第4話 灼かれた肌
前回までのあらすじ: ノエルの刀とメイベルの骸冑によって拘束されたダンヴィル。メイベルはノエルの実力と、彼がバスターズ・オフィスの一員となったことを認める。だが、そのとき突然、ダンヴィルの体内から赤黒い〝何か〟が溢れだす……。
ノエルもメイベルも言葉を失っていた。醜悪なスライムの大口からは、確かに言葉が聞こえた。
――まったく、うちのボスも酷なことをさせるよ。
そう言ったのだろうか。にわかに認めがたい。人間以外に人間の言葉を介す生き物を二人は知らないし、ましてや目の前の赤黒い塊を生物だと認める気も起きなかった。
まるでスクランブルエッグだ、とメイベルは連想して、勝手に不快になった。内臓のスクランブルエッグ……。
ごぽ、と肉の塊が溶岩のように泡立った。メイベルは顔を逸らした。本能も理性も、どちらもこの汚物を直視することを拒んでいた。
「ミにくィ、カァ?」
塊は愉快そうに、それでいて哀しそうに問いかけてくる。声は掠れたり甲高くなったり、低くなったりする。
たちまち気分が悪くなってくる。不協和音を聞かされているからというよりは、この肉塊に自分たちが認識されているという事実自体が、受け入れがたいほどに不愉快だった。
「お前は誰だ? ジョージ・ダンヴィルなのか? それとも違うのか?」
ノエルがたずねた。その声は、メイベルが今まで聞いてきた――といっても、まだ出会って数時間だが――彼の声の中でも、最も柔和なものだった。まるで赤子に言葉を教えるかのような慈しみすら感じられそうだった。
だが、ノエルは腰を低く落とし、刀を構えたまま微動だにしていなかった。警戒は緩めず、未知なるものは刺激せず。そういう態度を貫いていた。
ノエルの問いに、肉塊が反応を示した。一際大きなごぼ、という音と共に、肉塊が縮んだ。その身じろぎに、寒気が止まらなかった。芋虫が地を這っている様に嫌悪を覚えるような感覚に近かった。
「わ、ワわ、わわワたシは、マみぃ」
「……マミー? 木乃伊か? それとも母親?」
まず、目の前の塊はどう見ても木乃伊には見えない。干からびていない――むしろ瑞々しいくらいだった――し、人の形すら留めていない。
かといって、母親にも見えない。どのような生命体でも、こんな肉塊を母に持つことなど御免被るはずだ。
「ワタシノ、コォどネえムだ」
「暗号名?」
「ソーだ。このまちをはめツさせルもノの名ダ。おボえテおクとイい」
「破滅?」
「イズれわカル。わかっタとキにハ、全てがテ遅れだろウがな」
「なるほど。生かしておけないな」
ノエルが構えをとった。脚に力を込め、地面を蹴りつける――その寸前。
「止めておけ、執行官」
頭上から声が掛かった。男のしゃがれ声だった。ノエルもメイベルもはたと見上げた。三階建ての家屋の屋上に、何者かが立っていた。
「誰だ」
ノエルの敵意が頭上に向けられた。
屋上の影が、ゆらりと宙空を舞った。闇に浮かぶシルエットは、確かに人型だった。だが、決定的に人と違う箇所があった。翼がついている。両手足とは別に、背中に生えた一対の羽。それをはためかせ、三階から路地裏へと降り立った。
あらわになった姿は、さらに人間とはかけ離れていた。
その全身は布で覆われていた。何重にも巻かれた白い包帯。露出はといえば鼻と口、そして背中に生えた一対の翼ぐらいのものだった。
その双眸すら、どちらも包帯で隠されていた。
まさに木乃伊と呼ぶに相応しい風貌だった――翼さえなければの話だが。
だが、その翼は突然消えた。包帯男の背中に吸い込まれるように消失した。どうやら出すのもしまうのも自由自在のようだった。
こうなってしまえば、いよいよ木乃伊のそのものといった風貌だ。
「私の名前は〈マミー〉だ」
メイベルは混乱していた。ジョージ・ダンヴィルを確保したと思えばその中から気色の悪い肉塊が現れ、さらに同じ名を名乗る、翼の生えた木乃伊が現れたのだ。
「マミーだと? この化け物もそう名乗ったぞ?」
ノエルはあくまで包帯男に刀の先を向けていた。彼にとってはこの男の方が脅威のようだった。先ほどのダンヴィルとの戦闘で発揮した五感があれば、肉塊の動向を視界無いでも把握できると踏んだようだった。
今は、この敵か味方かわからない包帯男をどうにかするべきだった。
「こいつは……私の子供、子分みたいなものだ」
ノエルの瞳がぎらついた。敵の親は敵に違いない。誰だって理解できる摂理だ。
包帯男は醜悪な子分の方を向いた。眼は覆い隠されていたが、正確にこの場を把握しているようだった。
