第5話 過ぎ去った夜と変転
前回までのあらすじ: 確保対象者ジョージ・ダンヴィルの体内から現れたグロテスクな肉塊を従えていたのは、マディソン・モート――通称〈マミー〉だった。常軌を逸した姿の〈マミー〉はすぐに姿を消すが、メイベルは何かを知っている様子で、動揺を隠せない。そして彼女がノエルに告げた〈マミー〉の恐るべき計画――それは、屍者を生殖させるというものだった……。
ノエル・ルインは夢を見ない。
眠りが深いわけではない。むしろ浅い方だ。物音一つすれば、意識は自動的に浮上してくる。危険が迫っているときすぐさま対応できるように、手許には常に流体刀の柄を置いている。
それ以上に夢を見ることのない理由とは、思い出すべき事がないからだ。整理すべき記憶がない、というべきかもしれない。
そもそも、ノエルは夢というものが何なのか、どういうものなのか、何も知らなかった。
なぜなら、彼は、今まで一度も夢を見たことがないからだ。
代わりに、ノエルは毎朝あることを思い出す。夢ではない。意識が覚醒してから脳裏に響く声があるのだ。
――亡霊たれ、ノエル・ルイン。亡霊としての責務を果たすのだ。
そして、今朝もノエルはその声を聞いた。
誰の声ともわからない。性別すらわからない。ただ、はっきりと聞こえるのだ。
(亡霊、か)
ノエルは声の意味を考えながら、自室で出かける支度をしていた。
寝間着を床に脱ぎ捨てると、凶悪な肉体があらわになった。
傷だらけの、鍛え抜かれた肉体。贅肉と呼べるものは一切ないが、全身は仕事上で直面するあらゆる過酷な環境の要求を満たしている。
最低限磨き上げた肉体で、最大限の能力を発揮する。生きるという単純な動機のために研ぎ澄まされている。
上着を探す。部屋の隅に無惨にうち捨てられているのを発見した。
ノエルは、そちらに向かう途中、全身鏡の前ではたと立ち止まり、自分の身体を映した。
傷だらけの肉体。記憶を持たないノエルには、自分の身体のことすらわからない。いつ、どこで、何をしてついた傷なのかが。
そして、なぜ自分が屍者になったのかすら。
心当たりはないが、推測はある。
〝大戦〟――かつて、この巨大な大陸を統べるエデノア神皇国陣営と、東のセインフロド共和国陣営が中心となって巻き起こした渾沌の時代。屍者たちがこの街で開発され、実戦で敵地に投入された史上最初にして最大の戦争。
そこに自分はいた――のだろう。……いたのかもしれない。
ただの予測だった。〝大戦〟の記憶や情景といったものは全く頭に浮かばなかった。
ということはつまり、自分は、屍者になった後――そして〝大戦〟が終わった後に記憶を喪ったのだろうか。
それは確かなことのように思えた。そうと考えなければ辻褄が合わないことが多すぎた。
上着の袖に腕を通し、腰の帯に充電済みの刀の柄を差し込む。機動に適した靴に足を入れる。
玄関に向かおうとして、自室の立体光学映像を点けたままにしていることに気づく。自室では報道番組が流れっぱなしだった。
《……先日、レキュロス連邦がジハルダ砂漠で行った大規模軍事演習に対し、ササン・サリバン神皇国報道局長は、近隣諸国の関係を闇雲に緊張させるような演習は控えるべきだ、との声明を発表しました》
女性報道記者の声が続く。
《また、レキュロス連邦と聖地リヴガルドおよび碧海の利権を巡って対立しているスロベルク帝国は、昨夜の報道会見で神皇国との関係の強化を図りたいとの声明を発表。神皇国報道局の返答と動向に注目が集まっています……》
ノエルは頭の中で地図を展開する。エデノア神皇国とスロベルク帝国の共同統治・友好の場でもある異貌都市――その真東。レキュロス連邦は大部分を砂漠に覆われている。鉱物資源の輸出で収入を得ていた連邦だったが、近年、その埋蔵量の減少が危険視されている。確か、近々軍事侵攻を開始するという不穏な噂も出ていた。
現在スロベルク帝国が領有し、聖地リヴガルドに連なっている碧海は、海底から天然瓦斯を多く産出し、また、貿易と航海に大きな影響力を持っている。レキュロス連邦が真っ先に求めるとすれば、碧海に面する港湾都市・アザンだろう。
