ち時間が惜しかった。あの怪物に追いつかれるわけにはいかなかった。
階段を使い、一階まで全速力で駆け下りた。何度も転びそうになった。
一階はホール。地獄絵図が広がっている。
多種多様な生命がのたうっていた。どれもが赤く、この世のものとは思えぬ醜悪さだった。複眼の魚類。芋虫の身体に並んだ人間の目。脳が透けた馬。三つの脚で立つ鳥。平べったく床を這うエイの背中には巨大な口。
彼らの足下には、〈スイートホーム〉の子どもたちの残骸。可愛らしい靴や服や帽子やらが血まみれでうち捨てられている。
耐えられなかった。ミリィは嘔吐しながら走った。ブースエリアに戻ったとき、場違いなチャイムが鳴った。昼休憩が終わる時間だった。
ミリィは半狂乱で端末を操作した。次々に映像が立ち上がる。
どこでもいい。助けてくれるなら、誰でもいい。
ミリィの目が捉えた――〈バスターズ・オフィス〉の文字を。
この状況でも衰えない電子干渉技術で、ミリィは禁じられた外部との接触を図る。こんなときに禁止事項などどうでもよかった。なりふり構っていられるはずもない。
警告音を黙らせ、通信を繋げる。
《……誰?》
「助けて」
声は少ししか出なかった。代わりに涙がこぼれた。
《なに?》
そのとき、ミリィは陰に気づいた。自分に被さる陰を。
天井から蝙蝠がぶら下がっていた。だが、もちろんただの蝙蝠であるはずもない。全身が血濡れで、その顔面は蝶のようだった。長く渦巻いた口吻に、巨大な複眼を三つ備えていた。
「みりィ、オひルデすヨ」
どこからか聞こえた声に、ミリィの視界がぼやける。
「――たすけて、おねがい」
今まで与えられてきた全てをなげうってでも、ミリィは助かりたいと思った。