第3話 流体
前回までのあらすじ: 互いに反発し合いながらも事件現場に乗り込んだノエルとメイベル。その矢先、二人に対し確保対象者・ダンヴィルが奇襲を仕掛け、ノエルにとっての初陣が始まる。
ダンヴィルが二つの刃を放つ前に、ノエルが腰に提げた筒を掲げた。
全身が深黒の装甲で覆われていたために、そこにあることすらメイベルには気づけなかったものだ。それは一見、懐中電灯のように見えた。しかし、筒から放たれるのは光ではなかった。
筒の先から鈍色の液体が迸った。かと思えば、液体は宙空で弧を描き――そのまま静止した。
そこだけ時が止まったかのようであった。鈍色の軌跡は地面に達することなく、寸前で固まった。
ノエルが筒を素早く振った。すると、鈍色の液がしなった。まるで鞭のように。それは液体とも固体とも言えない流動的な動きだった。
蛇の威嚇体勢のようにもたげられた鞭が垂れ下がる前に、ノエルが筒のトリガーを指で押し込んだ。瞬間、曲線を描いていた鞭が真っ直ぐな刃と化す。その様は、いきなり蛇が痙攣でもしたかのようだった。
そこまでして、メイベルはようやく何が起きたのか、その武器が何なのかに思い至った。
東洋に伝わる刀。しかし、ただの刀ではなかった。まるで蛇腹のように、刃が勢いよくしなる代物。それだけでなく、今のように硬化制御プラグを搭載し、あまねく存在を両断する片刃にすることもできる。
放出された刀身は分子を精密かつ均等に分布させた流体鋼で構成されていて、電気が流れることで形状と状態を自在に変化させる上、化学的な組成の純度の高さも相まって凄まじい切れ味を誇る。
まさに業物と呼ぶべき逸品だった。
ぎらぎらと輝きを放つ二メイトル余りの刃を、ノエルが構える。ダンヴィルが後ろに下がった。一歩だけでなく、二歩、三歩と。そうでもしなければ刃の切っ先が鼻先に触れそうだったし、あまりの迫力にそうせざるを得なかったという様子でもあった。
「骸冑を使わずに刀一振りか? 侍気取りも大概にしろ。命取りになるぜ?」
「そういうお前も暗殺者気取りじゃないか」
「俺がするのは暗殺でありながら、芸術であり、スポーツだ」
ダンヴィルが刃を放った。風を唸らせながら二つの凶器がノエルに迫った。
ノエルの眼前で鮮烈な火花が散った。路地の暗闇が一瞬だけ閃いた。二つの赤い花弁はほぼ同時に輝き、一瞬にして消えた。
刀身で襲い来る刃を弾いたのだ。だが、ダンヴィルはこれしきのことで驚いたりはしなかった。最初の二発はあくまで牽制と様子見だった。
屍者はその肉体の仕組み上、生者よりも遙かに反射・運動神経、動体視力、感覚に優れる。だから、間合いの敵を斬り伏せるための刀に飛び道具を弾かれることなどもはや一般的なのだ。
ダンヴィルは臆することなく追加の三つを放ち――一拍おいてさらにもう一撃を繰り出した。
先行する正確無比な三発は、どれもノエルの顔面めがけて飛来した。ノエルは刀をわずかに移動させ、三つをはたき落とした。再び閃火が現れた。
火花が消えるのは一瞬だが、生じる隙はそれ以上に長い。ダンヴィルの得意な戦法だった。最初の三発が散らす光を目眩ましに、真打ちを放つ。遅れて投擲した一撃は、強力な神経毒が塗布された刃だった。
研ぎ澄まされた動体視力と情報処理能力、判断力が飛び道具をはたき落とすのだとしたら、まずは視力を奪うべきだ。なぜなら、視界に入ってきた光景をもとに判断を下すという性質――感覚細胞から脳を経由して運動神経に信号を送るというプロセスは、屍者といえども変わらない。多少処理速度が速くなることはあるだろうが、そもそも視界を断ち切ってしまえば問題にならない。
相手の鋭敏な視界を潰すことで、混乱と遅れを誘う。眼は最も重要な感覚器官だと、ダンヴィルは思う。眼があれば、物体の外見や色からその他の感覚を補うことができるからだ。匂い、手触り、味、危険性。そういったものの予測が欠け落ちることは、死地ではそのままあの世へ直結する。
そして、この場においても――暗い路地裏においても、その摂理は不変だったし、むしろ顕著と言うべきだった。
だが、ノエルは神経毒の一撃を容易く弾いた。刃はあさっての方向へと飛んでいった。
さしものダンヴィルも驚愕に唸りかけた。そのダンヴィルに、ノエルが声をかける。