ノエルはそこまで考えて立体光学映像を投影する装置の電源を落とした。
思考をこの街のことに切り替える。もうすぐ出勤の時間だった。
責務を果たす時間だった。
●
ノエルは玄関に掛かった小さな看板を眺めていた。
『バスターズ・オフィス』
ノエルは建物を見上げた。四階建ての灰色のビルだ。華やかさは一切なく、有象無象の直方体、工場で製造された既製品といった感じだ。
だが、ここに違いなかった。念のためノエルは腕の端末を起動し、画像と見比べる。やはり間違いない。
インターフォンを押そうと指を伸ばす。だが、後ろから割り込んできた指が先に押した。
「メイベル・シュピーゲルか」
振り返ったノエルの前に、背の低い赤髪の少女。艶やかな髪は、陽射しによって高貴な輝きを放つ。
「よく来たわね」
メイベルはぶすっとした表情で言った。ノエルと彼女の視線は噛み合わない。
「機嫌が悪いのか?」
「……いい? 機嫌が悪そうに見える人に向かって、そんなことを聞いちゃ駄目」
口調も明らかにぶっきらぼうだ。ノエルとしては気遣いのつもりだった。それに、先に彼女の状態に気づけただけでも進歩だと、彼は思っていた。だが、またしても間違えてしまったようだった。
――ようこそバスターズ・オフィスへ。
昨夜、メイベルにかけられた言葉を思い出す。そして、その後に起こったことも。
「あれから大丈夫だったのか?」
端末で各種防犯装置を解除したメイベルは、扉を開けて中へ入ろうとした。だが、ノエルが差し込んだ言葉にぴたりと動きを止める。
「……忘れなさい、全て」
「ああ、忘れた」
ノエルはぞくっとするような身の危険を感じ、すぐに返事をした。
メイベルは建物に入った。何も言われていないが、ノエルも続く。
最初の部屋は応接室のようだった。ゆったりとしたソファと椅子が中央の机の四方に据えられている。豪奢とまではいかないが、気品はある。清掃が行き届いていて、小綺麗だった。設けられた机に埃は被っていない。珈琲の薫りが室内に満ちていた。
「ドクター?」
メイベルが歩きながら奥へと呼びかける。木製の扉を開き、応接室から廊下へ。メイベルが壁のスイッチを押して電気を点けた。
「まだ来ていないんじゃないか?」
「あなたは黙ってなさい。何も知らない新人なんだから」
メイベルの口調は棘だらけだ。
廊下の突き当たりの扉の前で、メイベルはノエルを振り返る。
「この先が事務所よ」
ドアノブが捻られる。開かれた先には、言葉を失うような光景が広がっていた。
びっしりと文字が並んだ書類の山。無数の付箋を吐き出す書物の山。何だかわからない機械の山。それらの隙間を縫うように、幾本もの配線が床をのたくっている。
「……いつ見ても、気分の良いものじゃないわね」
メイベルはため息をつき、意を決したように進みはじめる。危うい楼閣を跨いだり屈んだりしていく。
ノエルは五感と運動神経を研ぎ澄ました。猫のような忍び足ですり抜けていく。
――が、目の前の書物の山が揺らいだ。ノエルは目を丸くした。両手を前に伸ばし、受け止めようとするも、幾何学的に積み上がった分厚い書物たちはばらばらに降り注ぎ、ノエルに爆撃を見舞った。
後ろによろめいたノエルは、ほんの一瞬だけ注意が逸れた。だが、その一瞬が命取りとなった。靴底が紙の山を踏み、滑った。
ノエルは無言のまま、もんどり打って倒れた。
「――軟弱ね」
メイベルがこちらを見下ろしながら、嘲笑っていた。
「……わざと山を倒しただろ」
「さあ、何のことかしら? ほら、寝っ転がってないで早くこっちに来なさい」
メイベルはノエルをおいて巧みに奥へと進んでいった。ノエルも降り積もった書物と書類をどかして立ち上がり、進みはじめた。
そして、ついに、このはた迷惑な迷宮の主が目に入った。
「うう……うるさい。寝てる人を起こしてはならないと、ヴィクトリア大会議の不文律およびバスターズ・オフィス憲法の第一条に定められているんだよ……。ちなみに第二条は、第一条に優越する法律をつくってはならない……」
およそ寝言とは思えない妄言が聞こえてくる。