「四〇二番。駄目だろう、外に出てきちゃ。合図があるまで大人しくしていなければ。それに、マミーは俺の名前だ。君にはエイブラハムという名前を授けたはずだ」
四〇二番、そしてエイブラハムと呼ばれた肉塊は動きを止め、沈黙していた。
ふと、メイベルは思った。四〇二番の他に、一から四〇一番までが存在していたのだろうかと。
包帯男もまたしばし黙った。だが、突然首を横に振った。
「駄目だ。やり直しはない。君は失格だ。種に戻れ」
まるで無言の肉塊と意思疎通できたかのような反応だった。そして、それが契機となったようだった。四〇二番――またの名をエイブラハムが急速にしおれていった。水分が失われている。肉塊は小さく萎み、やがていなくなった。残骸は少しも残らなかった。
後には依然として気絶したままのジョージ・ダンヴィルが残された。
次々と起こる奇怪な現象に、メイベルは呆然としていた。
「どういうことなの……」
「どういうことか説明してもらおう、マミー」
「実験だよ」
マミーが即答する。
「より完全な繊維生物を生み出すための、な」
「繊維生物?」
「はあ、一体何が良くないのだろうか……」
マミーはノエルを無視して自問しはじめる。
「まずは完全な繊維生物の定義を確認しよう。宿主を必要とせず、自律して活動する繊維生物。しかし依然として問題なのが、転生繊維自体、宿主の脳系統の回路を模倣して成長するという点だ。これこそが屍者が蘇生する原理なのだが……この時点で転生繊維の素材となる始原菌は宿主無くして系を発達させられないということになる。それでは意味がない。完全な繊維生物は交尾を行い、種として繁殖できなければならない」
マミーはうろうろと路地を歩き始める。
「始原菌が屍者の思考と運動を最適化するというアーキア先行理論を適用できないだろうか。人間の脳機能の無駄や退化した領域、ナイトヘッドを再利用することで屍者は生者を凌駕した能力を手に入れたという話だったな。……では、脳死体に繊維を埋め込むとどうなるか? 自我を持たないが電位変化は認められる脳と繊維の化学反応……識閾野が活性化したとき、目覚めた者の意識は人と繊維のどちらが支配しているだろうか?」
「何を言っているんだ――」
ノエルは譫言に夢中なマミー本人でなく、メイベルに解説を求めた。
「マディソン・モート……」
メイベルは震え声で呟く。顔からは血の気が引き、青ざめていた。
「誰の名前だ?」
「聞いたことがあるの。〝大戦〟で屍者科学のプロフェッショナルとして、戦地で負傷した兵士を敵味方問わず回収し、強制的に屍者に変えて最前線へ送り出した科学者……」
メイベルの脳裏に炎がちらついた。煙の悪臭が漂い、灼熱が肌を掠める。
――お姉ちゃんには恋人がいたんだっけ。確か名前は――。
途端に、メイベルは自分の身体が爆炎に呑まれたのを自覚した。全てを灰にする全き炎が、彼女の意識すら焼き尽くした。
「大丈夫か! メイベル!」
くずおれたメイベルに、ノエルが駆け寄った。メイベルは両膝を地面につき、両腕で自らの身体を抱いた。震えた声を紡ぐ。そのたびに喉に炎が入り込む。
「マディソンは……屍者を……生殖させる……気よ……」
「――馬鹿な。できるはずがない」
ノエルが吐き捨てる。この屍者連続破壊事件は、マディソンの実験となんらかの関係がある。そしてその実験の目標は、屍者の生殖だという。
「可能だよ。少々コツがいるがね。俺もあと一歩なんだ」
マディソンはいつの間にか動きを止め、こちらを見ていた。包帯に隠された双眸に、確かに見つめられていた。
「しかし、やはりあれが必要なことに変わりはないな。ふむ、もう少しの辛抱だな」
マディソンは一人で得心し、踵を返して歩きだした。
「……ところで」
だが、マディソンは立ち止まり、ノエルたちを振り返った。
「そこの少女は、なぜ私の名前を知っている?」
「答えなくていい、メイベル」
「――メイベル?」
マディソンは首をひねる。
「聞いたことのない名だ」
今度こそマディソンは二人に対する興味を失ったようだった。音もなく翼が現れ、はためかせた。次の瞬間には空へと駆け上がっている。狭く周囲に高い建物がそびえる路地からでは、すぐに見えなくなった。
ノエルと、メイベルと、ジョージ・ダンヴィルだけが残された。
間もなく警察がダンヴィルを拘束しにくる。だが、事件はこれで終わりではない。
まだ何も終わっていない。
まだ何も知らない。