「視界を奪った程度で俺を殺せると思ったのか? 視力を他の四つの感覚で補う技術などありふれたものだ」
「……なんだと」
驚愕と畏怖を堪えきれず、ダンヴィルは呟いた。
ノエルがさもありなんといった様子で言う。
「肌感覚で風の流れがわかる。風の流れがわかれば物体や建物、障害物、人間の位置が特定できる。聴覚で何が起こっているかがわかる。何秒後、どこに何が移動するかを推測できる。嗅覚と味覚で物質の組成がわかる。風に乗った微量の物質の味や匂いを嗅ぎ分けることで可能だ。例を挙げれば、たった今お前の放った刃に塗られていた神経毒はアルカロイド系のd-ツボクラリン。医療現場では骨格筋弛緩剤としても使われているもので、ツヅフラジ科の植物から得られる」
「――っ」
ダンヴィルの眼に明確な恐怖の色が浮かんだ。
手に残る刃は二発。仕留めるのに足りるわけがなかった。
予備の刃はまだ沢山ある。彼の羽織るコートの内側に、足の裏に、口内に。だが、もはや出し惜しみをしている場合ではなかった。
彼の信条――指一本触れずに相手の命を奪う――を破ってでも、ダンヴィルは生き延びたかった。
至高の暗殺者を自負する彼は、美的な殺傷方法を追究していた。ナイフだけを用いた、獲物を最も美しい姿にして、なおかつ汚れの出ないような殺し方を。そして、その探究に終わりはない。だからこそ、彼は指一本触れないという最低限の条件を満たしつつ、さらにより高みを目指す。
今からダンヴィルがすることは、暗殺者であり、芸術家であり、選手である彼の教義に確実に反するものであった。だが、もはや背に腹はかえられなかった。
(俺の骸冑は白刃戦に向かない……。仕方ねえ、ここは最低限の勝ちを拾うしかない!)
ダンヴィルはズボンのポケットに潜り込ませていた拳銃のグリップを握るやいないや、素早く抜き、構えた。
途端に、その彼の右手が、拳銃ごと砕け散った。
血液やら金属片やら骨やらが一挙に弾けた。ダンヴィルが絶叫し、くずおれた。
「今の今まで、私のこと忘れてたでしょ」
ダンヴィルはぼやけた視界でもう一人の執行官を見た。メイベルの骸冑化はとっくに終わっていた。彼女はどこか得意げに左腕を掲げていた。
彼女の左腕に現れていたのは、金属製の腕――強化装甲機腕と呼ばれる、腕を負傷した兵士を戦場に送り返すための義手と揶揄される代物――だった。金属に鎧われたことで、一回り大きくなっていた。
その腕は、闇夜にぼうっと浮かび上がっていた。光っているのだ。妖しい青白さが、金属製の腕の表面に毛細血管のような複雑かつ不規則な紋様を描いている。
「ジョージ・ダンヴィル。あなたを複数の屍者損壊の容疑で拘束する」
メイベルの左腕がダンヴィルの右脚に向いた。
ダンヴィルは、目の前で自分の両脚が立て続けに粉砕される様を見ることになった。
メイベルの腕の輝きが増した。瞬間、手の平から何かが飛び出した――といっても、あまりの速さに、屍者であるダンヴィルでも一瞬しか見えなかった。超高速で放たれた何かが、ダンヴィルの右膝を貫通し、アスファルトにまで突き刺さった。血飛沫が上がり、骨が爆ぜる聞くに堪えない音がした。
ダンヴィルは獣のような雄叫びを上げ、上体をもがき動かした。必死になって膝と地面を固定した金属の棒を抜き取ろうとした。だが、地面に深く突き立った金属棒は、まるでびくともしない。
「悪いけど、屍者を拘束するにはこれが一番効率的なの」
メイベルは極めて淡々と業務をこなした。左手の平がダンヴィルの左膝に添えられる。
「暴れないで」
「やめろっ!」
ダンヴィルが唾をまき散らし、吠える。直後、無情な音がする。
だが、ダンヴィルはとことん運が悪かった。砕け散った左膝の皿の破片は、ダンヴィルの右目に一直線に飛び込んだ。あまりに鮮やかな軌道だった。まるで計算されたかのように、眼球を突き破り、網膜を貫通し、その先の大脳新皮質に食い込んだ。
あっぎゃおがらげえ! ダンヴィルは狂犬病にかかった犬のような悲鳴を上げた。
全身が痙攣し、尿がとめどなくまき散らされた。同時に胃液が口から吐き出され、ありとあらゆる分泌物・排泄物と混ざって巨大な水溜まりをつくった。
もはや正常な意識を保っていないダンヴィルは、糸の切れた操り人形のように動かなくなり、沈黙した。
「――おい、殺したのか?」