部屋の深奥の机に突っ伏している白衣。皺だらけの上、薬品によってまだらの彩雲を描いている。
白衣が身じろぎすると、拍子に紙の束と何かの辞典が音を立てて落下。それでも、白衣は起き上がる気配を見せない。
メイベルは白衣に近づくやいなや、
「ドクター、起きて」
「ぎゃ」
すぱーんと頭をはたいた。白衣が勢いよく顔を上げる。
室内にもかかわらず遮光眼鏡をした女。ただし、眼鏡のフレームはずれていて、ブラウンの瞳が驚きに見開かれているのが見えた。黒茶の髪は乱れている。真っ赤な口紅が目を引いた。
「メイ……寝てないよ?」
「寝ぼけないで。夢の国で寝てる人は起こしてはならないとかいう法律をつくってたわよ」
「……うん? 仮に、その法律が定められていたとすれば、メイは私を起こしてはならなかったはずだよ? ということはつまり、法律そのものがメイがつくりだした妄想で、メイの方こそ寝ぼけていたということになるね」
そう言って、ドクターは大きな欠伸と伸びをした。
「法律は存在していたけれど、私には治外法権が適用されているわ。私はヴィクトリア大会議とバスターズ・オフィス憲法が存在する国の国民じゃないわ」
メイベルはすげなくドクターに言い返す。
「まったく、せっかく円周率が割り切れるところだったのに……メイが起こすから忘れちゃったじゃないか」
「寝ていたことは認めるんだ?」
「寝てない。意識を失っていただけだ」
ドクターはそこでようやくノエルを目に入れた。
「……えーと、どなた?」
ノエルとメイベルが同時に嘆息した。二人は顔を見合わせ、同時に逸らした。
「ノエルだ。ノエル・ルイン。昨日からバスターズ・オフィスに執行官として配属された」
「へえ……君が例の……」
ドクターが立ち上がり、机を回り込んでくる。至近距離からノエルの顔や全身を無遠慮に眺め回す。次いで遮光眼鏡の縁をつまんだ。すると、眼鏡の表面に文字列が浮かび上がった。ノエルたちからは文字は裏返って見えた。
ドクターが視線を文字列の上に滑らせる。
「俺について、何も聞かされていないというのは本当か?」
ノエルがたずねた。ドクターが顔を上げる。
「うん……顔を見たのも今が初めてだよ」
ドクターが再び眼鏡の縁をつまみ、文字列を消した。遮光眼鏡に戻り、瞳が隠された。
「よかったらさ……君のデータと、君の過去を知りたいんだけど……いいかな? いや、もちろん断ってくれてもいいし、言いたくないことについては、喋らなくて大丈夫なんだけど」
ドクターの歯切れが悪くなる。背後でメイベルがやれやれといった表情をしている。
「構わないが……俺も何も知らないぞ」
「嘘でしょう?」
メイベルが声を上げる。
「よく考えてよ、ドクター。この男が私たちに毒を仕込む気だったり、情報を盗み出したりするために差し向けられたという可能性もあるでしょ? 今すぐ身体を縛り上げて隅々まで身体を検査するべきよ」
「ま、まあまあ」
「俺は構わない」
ノエルが平然と言い切った。メイベルがわずかに目を丸くした。
「俺は俺を信用できていない。こちらから頼むところだった」
「……ほら、本人もこう言ってるし、いいでしょ?」
「……そこまで言うなら……」
ドクターが遮光眼鏡を指で押し上げる。
「……じゃあ、着いてきて」
ドクターが紙の山の上を歩きだす。ノエルも遠慮無く踏みつけながら後を追う。
「……絶対、正体を見破ってやる」
メイベルはノエルをきつく睨みつけていた。
昨夜の捜査ではバスターズ・オフィスの一員として認めるなどと言ってしまったが、一晩経った今、その考えはどこにもなかった。
八つ当たりだとはわかっている。それはある意味で彼女の虚勢でもあった。
まだ心の整理がついていないことを自覚する。メイベルは昨晩、涙に枕を濡らして泥のように眠った。
――あれから大丈夫だったのか?
あれは、ノエルなりの気遣いだったのだろうか。だが、その優しさが嫌だった。
虚勢を張らなければ、自分を保てそうになかった。
そして、今日は昨晩の捜査の報告をしなければならない。そのことが、メイベルの気をより暗澹とさせていたのだ。