ノエルが珍しく焦った声を出す。
「屍者はこの程度では死なない。今は意識を失ってるだけ。しばらくすれば体内の転生繊維が諸々の組織を修復する」
メイベルは醒めた目で端末をいじりはじめる。おそらく中央警察署とバスターズ・オフィスに連絡を入れているのだろう。
ノエルは刀のトリガーを絞った。流体鋼がみるみるうちに柄の中に戻っていった。今度は時間が逆行したかのようだった。
「屍者はどうすれば死ぬんだ?」
「死ぬ条件なんて決まってるものじゃないわ。ただ、屍者には寿命がないってことがわかってる」
そこで、メイベルはノエルを振り返った。
「ねえ、あなたさっき植物の話をしてたよね。ほら、ツツジナントカみたいな」
「ツヅフラジだ」
「そう、それ。あなた、毒物とか植物を嗅ぎ分けられるの?」
「……」
「なんで黙る?」
「ツヅフラジは俺の知識ではない」
「ああ……」
やっぱり、とメイベルは合点がいった。
「インストールされたのね?」
屍者は屍体が蘇ることで誕生する。その蘇生のプロセスにおいて、屍者の脳髄に広がった転生繊維に外部から特定の記憶や知識を植え付けることができる。蘇った屍者は人為的な記憶や知識を保持することになるのだ。
たとえば屍者に料理をさせたければ数万通りのレシピを書き込んでおいたり、教師をさせたければ教科書の全文や歴史をもれなく植え付けたりすればいい。
屍者はあまりに便利だったのである。
エデノア神皇国が〝大戦〟に使った屍者歩兵は、その一体一体で敵の小隊をまるごと一つ壊滅させることも可能だったという。
ただし、ただ単に怪力だったり、知識に優れていたりするというだけでない。屍者の持つ異能――骸冑が、戦場の光景を一変させたのだ。
「そろそろ骸冑を解除したらどうだ?」
「最後まで気を抜かないのが私のやり方なの」
「――しかし、電磁加速か……」
ノエルはまじまじとメイベルの左腕を見た。彼女は意外そうにノエルを見つめ返す。
「よく知ってるわね。あなたのボスはどうしてこんなにも偏った知識をあなたに書き込んで、それだけに飽き足らず、常識を欠落させてしまったのかしら。断言できる、あなたのボスはとんでもない極悪人よ」
「失礼が過ぎる……」
ノエルの呟きに、メイベルはふふっと笑った。
「どうした?」
「何でもないわ。ねえ、ノエル。私、あなたを認めてあげるわ。骸冑無しであの立ち回りは素直に感心したし。ちょっと――いや、かなり頭が固いところはあるけど、基本的にやるべきことはやってくれるし」
メイベルが改まってノエルに向き直り、左手を差し出した。青白い光を帯びた金属の手を。
「……握手か?」
「ええ。ようこそバスターズ・オフィスへ、ってこと」
メイベルがふわりと笑った。
だが、その手が握られることはなかった。
突然、二人の側で物音がした。ぱきぱき、という何かが砕ける音。
ノエルとメイベルは同時にそちらを見た。
そこには、確保対象のジョージ・ダンヴィルが屍体同然になっている――はずだった。
ダンヴィルに意識が戻ったというわけでもなさそうだった。だが、明らかな異変が生じていた。
赤と黒。グロテスクな色彩の塊が、ダンヴィルの口から這い出てきていたのだ。まさしく内臓のような赤さで、表面がてらてら光っている。
「なに、あれ」
生命を持っているとしか思えない動きで、くねりながらダンヴィルから出てこようとしている。
次いで、骨の欠片が穿った右目のうろからも、ゼリー状の赤が溢れてきていた。
ダンヴィルの中にいた何かが出てこようとする音。ぱきぱきというのは骨を内側から折っていく音か。
ノエルはすぐさま柄のトリガーを引いた。流体鋼の刃が伸びはじめ、刀身を形成した。メイベルもまた、右腕を支えに左手の平をダンヴィルから這い出る何かに定める。
赤黒い塊は、今や子供ほどの大きさまで外に露出していた。こんなものが体内に入っていたとは、一部始終を目の前で見ていても信じられない。
そして、変化が起こった。赤黒い粘液に、ぽっかりと一つ、穴が空いた。黒い虚無を覗かせ、規則的に収縮しはじめた。まるで呼吸の周期のように。
「ま、ッタく、ヴちのボ、スも酷ナコト、をサせ、るヨ」
そして、赤黒い塊の穴から、地の底に繋がっているのではないかと疑うようなおぞましい声が聞こえてきた。